[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]幕末の登場人物の中で私の好きな10人をご紹介します![/voice]
突然ですが、私は幕末が一番好きです。時代の転換期というか、時代の夜明け前ってところがたまらなく好きです。人のもまた多彩ですよね!
今回は厳選した私の好きな10人をご紹介します!
主な登場人物はこちら!
- 坂本龍馬
- 西郷隆盛
- 大久保利通
- 天璋院篤姫
- 木戸孝允
- 高杉晋作
- 吉田松陰
- 土方歳三
- 榎本武揚
- 勝海舟
【坂本龍馬】日本を洗濯するぜよ!幕末志士一の人気者!
坂本龍馬というと、人懐っこくて大胆な発想の持ち主。大体のイメージはこんな感じだと思います。
龍馬が生まれた坂本家は、もともと豪商の家で、お金で「郷士」というと普段は農業をしている武士の身分を買うんです。だから比較的裕福な家庭に龍馬は生まれました。しかも5人兄妹の末っ子だったので、多少甘やかされていたのではと思います。
その後入った剣術の道場では、朝晩通うほど熱中したそうです。剣術に邁進する活発な青年へと成長していきます!漢学塾は1年も続かなかったので、龍馬は勉強より体を動かすことのほうが好きだったのではないでしょうか?
龍馬を取り巻く女性たちとは?
それから龍馬は、剣術修行のため1年間の期限付きで江戸へ遊学します。北辰一刀流の千葉道場の門を叩く龍馬。千葉道場はもともと、剣豪・千葉周作・定吉兄弟によって誕生しました。この千葉道場で、運命的な出会いを果たします!定吉の娘「さな子」です。さな子は、剣術もさることながら美貌の持ち主で、「千葉の鬼小町」とかあだ名がついていたぐらいの女性でした!
けれども、さな子とは縁がなかったのか、婚約の噂まであったのに結婚へ至ることはありませんでした。
なんと、近年、さな子の片思いで、龍馬自身そんなに好きじゃなかったと言われています。たしかにさな子は美人で剣術も天下一品でしたが、龍馬の好みの女性ではなかったようですね。龍馬は女友達程度と思っていたのではないでしょうか?
私思うんですよね。仮にさな子と結婚するとなると、町の一道場主になる運命だったろうと。千葉家に婿養子か、さな子を嫁に貰ってもマスオさん状態になっていたと思います。海援隊とか作って海外へ行ったりしていた龍馬には、耐えられないことだったのではと。一つの場所に収まりきらない人物だったと思いますね。
続いてはご存じ龍馬の奥さん「おりょう」です!本名は楢崎龍。「龍」という字が相思相愛って感じですね。笑 おりょうは、京都医者の娘だったんですが、父親が死ぬと一家は生活に困窮してしまうんですね。お嬢様のさな子とは対照的です。
だからこそ、男顔負けなバイタリティーがあったのだと思います。寺田屋騒動のときの機転もおりょうらしい。京都で、薩長同盟の手助けをした坂本龍馬は薩摩藩士とともに、寺田屋という旅館に宿泊していたところ、幕府の伏見奉行とり方に包囲されてしますのです!この大ピンチをお風呂に入っていたおりょうが、慌てて風呂から上がって、裸のまま龍馬たちに「奉行所が来たから逃げろ」と伝えるんですね。笑
めでたく結婚した二人ですが、日本で初めて新婚旅行をしたのも、龍馬とおりょうだと言われています。時代の先をいく考えの持ち主ですね龍馬は!
龍馬暗殺!その真相はいかに!?
