安土桃山時代

安土桃山時代はいつから?年表や登場人物について!

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安土桃山時代ってイマイチわかりづらいですよね。

安土桃山時代とはどのような時代だったのか?どんな人物がいたのか?をご紹介したいと思います!

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安土桃山時代はいつから始まったのか?

安土桃山時代は、天正元年に織田信長が将軍・足利義昭を追放して室町幕府を倒したあたりから、慶長8年に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開くまでを指します。

 

西暦に直すと、1573年から1603年でざっと30年なんですよ。この間に色んな出来事がめまぐるしく起こるってすごくないですか?

 

平成も今年で30年。バブルに始まり現在に至りますよね。服装とかメイクが劇的に変わったり、国の総理大臣とかいったい何人変わったんだよとか。笑 結構シンクロする部分が多いと思います。

 

ざっと、年表にまとめるとこんな感じです。

 

主な出来事

天正3年

長篠の戦い。織田信長と徳川家康の連合軍が武田軍を撃破!

天正10年

本能寺の変が起こり、明智光秀の謀反により織田信長が滅ぼされる。

山崎の戦いで、羽柴秀吉が、明智光秀を倒して仇討ちを果たす!

天正13年

羽柴秀吉が関白になり、豊臣秀吉となる。

 

小田原の役で、豊臣秀吉が北条氏を破り全国統一!

慶長5年

関ケ原の戦い!徳川家康率いる東軍対石田三成率いる西軍の戦い。結果、東軍の勝利で終わる。

慶長8年

戦いに勝利した徳川家康が、征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く。

 

 

【天正3年】長篠の戦い。最強騎馬軍団の武田軍が織田信長にまさかの敗戦!?

長篠の戦いは、最強騎馬軍団と言われた武田軍が、織田軍にまさかの敗戦をした歴史的な戦いなんです!

 

戦国時代の戦い方って、馬にまたがって刀を振り回したりとか、そんなイメージなんですよね。それまでの戦い方を180度変えちゃったのが、有名な織田信長なんです!新し物好きな信長、戦い方も南蛮人から取り入れてしまったんですよ!

 

そこで登場するのが「火縄銃」です!火縄銃はもともと、南蛮人から種子島に伝来された武器なんですが、火縄なんで撃つまで時間がかかるんですね。

そこで考えるわけです。「三段で撃てば効率がいいんじゃない」って。足軽を三段に分けて、一人の足軽が銃を撃ち終わると、すぐさま二人目の足軽は前へ進んで撃つわけです。信長らしい効率的な考えだと思います。

 

ところがこの三段撃ち、嘘だったのではと言われ始めてるんです!

 

火縄銃って、実際殺傷力がないんです。殺傷力があるのはせいぜい200メートルぐらいで、敵に命中させるには100メートルほど近づかないとだめなんです。だから接近戦には有利なんですよ。

 

私は銃そのものの威力じゃなくて、「音」が勝敗を決めたんじゃないかと思うんです!火縄銃って大量に揃えるとかなりの爆音!けれど一つだと大したことないんです。武田軍の馬はこの「音」にびっくりしたと考えられます!

 

私は火縄銃の「音」説のほうが信憑性があると思うし、信長が「音」を計算にいれていたら凄いと思います!

 

 

【天正10年】本能寺の変!明智光秀は現代でいうパワハラを受けていた?

