戦国時代

明智光秀の最期!死因はまさかの◯◯で大ダメージだったコト(笑)

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敵は本能寺にあり!

明智光秀、天下布武の完成目前であった織田信長に反旗を翻し、一度は天下をとった男。ところが光秀が信長を討った理由も、光秀の最期の様子も、いくつも伝承があってはっきりしません。

ハッキリしないの好きじゃない!ハッキリさせてスッキリさせたい!そう思いませんか?せめて事件の外枠だけでもキッチリ知っておけばスッキリするかも?

ということで一通りのことを調べてみました!

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明智光秀は優秀だった?

光秀の武勲はいかほど?

法令や朝廷儀式に詳しかったため信長に重用された明智光秀。信長留守の間は京都で政庶務を任されるなど、智将として有名でしたが武勲もかなり立派です。

信長の戦の中でも有名な「金ヶ崎の退き口」というものがあります。裏切りに会い撤退を余儀なくされた信長が、追撃を討ちはらう役目を羽柴秀吉とともに光秀に命じました。その命令を成功させたことで名を挙げたようです。

比叡山の焼き討ちの実行部隊として、一向一揆の殲滅戦、石山合戦と続々と功績をあげて丹波国攻略を成功させたことで信長に絶賛されています

できる男・明智光秀。

後に謀反を起こしたのも優れた知力・武力があったからなのでしょうが、それが良かったのか悪かったのか……。

織田信長の懐刀が翻った!?

そもそも明智光秀は信長の家臣の中でも重鎮、出世株でした。

一介の浪人だったところから大出世して35万石の大領を受けます。さらに丹波一国を任されたため、その部下にあたる織田家与力衆の知行もあわせると240万石の大勢力であったとも。

これは織田家臣の中で最大の勢力でした。動かせる兵力の大きさも、本能寺の変へと光秀を導いた要因の一つなのでしょうか。

そうした遠因は見えるものの、じつは本能寺の変の原因は、はっきりとはわかっていません。

明智光秀はなにを思って主君を討ったのか。死人に口なし。もしかしたら何かの謀略に巻き込まれたのかも……。なんてことも思いつつ、もう少し光秀の動きを見てみます。

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本能寺の変の後、光秀は何をした?

織田信長を倒し天下人に!

織田信長を討ちとった明智光秀はそのまま二条御所に攻め込み、信長の嫡男・織田信忠も自刃に追い込みました。

これで天下人と呼ばれるのは光秀!……になるのかと思ったら、雲行きが怪しくなっていきます。謀反を起こした明智光秀には、まだまだ仕事が山積みでした。

織田信長・信忠父子の残党を追いつつ、織田信長の本拠・安土城に入城せねばならず、近江を自分のものとしてしっかり押さえなければならない。目が回りそうなおおわらわです。

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  • 安土城へと通じる橋は破壊されて作り直しに三日もかかる
  • 近江の平定にも時間がかかる
  • 残党狩りにだって人手が必要
  • 仲間になってくれるはずだった、明智家と姻戚関係にもある細川幽斎親子は信長への弔意を示して光秀には会ってもくれない。

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筒井順慶・中川清秀・高山右近なども羽柴秀吉についてしまうし、もう散々です。

新政権をととのえる暇もなく、味方も少なく、さらに羽柴秀吉の軍勢が派遣されていた戦地から取って返して、迫ってきています。明智光秀、累卵の危機に直面します。

兵はどれくらい残っていたの?

明智光秀は中国地方から取って返してきた羽柴秀吉の軍と京都西部の山崎という地で睨みあうことになります。山崎の戦、天王山の戦いなどと言われる合戦です。

明智光秀の軍勢・10000から16000。

羽柴秀吉の軍勢・20000から40000だったと言われています。

中国地方から戻ってきたはずなのに進軍の勢いが凄まじい秀吉軍に押されるようにして、明智光秀は体制を十分に整えることが出来ませんでした。

そのままの不安定な状態で合戦が始まったのです。

光秀はさらに攻め入ったか!?

地の利を活かしてなんとか防戦していた明智光秀の軍でしたが、秀吉方からの奇襲によって、もろくも崩れてしまいます。雑兵が逃げ出して戦場は混乱に陥り、動揺が全軍に広がって明智軍は総崩れになったのです。

明智軍は勝竜寺城へ退却します。

秀吉軍も前線の消耗が激しかったため追撃はそれほど苛烈ではなかったのですが、明智軍からは脱走兵が相次いで残ったのは700名余りだったと言います。

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あわれなり、光秀の最期!その死因は?