龍馬は、薩摩藩が定宿にしていた寺田屋で襲撃を受けたため、近江屋という別の旅館に泊まっていました。夕方に盟友の中岡慎太郎が合流して今後について、酒を飲みながら話合っていたんですね。すると刺客が突然と現れ、二人は刺殺されてしまいます。龍馬は即死。中岡は全身をかなり斬りつけられた末、二日間に亡くなります。
龍馬は生き急ぐかのように31歳という若さで亡くなってしまいます。しかし誰が龍馬を暗殺したのか?主に言われているのが、新選組説と京都見回り組説です。私はどうもこのどちらでもないような気がしてならないんですよ。他に真犯人がいるのではと。
私は案外味方だと思っていた「薩摩藩」が黒幕だったのではないかと思いますね。龍馬を屋敷にかくまったのは、船の操縦士が欲しかったからで、最初は良好な関係だったと言えます。
しかし龍馬が新政府の大臣の一人にこともあろうに「徳川慶喜」を据えようと考えていたんですよ。何百年と日本を統治してきた徳川の功績は大きいという理由で。
実は、西郷隆盛も含め薩摩藩は武力で徳川をつぶそうと考えていました。だから龍馬の平和的な考えには否定的だったのです。薩摩藩と長州藩を結びつけた立役者の龍馬。しかし2つの藩にとってもはや龍馬は邪魔者でしかなくなっていたんです!
あっけない最期となった龍馬ですが、現在では幕末の登場人物の中でも知名度人気ともに高いですよね。これほどまでに知名度が上がったのは司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」が爆発的にヒットしたからだそうなんです!
【西郷隆盛】不器用過ぎる男だった?
続いてご紹介するのは、現在放送されている大河ドラマ「西郷どん」でおなじみの「西郷隆盛」です!西郷というと、体や目が大きい、眉が太い、犬を連れている、そんなイメージが強いと思います。
西郷って体だけではなく、心も大きい人ようです。薩長同盟の際、龍馬が「鐘にような人物。大きく打てば、大きく響く。小さく打てば、小さく響く」と言ってるんですね。誰の意見であっても真摯に耳を傾けていたそうです。自分の意見をしっかり聞いてくれる人。このことが、後の西南戦争に結びついてしますのはなんとも皮肉な話です。
幼いころに、近所の子供と喧嘩をしたときに腕の神経を斬られてしまいます。それ以降西郷は刀を持てなくなって、剣術ができなくなってしますのです。刀が握れないなら学問で身を立てようと考えるんです。
心が大きい、人の話に耳を傾ける。まるで非の打ちどころがない人のように思われますが、西郷にも弱点が!「融通がきかない」という点です。
時は明治となり新政府樹立後、政治的考え方の違いで、盟友・大久保利通と決別していまいます。激怒した西郷は、「もう新政府にはおいの居場所はなか」といって郷里の鹿児島へ戻ってしまいます。西郷は人素晴らしい人材であることはかわりありません。弟・西郷従道に東京へ戻ってほしいと言われますが、頑として聞き入れませんでした。従道にも「兄さあは不器用すぎもす!」って言われてしまいます。
天皇からも愛された西郷どん!
真っ正直な西郷。なんと明治天皇にも愛されていました!それだけでもすごいことなんですが、ある日、明治天皇が乗馬の練習をしていた際に落馬してしまいます。
すると天皇は「痛い」って呟いたんです。当たり前ですよね。落馬なんて痛いどころか、打ちどころが悪ければ生死にかかわったりします。一緒に乗馬の練習をしていた西郷は「痛いなどという言葉は、どんな場合での男は言ってはいけもはん」と天皇にいってのけるんですね。
ザ・無骨な男って感じですが、普通は天皇に対してそんなこと言えないですよね?恐れ多くて。まだこの頃の明治天皇が若年だったというのもあるかもしれませんが、自分がこうと思ったら、どんな相手であれ率直にものをいう人なんですよ西郷は。
後年、病の床についても明治天皇は痛いとは言わなかったらしく、西郷の言葉を忠実に守っていたそうです!それはそれですごいですが。笑
見た目となんか違う?
大きな体からして、大酒飲みなのかと思いきや全くの真逆で下戸だったみたいですね。タバコは好きでよく吸っていたらしいです。私の周りにも「この人お酒好きそうだな」と思う人に、いざ聞いてみると全く飲めなかったという経験がありますね。
その後西郷は、地元の私学校に所属する青年たちに大将に祭り上げられ、新政府軍と対立することになります。世に言う「西南戦争」ですが、追い詰められた西郷は、自害の道を選びます。ここでかたくなに「俺は関係ないから」と突き放すことができたなら死なずすんだと思います。
私の西郷の印象としては、実直で融通がきかないけれど、男女のみならず犬からも愛された人だと思いました。私は日テレ年末時代劇の「田原坂」の里見浩太朗さんのイメージが強いですね。堀内孝雄さんが歌う主題歌「遥かな轍」が切なさを漂わせていました。
【大久保利通】冷徹に生きざるをえなかった男の本性とは!?
