江戸時代

天草四郎の都市伝説!実在しなかった説もあるってマジ・・・??

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歴史上、国が困難な時期には何故か不思議な力を持つ人物が現れ、その不思議な力と圧倒的な指揮で人々を救う奇跡が起こってきました。

15世紀、英仏百年戦争時にイギリスに攻め込まれていたフランスに、神の言葉を聞いたという16歳のジャンヌ・ダルクが現れ、怒涛の快進撃で瀕死のフランスを救いました。

 

そして17世紀の日本でも、不思議な力を持った少年が、過重労働や重税、迫害や飢饉に苦しむ農民を率い「島原の乱」という一揆を起こしました。

 

今なお謎めいた魅力で人々を虜にする、天草四郎です。

歴史上に突然現れ、あっという間に散っていった彼には、たくさんの伝説が残されています。

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天草四郎が活躍した背景

天草四郎(本名・益田四郎時貞)は1637年、九州の天草で起きた日本史上最大規模の一揆・島原の乱で総大将を務めました。この一揆は島原藩のある肥前島原半島と、唐津藩の飛び地・肥後天草諸島の領民が、藩に対して起こしたものです。

 

当時この地方では、領主が百姓を酷使し、重税が課せられており、農民の生活が困窮していました。この地方は元々キリシタン大名の所領で、領民のキリスト教信仰も盛んでした。しかし、藩主が変わるとキリスト教徒の弾圧も始まり、改宗を拒んだ領民が拷問にかけられたり、処刑されており、多くの人々が苦しい思いをしていました。

 

そんな最中、とある「予言」の時期に、不思議な力とカリスマ性を持った少年・天草四郎が現れ、領民に大きな期待を寄せ、総大将とし一揆を起こしたのです。

 

 

天草四郎の都市伝説

①     誕生を予言されていた!?

前述した通り領主が変わると、領地のキリスト教徒は弾圧され、当時天草地方にいた神父・ママコスも追放されることになりました。

 

天草を去る時、ママコスはこんな言葉を残しました。

 

「当年より五々の数をもって天下に若人一人出生すべし。その稚子習わずして諸学をを極め、天の印顕わるべき時なり。野山に白旗立て諸人の頭にクルスを立て、東西に雲焼る事有るべし。野も山も草も木も焼失すべきよし。」

 

この予言がされたのが1614年。そして1637年、天草に不思議な噂が流れます。

 

ママコスが言った「五々の数」とは、5x5=25、25年後という意味ではないのか。予言の年から25年であればそれは1639年、予言の年が近付いているということではないのか。

 

そしてその「若人」は、天草大矢野島に住む、小西行長の浪人の息子で、16歳の益田四郎という色白の美しい少年のことではないか。

 

確かに四郎は、5歳の時に誰にも習っていないのに読み書きができたという噂が流れていました…

 

② 数々の奇跡を起こした

ママコスの予言によって神格化され始めた四郎には、数々の奇跡を起こしたという伝説が残っています。

 

・彼に触れられた盲目の少女が視力を取り戻した。

・海の上を歩いて渡ることができた。

・四郎が祈ると一羽の鳩が天から舞い降り、卵を産み、その卵の中から聖書が出てきた。

・枝に止まっているスズメに呪文をかけると動かなくなり、四郎がそのスズメを持ち帰った…

 

ちょっと「え?笑」となってしまうような逸話もありますが、当時の人はそれはそれは驚いたでしょう。

 

そしてこれらの話の幾つかは、キリスト教の四つの福音書に書かれているイエス・キリストが起こした奇跡に酷似しているのです。勿論当時のキリシタン達もキリストに対する知識はあったはずなので、まさに四郎は神の使い!と信じてしまうでしょう。

 

ただ、父親が裏でトリックを使って「奇跡」を起こし、四郎は救世主であると信じこませていたという説も残っています。

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③ 豊臣秀頼のご落胤…?

