戦国時代

明智光秀と織田信長は不仲?本能寺の変はなぜ起きたのだろう?

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群雄割拠の戦国時代を駆け上った覇者・織田信長。そのかたわらにありながら織田信長を打ち滅ぼした明智光秀。

敵は本能寺にあり!

明智光秀は誰もが予想もしていなかった時に反旗を翻したと言われます。織田信長と言えばヒーローでありながら、暴虐で怒りっぽいというイメージが思い浮かびます。

ですが織田信長が日本統一目前だったということは、リーダーシップにすぐれた人物だったのでは?家臣だった明智光秀って、どうして織田信長を倒すことになったんでしょう?

今更だけど知っておきたい!

ちょっと歴史をのぞいてみたいと思います。

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明智光秀は不遇とガマンの人!

明智光秀は優秀だった?

本能寺の変をおこすことになった明智光秀は、智将と言われる有能な人物でした。

明智光秀が織田信長に仕えるようになったきかっけは室町幕府の政変です。1565年に室町幕府13代将軍・足利義輝が暗殺される事件が起こりました。義輝の弟・足利義昭は将軍になるための後ろ盾になるよう各国の武将に働きかけをします。

もともと明智光秀は足利義昭から織田信長へ遣わされた使者でした。義昭・信長どちらにも遣われる立場でしばらく働きましたが、最終的に織田信長に仕えることになりました。

両家から必要とされたほど、交渉上手な人物だったんですね。交渉術の達人ということは、人の心を読む術も身につけていたのではないでしょうか?

実際はどんな人だったのでしょう?

明智光秀はお坊ちゃん?

明智光秀の産まれた年・父親などは諸説あって、はっきりとはしていません。最有力の説が1528年、美濃の斉藤道三家臣の土岐氏に産まれたというもの。土岐氏は清和源氏の流れで美濃国の守護職を200年余りも続けていた名家です。

ですが時代の流れで明智光秀にも浪人時代があったようです。上品な苦労人というイメージでしょうか?

かなり勉強家で浪人時代には鉄砲術や和歌なども身につけていたそうですよ。

えっ!?本当はかなりのおじいちゃん?

明智光秀について「本能寺の変で織田信長を打ち滅ぼした人」ということしか知らなかったので、なんとなく信長より若い人なのかと思っていました。

ですが、信長が1534年生まれ、光秀1528年生まれということは6歳違いなんですよね。光秀がけっこう年上でした。

さらに光秀の謎の生年ですが、1516年とする説もあるということ。その場合は年齢差18歳。もう、親子ほどの年の差になってしまいます。

本能寺の変の時、信長は49歳。もし18歳年上だったら、光秀はすでにおじいちゃんと言える年齢。

隠居してもよさそうな年で謀反って、よっぽどの事情があったのでしょうか?

 

 

織田信長は本当に暴君だった?

織田信長の暴虐伝説!

「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」

信長というと、怒りっぽく・容赦なく・神も仏も信じない。そんな非情なイメージがあります。コワイ逸話も盛りだくさん。

比叡山の焼き討ちではすべての堂宇が焼き払われて、仏僧だけではなく一般信徒も容赦なく殺害されただとか。一向一揆の制圧の際には数万人単位の処刑が行われただとか。

様々に恐ろしい逸話が知られていますが、これらは戦国時代の武将としては飛びぬけて残酷というほどではなかったと言うことなのです。

戦国時代、こわい……。

織田信長のヒューマンエピソード

武将としては部下にも苛烈だった織田信長ですが、心温まるエピソードも多いです。

「盟約・和睦を自分の側から破ったことはない」とか、「秀吉夫婦のけんかの仲裁をした」とか、とってもハートフル。

上洛の際にたびたび見かけていた「山中の猿」と呼ばれていた頑者(何らかの障害がある者)に同情した信長。

山中の民を呼び集めて反物を渡し「その者のために小屋を建ててやってくれ、その後も麦・米が採れた時に分け与えてくれたら嬉しい」と言ったとか。

民には優しい君主であったようなのですが、明智光秀にとってはどうだったのでしょう?

 

 

織田信長と明智光秀のバトル!?

扇でバチン!殴られた光秀

駿河拝領の礼に安土を訪れた徳川家康を接待する役を命じられた光秀。

信長は「金を使いすぎる」と叱りつけ、小姓の森蘭丸に扇の要で殴らせたとか。

信長から直接ならまだしも、小姓に叩かれるのはかなり腹が立つ気がします。

それでもじっと我慢の光秀。

やられっぱなしの光秀

光秀が「他家から引き抜いた人材を元の家へ返すように」との信長の裁定を聞き入れずに呼び出され、頭を叩かれてカツラがとれたことを怨みに思ったとか。

カツラ問題は現代でも慎重な扱いが必要な件ですし、気持ちもわからなくはないかも……。

明智光秀は信長から散々な目にあわされて、怨みつのって謀反をおこしたという説が多々あります。まあ、バッチンバッチン頭を叩かれていたら腹も立つでしょう。

ですが、光秀がひどい目にあわされたという話がたくさん載っている書物たち。じつはどれも史実かどうかわからない、あやふやなものだそうです。

そう聞くと、智将と言われる明智光秀が後先考えずに怨みを晴らす・・・それはなんだかすこし違和感はあります。

本当は怨みを晴らしたかったのか?純粋に天下を取りに行ったのか?本能寺の変の当日には、その理由がわかる何かはあったのでしょうか?

