江戸時代

幕末から明治維新の流れについて。

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[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]今回は幕末から明治維新までの流れを見ていくよ[/voice]

「日本の歴史では一番何時代が好き?」と質問すると、多くの人が「戦国時代」か「幕末」と答えるのではないかと思います。私も一時期幕末にどハマりした時期がありました。(大河ドラマが「新選組!」だった時です)

幕末といえば「寺田屋事件」や「池田屋事件」と有名な出来事が目白押し、そして坂本龍馬や新選組など歴史のヒーロー達が数多く活躍しました。

今回は幕末から明治維新までの時代の流れを見ていきたいと思います。

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幕末から明治維新までの流れ

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]幕末はペリー来航から始まるよ~[/voice]

まず、簡単に幕末から明治維新までの流れを並べてみます。

  1. ペリーが浦賀に来航
  2. アメリカとの不平等条約のもとの開国
  3. 徹底的な攘夷活動
  4. 開国&倒幕派の台頭による大政奉還
  5. 戊辰戦争勃発〜終結

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"] 幕末にはこんな歌が流行りました

「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず」

[/voice]

上述した歌は黒船来航時に人々の間で流行っていた歌です。

1853年(嘉永6年)、米国東インド艦隊司令官のペリーが黒船(軍艦)を率いて浦賀沖に現れました。威圧的な態度で日本に開国を迫り、この時から幕末の動乱が始まったとされています。

「上喜撰」とは宇治の高級茶のことで、黒船=蒸気船にかけられています。お茶のカフェインと、軍艦の不安とで眠れないのをかけた、非常に面白い和歌だなと思います。「四杯」と詠まれているので蒸気船は4隻だったのかと思いきや、実は蒸気船は2隻で、残りは帆船でした。

この幕末の期間ですが、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までと言われています。計算するとなんとたったの16年しかないのです!

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"] 幕末はたったの16年しかなかったのか・・![/voice]

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]一体この短い間に日本では何が起こっていたのか??詳細を見ていこう[/voice]

 

 

1,黒船来航!日本大ピンチ!!その時幕府は…??

そもそもペリーはなぜ日本に開国を求めてきたのでしょうか?

理由は大きく2つあります。

[aside]

  1. アメリカ貿易拡充のため日本の港が必要だった
  2. 日本へアメリカの捕鯨船が漂着したときに国交が無いと不便だった

[/aside]

ペリーがやってきた!

アメリカは当時太平洋を開拓し、東アジアとの貿易拡充を狙っていました。そこで燃料や水、食料の補充のために日本の港が必要だったのです。

またアメリカ国内でも産業革命が起こり、米国内では機械の潤滑油やランプの燃料に鯨の油が大量に必要でした。そのため北太平洋上で捕鯨をしており、万が一日本へ捕鯨船が漂着した場合、国交がないと不便だったからです。

日本は1639年ごろから「鎖国」政策を取っており、対外貿易はオランダと中国に限られていました。(オランダとの貿易は長崎の出島で行われていました。)

鎖国の期間は?オランダだけ貿易を続けた理由ってなんだろう?

鎖国の目的や理由は?メリットってなんだろうか・・?

その為、ペリーが浦賀へ来航すると長く鎖国をしていた日本中が当然大騒ぎとなりました。多くの人が生まれて初めて見る西洋人を、鬼かのように描いた瓦版がたくさん発行されました。

開国を求めるペリーに対し、幕府は大混乱に陥り、今まで絶対的な権力を誇っていた幕府が広く大名や旗本に意見を聞いたり、朝廷に経過報告をしたりと、幕府の権威が一気に急落しました。

ペリーの要求に対し、日本は1年の猶予を求め、ペリーは日本の要求を飲む形で一度は日本を離れますがその10日後に第12代将軍・徳川家慶が亡くなります。

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]この大事に亡くなる徳川家慶 タイミング悪いなぁ~[/voice]

 

日本の鎖国終了

ペリーは確実に大混乱となっているこの状況を利用しようと考え、1854年の2月に1年を待たずして再度日本へやってきます。結局幕府との1ヶ月の交渉の末に、1854年日米和親条約が締結されます。(下田、箱館開港)