続いては、上記でご紹介した西郷の盟友である「大久保利通」です!世間の大久保の一般的なイメージというと「ひげが長い」「長身」「顔の彫が深くて結構イケメン?」こんなところではないでしょうか?
大久保は下級武士の子として生まれ、あまり裕福な家庭ではなく、胃腸が弱かったため剣術は得意ではなく、学問は抜きんでていたようです。西郷と似たところがありますよね。共通項が多いから仲良くなっていったのかもしれません。
やはり、実際も背が高かった大久保。175センチから178センチほどあったそうです。今でも高いですが、当時としたらかなり高いですよね。長身で頭脳明晰。結構女性からモテていたのでは?笑
冷たいどころか優しい人だった?
見た目的に、冷たいのではと思われがちですが、お金に関しては、コツコツ貯めるどころか貯金することなく、予算の都合が不可能な公共事業に私財を投じてしまうほどだったとか。
家庭でもまた、子煩悩な父親だったみたいですね。出勤前の忙しい時間に娘の芳子を抱き上げてあやしていたようです。仕事から帰ってきたときも、子供たちが我が先にと大久保の靴を誰が脱がせるか争うほどだったそうで、三男の利武がつまずいて転んでしまった様を見て笑っていたようです。なんかイメージと違いますがほほえましいですよね。いいお父さんじゃないですか!
あることが西郷とは正反対?
歴史好きな人はうすうす気づいているのではと思いますが、大久保は大の写真好きで大変な数の写真を残しています。ひげ少ないバージョンとか。笑 対照的に西郷は肖像画しか見かけないですよね?西郷は写真嫌いなので一枚も残っていないんですよ。
写真だけではなく、政治に関しても正反対で、征韓論(武力で韓国を開国させようとした動き)を推し進めようとした西郷と、待ったをかけた大久保。結局、二人は仲互いしてしまいます。西南戦争で、西郷の死を知った大久保は号泣した後、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれもす。強か日本が」と言うんですね。意見の違いで決別しても最後まで友のことを思い続けていたのではと思います。
その後、大久保の数名の石川士族におそわれ暗殺されてしまいます。亡くなった大久保の胸元には、西郷からもらった手紙が挟まっていたとか。泣けますね。
【篤姫】 男に生まれてればと嘆かれたその女性とは!?
次は「天璋院篤姫」です。有名なところだと大河ドラマ「篤姫」で宮崎あおいさんが演じ、最近では「西郷どん」で北川景子さんが演じているこの篤姫。島津忠剛という人の長女として生まれます。少女時代は大変活発な子供で、父の忠剛は「この子が男だったら」と大変嘆いたみたいです。
17歳で従兄の島津斉彬の養女となり、それから13代将軍・家定の正室になります。
篤姫は大の犬好きでしたが、夫の家定が犬嫌いだったため猫を飼い始めたそうです。二人の間に子供がいなかったので、夫婦仲が悪かったのではと思われがちですが、むしろ大変仲が良く、家定は当時としては珍しく料理が趣味で、篤姫の実家から贈られてくる黒砂糖を使って、篤姫にカステラを作っていたみたいなんです。いい旦那さんですよね。
けれど蜜月は長くは続かず、結婚して1年7か月で家定は亡くなってしまいます。もともと、家定は病弱で脳性まひを患っていたのではと言われています。でも一時でも篤姫と幸せな家庭を築けたのは良かったですね。
一本筋の通った男前な女性!