戦死?刑死?割腹?じつは悲しい本当の死に様

山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた光秀は、勝竜寺城へと逃げ落ちましたが、そこからも逃げ出すことになりました。

再起をかけて本拠の坂本城へと出発・・・!深夜を選び少数での軍行でした。それが仇となったのか、落ち武者狩りの農民に襲われ竹槍で重傷を負わされます。

よりによって竹製の槍。せめて金属であってほしかったと思うのは私だけでしょうか。

傷をかばいながら小栗栖村というあたりの竹藪に逃げ込み、自刃。介錯した家臣も追って腹を切ったそうです。光秀の首は隠されていたのですが、落ち武者狩りの者たちに取られたといいます。

光秀最期の地とは?

明智光秀が自刃した小栗栖村(現・京都市伏見区小栗栖)には今も竹藪が残っています。

その名も「明智藪」。

藪へと分け入る小道の脇に、小さな石碑が建つだけで観光地化されているわけでもなく、昼でも薄暗い場所です。そんな明智藪のある本経寺には光秀の供養塔も建てられています。

そこから少し離れた場所に「光秀の胴塚」もあるのですが、個人の私有地の中にポツンと石碑が建っているだけという意外に見逃しやすいものだそうです。

最期の地・供養塔・胴塚と、どれをとっても派手さがないのが明智光秀らしいと言えるのかもしれません。

光秀の首は見つからなかった!?

光秀の最期なのですが、確かに明智光秀の首は本能寺でさらされていて首塚も建てられています。

ところが光秀の首は三つも出たうえに、光秀の所領近くまで持ち帰られていたとする説もあるのです。

その説とは丹波亀山の谷性寺まで持ち帰られた首が三つ、ただしどれも顔面の皮が剥がれていたというもの。それではいくら眺めたところで、首の持ち主が光秀だったのかどうかわかりようもありませんね。

首塚に眠っているのは光秀の首なのか、はたまた……?

光秀は死んでいなかった!?

さらに光秀は生き延びていたとする説まであります。

じつは小栗栖の明智藪で死んではいなかった、南光坊天海という僧として徳川家康の幕僚として活躍したというのです。

この天海というお坊さんには、よくわからないところが多いのだそう。

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  • 出家する前のことは弟子にも話さなかった。
  • 天海の甲冑・鉄砲が現存するため前身が武将であった可能性は高い。
  • 徳川家康が天海と初めて会った時に旧知の間柄のように親しく語り合った。

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そのような点から天海=明智光秀説がささやかれているそうです。

死んだと思われて大転身。ロマンがありますね!

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三日天下は夢と消え

本能寺はなくなったの?

焼け落ちた本能寺の一部は信長の墓所とされ、土地の多くは寺として再建されていましたが、豊臣秀吉の命で移築されています。

その後も、天明の大火や蛤御門の変などで焼失して、そのたびに再建されています。

現在も本能寺内には信長公廟があり、訪れる人も多くあります。

謀反人の墓といえども……

明智光秀の墓は首塚・胴塚しかないのかと言えば、そうではありませんでした。滋賀県大津市の西教寺に明智家の墓があり、手厚く祀られています。

信長の比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失してしまいました。焼き討ち後、明智光秀が坂本城を築いたころに、近隣であった西教寺も再建し光秀は檀徒になりました。

寺の再興にもずいぶんと力を貸していたそうです。現在の西教寺の総門は坂本城の城門を移築したものだそうです。明智家の墓とともに光秀をしのぶ手掛かりになりそうですね。

 

 

明智光秀の最期についてのまとめ

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  • 手回し不足と情報操作不足で味方を減らしてしまった!
  • 追い詰められた後の自刃で死亡したはずだが、諸説紛々!

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せっかく天下を取ったと思ったのに、たった数日で攻め滅ぼされてしまった明智光秀。

後世から歴史を覗けば、光秀のあれがダメだった、ここが手抜かりだったといくらでも突っ込みを入れることは出来ます。

ですが当時は情報を得るだけでも数日、数週間と時間がかかる時代。人心掌握だって義理や好き嫌いでうまくいかないこともあるでしょう。どこか一か所だけでも条件が変わっていれば明智光秀が生き残っていた可能性はあるのです。

いえ、もしかしたら本当に天海僧正や、もしかしたらもっと別の人物として生き延びたのかも?

なぜか残り続ける明智光秀の首の謎、ある意味ロマンでした。

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