本能寺の変。みなさん一度は聞いたことがあると思いますし、最近だとエクスプロ―ジョンのノリのいいダンスで有名ですよね。笑

 

主な登場人物は、織田信長と明智光秀に絞られるんですが、二人の関係性が現代の「パワハラ」に通じるものがあると私は思います。

 

そもそもなぜ寺などに信長がいたんでしょうか?信長は、京の都上洛の際には必ずこの「本能寺」に宿泊していたんです。言ってみれば常宿ですね。

けれどこの時はいつもと違うんですよ。

天下統一目前だったんです!任命権のある天皇に「征夷大将軍」にしてよってお願いしに来たわけです信長、ほっとしてたんですね。もう少しで自分将軍じゃんって。笑

 

すでに武田は滅んでいるので、敵はいないわけです。完全に油断しており、肝心の「足元」を信長は見落としてたんです。

 

信長は、近所に住む公家や僧侶を招いて、茶会や囲碁をやったりいい感じの気分に浸ってました!ところが来客も帰宅して、深夜になったところで周辺がざわつき始めるんですね。なんとそこにいたのは、兵を従えた甲冑姿の「明智光秀」だったんです!

 

信長はびっくりします!「なんで光秀こんなところにいるの?」って。この後あっけなく自害に追い込まれるんですよ。

 

信長は確かに戦術は抜群だし、西洋文化など新しい物をどんどん取り入れて、流行にも敏感だったけれど人の気持ちがわからなかったり、気に入らないと突然キレてしまったり。予測不可能な面があったんです。

 

イライラの矛先が、光秀にいってしまうんです。光秀も優秀でしたが、堅物で口がうまくないんです。お世辞とか言えないんですよ秀吉みたく。笑

そんな光秀を信長は疎ましく思ってきて、段々叱咤や暴力が多くなります。

他の家臣たちの前で、「このキンカン頭」とか叩いたりしたんです。まさにパワハラですよね。

家臣なので光秀はじっとこらえるんです。でも段々鬱屈した思いにかられ信長への恨みがつのってしまいます。光秀は今でいう、うつ病になっていたのではと。

 

信長は信長で、キレやすい、人の気持ちを考えない。現代でいう「発達障害」だったのではと私思うんです。発達障害の上司とうつ病の部下。最悪の組み合わせですよね。

しかも、光秀にとって信長は年下の上司。「もうこの野郎」って感じです。苦笑

 

私はパワハラ以外にも、もう一点本能寺の変に結びついたことがあると思います!

それは信長の正室・濃姫の存在です!この濃姫、なんと光秀の父方のいとこなんです!私も何年か前に知ったので驚きました!

 

幼き日には一緒に遊んだりしてたんです。互いに大人になり、信長の正室となった濃姫前に、信長の家臣となった光秀が現れるんです!運命的ですよね。笑

 

信長には正室以外にも側室がいたので、濃姫との仲はあまり良くなかったみたいです。二人の間には子供はいませんし。信長の子供はすべて側室の間に生まれただけです。

 

しかしそこは男です信長。いくら妻と仲が良くないとはいえ、家臣である光秀と濃姫がいい感じに接していると、気にくわないわけです。私のイメージだと大河ドラマの「功名が辻」の故・坂東三津五郎さんと和久井映見さんです!二人で何も言わず見つめ合うシーンとか切ないものがありました!

 

信長の光秀に対するパワハラは、発達障害以外にも、「男の嫉妬」が含まれていたと私は推測します!様々な負の要因が重なって、本能寺の変という悲劇が起きたと考えられるんです。

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織田信長の死をきっかけに秀吉のサクセスストーリーは加速した!?

信長亡き後、謀反人となってしまった光秀を、いち早く討ち取ったのは秀吉なんです!

秀吉はもともと農民の子で、幼名は日吉丸。年代によって名前が変化するんです。この時は「羽柴秀吉」と名乗っています。

 

秀吉はこの頃、備中の高松城にいました。秀吉の戦の最中で主君信長の訃報を聞いたわけです。そこから仇討ちに燃えるんですよ。「おのれ光秀め!」って。

 

秀吉は電光石火の如く動き出します。高松城は現在の岡山県にありましたが、岡山県から一目散に大阪府と京都府の県境にあたる山崎までたどり着いて、光秀と相対するんです!羽柴軍の勢力が3万数千に対し、明智軍の勢力が1万数千。勝敗は歴然ですよね。

 