家定が亡くなった後、将軍になった家茂も若くして亡くなり、徳川慶喜が15代将軍になりました。しかし慶喜は身の危険を感じ、政権を朝廷にあっさり返還しちゃうんですね。世に言う「大政奉還」です。しかしその後も江戸城に篤姫は残り続けます。
その頃、実家がある薩摩藩は、江戸城を総攻撃しようとしていました。江戸城に危険が迫ると西郷に篤姫は総攻撃中止の手紙を出します。
篤姫の尽力もあって、江戸城総攻撃は中止されますが、とうとう故郷に帰ることはなく、徳川の人間として一生を終えます。
晩年は千駄ヶ谷に住んでおり、時々勝海舟がやってきて、二人でデートをしていたという逸話も。私は本当に付き合っていたわけではなく、昔話をしながら語り合う茶のみ友達的関係だったのではと思いますね。
【木戸孝允】明治の三傑の一人は何度も改名していた?
明治の三傑といえば、西郷隆盛、大久保利通とあともう一人います。みなさん誰だと思いますか?そうなんです「木戸孝允」です!和装、洋装ともに似合う稀有なイケメンでした!
そんな木戸は、長州の人で何回も改名しているんです。7歳の時に桂家の養子になり「桂小五郎」と名乗っています。桂小五郎の名前も有名ですよね。個人的にはこちらのほうがかっこいい気がします。笑
なぜ何回も改名したのか?飽きっぽいから?そうじゃないんですね。笑 実は木戸は幕府から指名手配されていたんです!驚きですよね!?薩摩藩や長州藩の人間はことごとく幕府からマークされていたんですよ。
長州藩から命令されるんですよ「このままじゃ危ないから桂から木戸へ改名しなさい」と。木戸の身を案じての藩からの計らいでした!それから木戸は、木戸貫治→木戸準一郎と名を変えて、最後にようやく「木戸孝允」に落ち着くわけです。
危険察知能力はナンバーワンだった?
木戸には「明治の三傑」の他にある呼び名があるんですね。「逃げの小五郎」って呼び名もあったのです。
若い頃から幕末の志士として、尊王攘夷の名のもとに、長州藩のリーダー的存在として頭角を現していた木戸なので、早くから幕府に目をつけられていました。剣術もかなりの腕を持っていたんですが、一度も刀を抜くことはなく明治という新しい時代をむかえました。
戦うにはどうしても、刀を使いますよね?刀を使わなかったということで、「逃げの小五郎」と呼ばれたんですね。漫画の「るろうに剣心」の緋村剣心を彷彿とさせる、殺さずの誓いでもあったのでしょうか?
新選組隊長の「近藤勇」も「恐ろしい以上に手も足もでなかった相手」だと言っているので、確かに剣術は強かったんですね。でも人を殺さず、「維新」という目標を達成したのはすごいと思います。
【高杉晋作】 安定した生活を自ら壊した男?
続いてのご紹介は「高杉晋作」です。みなさんは、高杉晋作にどのようなイメージをもたれているでしょうか?目が細く怖そうな、現代でいったらちょっとヤンキー入っているんじゃないの?とか、そんなイメージがあるかと思います。
実は、高杉は裕福な家庭に生まれたお坊ちゃまでした。もしも、幕末に生まれなければ安定した生活で一生を終わっていたからもしれません。お父さんが結構な収入を得ていて、現在でいえば国会議員なみの収入を得ていたようです。正真正銘のお金持ちですね。
成長した高杉は、漢学塾や明倫館という藩校に入り、秀才ぶりを発揮していきます。そして運命的な出会いを果たします。藩校を辞めて「松下村塾」という私塾に入るんですね。松下村塾の塾頭が「吉田松陰」という人でした!近年だと大河ドラマ「花燃ゆ」で主人公のお兄さんでしたよね。俳優の伊勢谷友介さんが演じていました。
松下村塾で高杉は、持ち前の秀才ぶりで、「四天王」の一人と言われるほどになりました。その四天王の一人に「久坂玄瑞」がいたんですよ!後に師である吉田松陰の妹、「花燃ゆ」の主人公の最初の旦那さんになる人です。裕福な家庭に生まれて、頭が良くて非の打ちどころがない・・とはことのコトだと思います。
それから高杉は、海外へ留学を果たします。留学先の上海で目にしたものは、当時「清」と呼ばれた現在の中国の植民地化でした。かつては、アジアの雄として権力をほこっていた国がヨーロッパにあっさりと支配されてしまった。高杉は日本も同じようになったらどうしようと危機感をいだきます!