この条約が締結されたことによって、日本にアメリカの領事館が置かれることになりました。その日本初の米国総領事となったのが、ハリスという人物でした。

1857年、彼は江戸城までやってきて第13代将軍・徳川家定に謁見し、直接自由貿易を求める内容を含んだ国書を渡すなどかなり強硬な姿勢を取っていました。直接江戸城まで来て、グイグイ責められたら、今までのらりくらりと消極的だった幕府も応じざるをえなくなってきました。

アメリカは当然自国に優位な交渉が進められるよう、条約の草案を作ります。しかし当時の天皇の孝明天皇からは当然条約締結の勅許は出ず…折しも当時隣国の清(中国)はイギリスと戦争中で、ハリスは欧米列国による日本への侵略を防ぐためにもアメリカとの条約締結をすべきと主張していきました。

当時の老中・堀田正睦は大老・井伊直弼を始めとする「天皇の勅許を第一」とする意見と、「機を逃す前に調印を」という意見に板ばさみになってしまいました。結局、1858年幕府の中で内部分裂をしたまま「日米修好通商条約」が締結されました。

ハリスの思惑通り、関税自主権の放棄、領事裁判権承認と、アメリカに圧倒的に優位となる条約締結でした。

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]なんだかんだアメリカの優位な条件を飲まされて、条約締結してしまいました[/voice]

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外国人を追い出したい日本

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]ボロボロの幕府・・そしてアメリカの勢いを見て、日本は一気に不安になっていきます。[/voice]

今まで絶対的な権力を誇っていた幕府が、すっかりアメリカに対して弱腰になっているのを見て、「日本はこのままじゃやばいんじゃないか?」という重い空気が日本中に立ち込めました。

当時の天皇・孝明天皇は「日本は神の国だから、異国の人が土足で入ってくるのは許さない!」と、幕府が進めた開国政策に断固反対していました。

天皇の意見に賛同(尊皇)した、「夷狄(外国人)」を打ち払おうという考えを持った勢力を「尊王攘夷派」と言いました。当初はほとんどの日本人が攘夷に賛成をしていました。

しかし時が経つにつれて、尊王攘夷派の中から、「このまま攘夷を続けていても意味がない。幕府を存続させていては日本は植民地になってしまう。天皇を中心とした統一国家を作るべきだ」と考える人々が現れてきました。

こういった考えを持った人々が、のちに倒幕を果たし明治維新を起こす勢力となっていきました。

 

 

日本はこのままではいけない!!攘夷から開国・倒幕へ…

当初積極的に攘夷を実施していたのは長州藩薩摩藩でした。二藩とも率先して外国船を打ち払おうと、下関戦争や薩英戦争で外国船と戦います。

しかし圧倒的な武力の差を見せつけられて、あっという間に大敗を喫することになりました。この敗北により薩長は武力での攘夷は不可能だと悟り、積極的な攘夷派から開国・倒幕派へとなっていくのです。

外国に負けたことにより最新兵器の強さを知った薩長は、新たに洋式の武器も購入し、旧式の幕府よりも優れた戦闘力を手に入れました。

有名な土佐の坂本龍馬、西郷隆盛も開国・倒幕として日本中を駆け回り、1858年、第15代将軍・徳川慶喜の大政奉還により、ついに将軍から朝廷へ政権が返上されました。

形式的には幕府による統治は終わり、朝廷が政権を握ることになりましたが、実務機関がなかったため引き続き慶喜を含めた幕府の中心人物達が政治を行わなければなりませんでした。慶喜はこのまま武家議会発足に持って行こうと画策をしていました。

が、徳川家や佐幕(幕府)派を排除したい倒幕派が目指すのはあくまで「西洋式」の議会。倒幕派にとって旧幕府派は邪魔で仕方がない存在だったので、「王政復古の大号令」を出し、旧幕府派を完全に排除しようとしました。

王政復古の大号令では徳川慶喜に官位と領地の返還も要求されました。さて、慶喜は素直にこの命令に従うのでしょうか??