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本能寺の変は運命だったのか?

明智光秀が命じられていたこととは?

本能寺の変の前月、1582年5月。

織田家の有力家臣はほとんどが京都から離れており、信長のそばに残っていたのは明智光秀だけでした。

遠国に赴いていた家臣のうちの一人、備中へ進軍していた羽柴秀吉から信長に出馬要請が届きました。

徳川家康の接待役を任されていた光秀も出陣を命じられて、一旦、自分の城に戻ります。

そこから軍を整えて中国地方に向けて出発。……と見せかけました。

その時、日本は動いた?

6月1日、丹波の亀山城から出陣した明智光秀は、全軍がそろった頃に重臣だけを集めて軍議を開き、信長を討つことを初めて知らせます。

その後、京へ向かう時に、重臣以外の兵たちには「信長公が陣容や馬などを確認すると言われたために公のもとへ向かう」と説明したと言われています。

隠密に着々と誰に知られることもなく、13000の大軍が本能寺に向かいました。

敵は本能寺にあり!

京都の桂川に明智軍が到着したのは6月2日早朝。

明智光秀は兵に戦闘準備を命じました。街なかで火縄銃の準備までさせました。

軍勢の多くは信長の命令で徳川家康を討ちにいくものと思っていたというほど、誰も光秀の策略に気づいていませんでした。

敵は本能寺にあり」と宣言したかというと、しなかったそうで。有名なこのセリフは「明智軍記」という書物における創作だということです。ちょっとがっかり。

謀反をまったく警戒していなかった織田信長。明智光秀は難なく本能寺に入り込み、わずか100人たらずだった信長の近習を討ちました。

信長は自ら建物に火を放ち、その火勢は物凄く、信長の死体は見つからなかったそうです。

本能寺の変は大博打!

明智軍は織田信長を討った後すぐに、やはり京都にいた信長の嫡男・信忠も急襲しました。父と同じく謀反に備えていなかった信忠も光秀軍に押されて自刃しています。

ですが、信長も信忠も、その首を見つけられることはありませんでした。そのせいで、明智光秀が織田をたしかに討ち取ったと信じる者が、ほぼいなかったのです。

明智光秀が方々に信長を討ちとったと知らせて、天下を取るため誘いをかけても話に乗ってくるものはいませんでした。

明智謀反の知らせを聞いた羽柴秀吉は「信長公も嫡男も無事に逃げ延びた」とうわさを流したそうです。京都近くでも信長が死亡したのかどうかわからず、数日間は情報が錯綜して大混乱。

謀反が完璧で隠密裏にすすんだために、かえって明智軍は窮地に立たされました。

新政権をととのえる時間もないまま羽柴秀吉の軍と戦うことになり、明智軍17000、秀吉軍27000の戦闘の後、明智光秀は敗北することになったのです。

本能寺の変、明智光秀にとって最初で最後の大博打だったのでしょう。ですが、賭けに大敗した光秀の謀反は「三日天下」と呼ばれる悲しい結末になりました。

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本能寺の変の裏には黒幕が隠れていた!?

明智光秀と本能寺の変について見てくると、謀反を起こしたとしても世の中は光秀に良い状況には動いていません。というか、自分で自分の首を絞めています。智将・明智光秀がここまで的外れな暴挙にでることに疑問を感じます。

実は本能寺の変には黒幕がいたという説もあるのです。

室町幕府再興をねらった足利義明が昔の恩を返せとばかりに信長討伐を命じたとする説があり。また朝廷黒幕説もあり。

朝廷が与える官位をどうするか信長と話し合いをしていたのですが、正式な解決が出ないままに本能寺の変が起きています。

信長が朝廷をないがしろにする返答を準備していたために、朝廷側が信長を討つ必要があったと見る向きもあるそうです。

決定的な証拠は見つかっておらず、光秀の本意もわからないまま戦国の世は終わりました。

 

 

まとめ

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・明智光秀と織田信長は親密とは言い難い

・本能寺の変が起きた理由はやぶの中

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戦国時代最後の謀反と言われる本能寺の変。明智光秀自身が語ったことが少なすぎて、光秀の本心は知れませんでした。

織田信長は聖人君子と評される人物ではなかったようです。

しかし、付き従うに足る傑物であったことに間違いはありません。明智光秀がその人物像をどうとらえて、どのように感じていたのか。考えているとまだまだ謎が多いことがわかりました。

これから光秀のことを研究していけば世紀の新発見があるかもしれません。

それを発見するのはあなたかも!?

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