やられる前にやっちまえ!過激な秀才!?
日本へ帰国後、尊王攘夷運動に没頭します。そこは以前ご紹介した木戸と同じですよね?所属の藩も長州と一緒です。ただ、高杉は過激なんですよね。笑 ヤンキー的見た目はやはり本当だったようで 笑 日本がおそわれる前に俺たちが外国をぶっ潰すと、イギリス公使館焼き討ちを計画します!
仲間たちを引き連れ、殴り込みをかけに行きますが、その中に後に大臣になる「井上馨」や初代総理大臣となる「伊藤博文」がいました。見事、公使館潜入に成功し、全焼させてしまうんですね。
しかしすぐに公使館焼き討ち事件は藩へ知れ渡ることとなり、江戸から長州へと送還されますが、「もう暇をください」と突如お坊さんになってしまいます。やることがいつも大胆ですね。笑
伝説的部隊を創設!
お坊さんとなった高杉は、長州藩が焼き討ちの件でイギリスから報復されるのを目の当たりにします。そこで高杉は、藩主や家老など藩上層部の前で「このままでは長州は破滅する早急に最新の武器を持つ隊を創設しなければならない」と唱えます!
かくして「奇兵隊」が創設されます。奇兵隊とは長州藩諸藩隊という武士以外の身分の者も含められた人たちによって構成された隊でした。服装も洋装から和装とさまざまなかっこで戦っていました。若干23歳の若さで初代総督になるんですよ。23歳で隊を率いるってすごいですよね?奇兵隊は有名ではありますが、力士だけで構成された「力士隊」っていうのも作られたらしいです。笑 武器など使わなくても相手を倒せそうですよね?
その後、結核を発症し、27歳の若さで亡くなってしまうんです!過激なその人生は自らの寿命を知ったからなのでしょうか?
【吉田松陰】幕末の志士たちに多大な影響を与えた偉大な人物とは?
続いて、ご紹介するのは高杉の師匠である「吉田松陰」です。歴史の授業などで必ず出てくる人ですよね?幕末の志士たちに影響を与え、聖人君主。みなさんこのようなイメージが強いはず。しかし、松陰は高杉の師匠です。聖人君主?いやいや。松陰も高杉と同様いかれているんですね。笑
写真の銅像も細面な感じで、大河ドラマ「花燃ゆ」で演じた伊勢谷友介さんに似ていますね。松陰は21歳のときに親友と東北旅行を計画します。旅行には当時通行手形が必要で、長州藩に申請するんですね。でも、待てど待てども藩は発行してくれません。友人との待ち合わせにも間に合いそうにもないという理由で「脱藩」してしまいます。理由がすごいですよね。
目的は「海防調査」という結構大事な旅行だったみたいですが、なにも脱藩までしなくてもって思いませんか?大胆というかスケールが大きいというか。笑 でもここまでしないと大勢を引っ張っていくリーダーにはなれないのかなと私は思いましたね。
大胆な発想の持ち主だった!
当時、留学はまだまだ裕福な家庭の一部の子息のみ実現されたことでした。そこで松陰考えます。「黒船に勝手に乗り込んで留学しよう」と考えるんですね。やはりただもんじゃない。笑
黒船に勝手に乗り込んじゃったので、アメリカ側から「お帰りなさい」と舟から船から降ろされました。笑 下田奉行所に自首することになります。案の定投獄されたのでした。
それから何度も投獄され、仮釈放の身になったとき、近所の家で青年たちを中心に講義を始めるんですね。それが、「松下村塾」の始まりなんです!松下村塾は、高杉晋作や久坂玄瑞といった後世に名を残す若者たちを輩出するのです。
最期は過激な思想を危険視され、幕府からの弾圧、世に言う「安政の大獄」で処刑されて、わずか29歳でした。短くも濃い一生でしたね。しかしこんな早死になのに有名な肖像画はおじさんって感じですよね?もっと若々しく描いてあげてほしかったです。笑
【土方歳三】 鬼と呼ばれたその男、最期まで打倒新政府だった!