思わぬ形で好機がめぐってきた秀吉。山崎の戦いは結局短時間で収束するんです。負けた光秀は敗走を余儀なくされ、京の都の小栗栖ってところで、農民に竹槍で襲われてあっけない最期をむかえたんです。私は謀反人だけど光秀嫌いになれないですね。

 

かたや秀吉、その後は小田原の北条氏を破って信長の夢だった天下統一を果たします。でも、出生が農民だから征夷大将軍になれないんですよ。

そこで秀吉考えました。「だったら公家の藤原氏の養子になっちゃえばいいんじゃない」って。笑

将軍の代わりに「太閤」という位をもらって、姓も羽柴から「豊臣」になったんです。

 

 

【慶長5年】決戦関ケ原!始まりは石田三成とその他家臣たちとの内輪もめだった?

関ケ原の戦い。年表で言えば終盤で、主な登場人物は徳川家康と石田三成です!

 

最近だと同名タイトルの映画が上映されましたよね。

この関ケ原、なんと内輪もめが原因なんです!

 

天下を取って太閤まで登りつめた秀吉。しかし61年の生涯を閉じます。その間に淡々と天下の座を狙っていたのが徳川家康です。秀吉の忘れ形見・秀頼はまだ7歳。そこで、補佐役として権力の中枢にいたのが秀吉の忠臣・石田三成です。

 

家康に取ってみれば三成が邪魔なんですよ。三成がいなければすんなり天下を取れるから。

 

三成は、知将と言われるほど優秀で、しかも秀吉から絶大な信頼を得ているし、若くてイケメン。だけど、城であれこれ命令するだけのポジションで、前線では戦わない官僚武将って感じなので、まわりの家臣たちから嫌われていたんです。私のイメージでは大河ドラマの「利家とまつ」の原田龍二さんのイメージが強いですね。いつも眉間に皺が寄っていました。笑

 

秀吉の死後も豊臣家への忠義は変わらない三成ですが、家康の不穏な動きを察知します!「あのじいさんもしかしたら豊臣転覆を狙っているんじゃない?」って。

 

家康は家康で、秀吉の死後待っていましたと言わんばかりに、それまで禁じられていた各地の大名とかに、領地を勝手に与え始めます。

 

三成からしてみたら、「なに勝手にやってんのじいさん!」って感じですよね。

それから関ケ原の戦いに発展してしまします。

 

勝敗は、あっけなく家康率いる東軍が勝利します!家康って抜け目ないっていうか根回しが凄いんですよ。三成と敵対していた、秀吉の正室だった北政所や秀吉の家臣だった加藤清正、福島正則ら武闘派を取りこむことに成功。

 

清正や正則は前線で戦う武将なんで、三成に対して汗をかかずあれこれ指図してくるから気にくわないんですよね。北政所も、三成を推す秀吉が寵愛した淀殿が嫌いなわけです。

 

 

それを傍から見ていた家康。今だ!ってあっという間に味方につけて、信長や秀吉があんなになりたがった征夷大将軍にあっさり任命されて、江戸幕府まで開くんだから家康は運を持ってますね!

 

結局のところ、関ケ原の戦いは三成の人望のなさから引き起こされてしまった戦いと言えます。

 

 

まとめ

1. 安土桃山時代は、織田信長が室町幕府を倒してから始まった。

2. 長篠の戦いは、「音」が勝敗を分けた。

3. 明智光秀は織田信長からパワハラを受けていて、本能寺の変が引き起こされた。

4. 織田信長の思いがけない死によって、豊臣秀吉が天下を統一した。

5.関ケ原の戦いは、豊臣家の内輪もめから始まり、そこに付け込んだ徳川家康が勝利を収めて征夷大将軍に任命される。その後江戸幕府を開く。

 

一見するとわかりにくい安土桃山時代ですが、こうして見てみると30年間にぐっといろんなことが凝縮されていますよね。激動の時代だと私は思いました。

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