天草四郎は、小西行長の浪人・益田好次の息子とされていますが、なんと豊臣秀頼の子という説まで残っています。

 

1615年、大坂夏の陣が起こり豊臣家は滅亡します。通説では秀吉の息子・秀頼も落城する際に自害したとされていますが、なんと生き延びて鹿児島に逃れたのではないかという説が残っています。

 

そして、江戸時代にはこんな歌も流行しました。

 

「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」

 

真田とは真田幸村の事。豊臣秀頼も真田幸村も、大坂夏の陣で亡くなったはずです。しかし鹿児島には秀頼の墓というものも残されていますし、大阪夏の陣後、どこからか浪人が流れ込んで集まり住み着いたという言い伝えも残されています。

 

しかも、天草四郎が一揆軍の総大将として使用した馬印(大将の居所を示す目印)は「ひょうたん」だったのです。「ひょうたん」は豊臣秀吉が使用した馬印でした。

 

更には幕府が島原の乱について残した記録には、「天草四郎は豊臣秀頼の子」と記されていました…

 

幕府は島原の乱を起こした者達、女子供問わず皆殺しにしました。四郎は秀頼の子と分かっていたから、豊臣の血を今度こそ根絶やしにするために関係者を全員皆殺しにしたのでしょうか。

 

④ 実は生きていた…?

島原の乱の最中、天草四郎率いる農民軍は原城で籠城戦を繰り広げました。その原城は海に面しており、お城の下から地下道が発見されています。

 

四郎はその地下道から生き延びて、海をわたり、フィリピンに逃げたのではないかという説も残っています。

当時フィリピンには、徳川家康に追放されたキリシタン大名が作った「日本街」がありました。そしてそのキリシタン大名は、豊臣家の者でした。

 

豊臣家がフィリピンから政権奪回を狙っていたとしたら、かなり壮大なお話です…

 

 

天草四郎は実在しなかった説もある?

そもそも「天草四郎」という人物は存在しなかったのではないかという説が、2015年熊本大学名誉教授の吉村豊雄氏により唱えられました。

 

「天草四郎」という人物は存在せず、複数の少年からなる「グループ名」だったのではないかというのです。

確かに幕府の記録にも、一揆をおさめた幕府軍が四郎の首を持ってこさせた時、背格好の似た少年の首が複数持ってこられたと残っているのです。

 

実像があまりにもぼんやりしているし、その最期もはっきりとわかっていません。四郎の母親に、とある少年の首を見せた時に泣き崩れたため、その首が四郎のものとされましたが、一言も「四郎の首である」と断定したという記録は残っていません。

 

となると、「天草四郎」という人物は、島原の乱を起こした首謀者達が作り上げた架空の人物という説も頷くことができるようになってきます。

 

一揆を起こした主導者達にとっては、改宗した元信者達をキリスト教へ再改宗させ、島原の乱を起こす原動力とする為には、天草四郎のようなカリスマ的な人物が必要でした。

つまり、天草四郎は架空の人物でありながら、原動力の源となるよう、あたかも実在しているかのように見せられていた…ということになります。

 

 

まとめ

さて、ここまで天草四郎にまつわる都市伝説を見てきました。

 

  • 現れることを予言されていた
  • キリストを彷彿とさせる奇跡をいくつも起こした
  • 豊臣秀頼の子供だった
  • 生き延びて海外へ行った
  • そもそも存在していない

 

信憑性が低い説も確かにありますが、歴史の舞台に登場した時から去るまで、全てが謎めいていて本当に好奇心を刺激させる人物です。

 

私が一番最初に天草四郎に興味を持ったのは、金田一少年の事件簿シリーズの「天草財宝殺人事件」という話を読んだ時でした。天草地方で、四郎にまつわる財宝を巡って事件が起こるというストーリーですが、実際に天草を取材されて描かれた話なので、リアリティがあって本当にドキドキしました。

 

そして現在、文化庁は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、長崎県と熊本県にある教会、キリスト教に関わる史跡、文化財を、ユネスコの世界文化遺産への登録を目指す取り組みを進めています。(2017年9月に、国際記念物遺跡会議(ICOMOS)により現地調査済み)

その中には勿論、島原の乱の舞台となった原城跡も含まれています。

 

天草四郎のミステリーが、再度注目を浴びる日もそう遠くはないでしょうね。

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