ここからは、みなさんご存知の「土方歳三」です。土方は「鬼の副長」ともいわれ恐れられていましたが、女性人気は沖田総司と二分するくらいですよね!私は土方のほうが好きですね。
土方は、多摩の豪農の4男として誕生します。もとは農家の子供だったので、「武士」への強いあこがれがあったんですよ。憧れが強いあまり、なんと家の庭先に篠竹を植えるんです!「将来武士になるためにこれで戦うんだ」と矢を作るために。篠竹は細くて群がって生える竹なんで矢にするには適しているんです。ここまで武士への強い思いが後の「鬼の副長」と呼ばれる要因だったのだと感じましたね。
とくかく小さいころから強かった土方。裸で家にある柱をめがけて相撲を取ったりしていたそうです。笑
→ 【新選組】主要メンバーの名前や人物像について!エピソード付きでご紹介~
腕よし顔よしな男!
大人へと成長した土方。多摩の幼なじみの近藤勇と「新選組」を結成!土方は結束力を高めるために、鉄のおきてといわれた「局中法度」を作るんです!あまりにも厳しいため、逃げ出す者、粛清や切腹に追い込まれる者まで続出。それから土方は「鬼の副長」と呼ばれるようになるんですね。
腕は確かなものだったようで、実戦はとても強かったそうです。砂を投げつけて、敵がよろけた隙に斬りつけ、羽織を相手の頭にかぶせると、首を絞め落として生け捕りにしたのです!必殺仕事人顔負けです。笑
怖いけど、強くてイケメンな土方。新選組は京都の警備隊のような仕事をしていたので、京都の女性に大変モテていたんですね。家族への手紙にも「モテて大変だよ」とつづられていたそうです。笑 いつの時代も危険な男はモテるのでしょうか?
→ 新選組の最強は誰だ!?沖田総司や斎藤一がやっぱり強かったのか?
追い詰められても俺はあきらめない!
新政府軍との「鳥羽伏見の戦い」での敗戦をきっかけに、新選組は下り坂を駆け下りていきます。敗走中、近藤は捕らえられ斬首。
土方は、近藤の死に涙を流して悲しんだそうです。自分は一人でも新選組の志を引き継いで戦おうとしますが、土方をしたって20数名の部下たちが共に終焉の地蝦夷(現在の北海道)へと渡ります。部下からの人気がハンパなく「赤子が母をしたうごとく」といわれるくらいだったそうです。
幕臣の榎本武揚とともに、函館戦争にて新政府軍と再び激突します!この戦いは五稜郭を防衛するため、海戦でした。しかし弁天台場を守っていた兵士たちが次々と狙撃され、助けにむかった土方もまた、一本木関門で命を落とします。無念の死をとげた土方ですが、最期まで仲間思いの男の中の男でした。
【榎本武揚】なぜ幕府側なの?西洋かぶれのロマンチストな男とは!?
次にご紹介するのは、「榎本武揚」!実は私が一番好きな幕末の登場人物です!挫折しながらもめげずにロマンを追い求めるところが好きですね。
榎本は江戸っ子らしく、物欲がなく涙もろく義理人情に篤い人でした。お金に困っている友人がいたらすぐ貸してあげるような人でした。
榎本が生まれた家は父が幕府の役職についていたため、比較的裕福な家庭でした。若くからオランダに留学したりしていたので、とても洒落っ気がある人でした。帰国後、戊辰戦争参加します。「あのような幼稚な行いはしない」と言ったりしています。外国を目の当たりにしたら、日本はなんと時代遅れなことをしているんだと思ったに違いありません。
一方で、紳士的な人だと思いきや、大の酒好きで酒のことを「米の水」といって毎日ガンガン飲んでいたらしいです。笑 豪快な反面、オランダ留学の経験から外国の植物や花のことが詳しく、花園を経営する主人に花の種類や育て方を教えていたそうで、ロマンチストな一面も。このギャップにたまらない女性は多かったのでは?