 

 

錦の御旗 vs 葵の御紋

慶喜は、京都を離れ大阪城へ移りました。官位と領地の返還の引き換えに、議会の主要メンバーに登用されるように画策し、上洛の準備を進めていました。

ちなみにここからはもうめっちゃくちゃです笑

あくまで武力で倒幕を果たしたい西郷隆盛を始めとする薩摩藩は、浪士500人を使い、江戸で現代でいうテロ行為を繰り返させます。挑発行為に反撃した旧幕府派は江戸の薩摩藩邸を襲撃し、「旧幕府派が攻撃した」という既成事実を薩摩藩は得ることができました。

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"]幕府軍は西郷隆盛の策にハマったワケだ[/voice]

すると旧幕府派も薩摩藩を討て!となり、慶喜はこの勢力を止めることができず、1868年に鳥羽伏見の戦いが始まり、戊辰戦争が始まります。

新政府軍(倒幕派)の中心は最新式の武器を持った薩摩藩と長州藩。武士の魂・刀も、最新式の銃を前にしてはひとたまりもありませんでした。鳥羽伏見の戦いはあっとう間に決着がつき、新政府軍の圧勝となりました。

その時に勝利の象徴として掲げられたのが「錦の御旗」でした。

戊辰戦争は各地で戦闘が起こり、有名どころでは上野の寛永寺で彰義隊が結成された「上野戦争」や、白虎隊の悲劇が起こった「会津戦争」でしょうか。 (大河ドラマ「八重の桜」での戦いのシーンは、涙無くして見ることはできませんでした…)

一方、江戸では薩摩藩の西郷隆盛と、旧幕府側の勝海舟が江戸城で会談を開き、江戸無血開城がなされました。これで江戸城は新政府軍の手に渡りました。

戊辰戦争は日本を北上し、最後の戦いの舞台は蝦夷の箱館(函館)の五稜郭でした(箱館戦争)。箱館で旧幕府軍を率いていたメンバーには、新選組の鬼の副長・土方歳三もいました。しかし土方歳三が凶弾に倒れ、新政府軍の総攻撃が始まると、旧幕府派の榎本武揚は降伏し、1869年に箱館戦争も終わりを告げました。

新選組の最期は?生き残りはいたのだろうか?

こうして、1年5カ月に及ぶ戊辰戦争は終わりを遂げ、時代は明治へと移り変わっていくのでした。

 

 

まとめ

黒船来航から戊辰戦争終結までを見てきましたが、とてもたった16年しかなかったとは思えないほど濃い時代でした。そして戊辰戦争が終結してから、実はまだ150年ほどしか経っていないのです…!

幕末~明治維新までの流れを簡単にまとめますと…

[aside] 

  • 幕末の始まりはペリーの黒船来航から。
  • 幕府はアメリカに不平等な条約を結ばされて、日本は圧倒的な攘夷派だった。
  • 外国の力を知った勢力が倒幕派へと傾き、大政奉還がなされる。
  • 新政府と旧幕府派のそれぞれの思惑がぶつかり、戊辰戦争へと発展する。
  • 1869年、箱館の五稜郭が陥落し、戊辰戦争終結。明治維新へ。

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[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]わずか16年しかない期間の間にかなり濃い出来事満載だね[/voice]

この時代はそれぞれの信念を持った多くの若者が日本中を駆け回った一方、時代の波に飲み込まれた才能豊かな若者も大勢いました。

私の母方のご先祖様は、前述した上野の寛永寺で新政府軍と戦った彰義隊のメンバーでした。

当時は「賊軍」と言われる勢力でしたが、変わりゆく日本の中で自分の確固たる信念を持っていたんだろうなと誇らしくも思います。

幕末に活躍したヒーロー達の当時の年齢と、自分の年齢が近づいてくると、今の自分に「日本を変えよう」「幕府を支えよう」って行動に移せるかなと思ってしまいます。

そういう意味でも、やっぱり「幕末」は面白い時代だなぁとしみじみ思います。

 

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