幻となった蝦夷共和国
慶応3年、将軍・徳川慶喜が政権を朝廷へ返す、大政奉還が行われ300年近く続いた徳川幕府の歴史に終止符が打たれます。西郷隆盛と幕府の陸軍総裁だった勝海舟の間で互いに血を流さず話し合いで、平和的に解決された江戸城が無血開城されます。
しかし納得いかない榎本。北の地域の防備などを目的として、開陽丸を率いて蝦夷へ向かいます!この中には旧新選組や彰義隊の残党が含まれていて、もちろん土方もいました。
10月に蝦夷に乗り込んだ榎本率いる旧幕府軍ですが、5月には土方が戦死し、蝦夷共和国は消滅してしまいます。責任をとって自害しようとしますが、榎本の才能を惜しまれ止めらます。その後幕臣でありながら、新政府の要職についていくんですね。
後年、逓信大臣(現在の総務大臣にあたる)になったときのコトです。郵便記号を決めようという話になって、「〒」のマークに決まります。これは、海外で料金不足などをあらわす記号が「T」の文字だったため紛らわしいってことになったんです。
すると榎本。「一本足して〒にしようよ」と。笑 柔軟な発想の持ち主ですよね。つくづくなんで幕臣にいたの?言いたいぐらいです。
【勝海舟】 江戸っ子でイケメンな幕府の重鎮!
最後のご紹介は、「勝海舟」です。勝もまた、上記の榎本同様幕府にいたのがもったいないぐらい、先見性のあった人物です。
幼き頃、金玉を犬にかまれてしまい、1か月以上生死をさまよい一命をとりとめます。奇跡的に助かった経験が、後年の幕府が窮地に陥ってもどこか達観した態度につながったと思いますね。けれど、大人になってからも犬嫌いで犬を見ると震えていたそうです。
勝は下級武士の子供だったため、貧しい生活でした。そこで知恵を使うんですね。洋書を買うお金がないので、洋書を持っている友人宅へ行き、借りた2冊を丸写しして、1冊を古本屋へ売って生活の足しにしたみたいなのです。もう写したもう1冊は手元に残す。さすがですね。
龍馬も惚れた男!
幕臣ということで、勝海舟も常に命を狙われていました。ある男がスナイパーとして出現!龍馬でした。笑 龍馬は土佐藩を脱藩し、尊王攘夷派として幕府を倒そうとしていました。龍馬が勝を斬りに行こうとすると、勝が現実的な話をします。
互いに国のことを思い先見性がある二人です。一気に意気投合。笑 勝に弟子にしてほしいと願い出るのです!
明治の世となり、幕臣でありながら外務大臣などあらゆる大臣職を歴任し、逆賊となった徳川慶喜の赦免させることに尽力。さらには西南戦争で非業の死をとげた西郷の名誉を回復させるため、上野の銅像建立に力を注ぎました。
まとめ
[aside]
- 坂本龍馬は、バイタリティーがあって女性からもてた。
- 西郷隆盛は融通がきかない人だが、実直で自分より目上の人にも率直に意見する人だった。
- 大久保利通は見た目冷たそうだが、実は子煩悩な優しい人だった。
- 天璋院篤姫は徳川に嫁いでから江戸城を火の海から守り、死ぬまで徳川の人間として生きた。
- 木戸孝允は「逃げの小五郎」と揶揄されても一度の人を殺さず維新を達成した。
- 高杉晋作は公使館を焼き討ちするなど過激な人だった。
- 吉田松陰は友人と旅行したがため脱藩したり大胆な人だった。
- 土方歳三はイケメンで剣術も強く鬼と恐れられた反面、仲間思いだった。
- 榎本武揚はロマンチストな西洋かぶれだが、大酒飲みの一面があった。
- 勝海舟は、幼少のころの事件をきっかけに、自分を暗殺に来た人間も改心させるほど物怖じしない人になった。
[/aside]
それぞれ特徴がありますよね。まさに十人十色。攘夷派であろうと、幕府派であろうと、立場は違えど「国」を思う気持ちが10人は強かったと思います。私は洒落っ気がある榎本が好きですが、笑 みなさんはこの10人の中で誰が一番好きですか?
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