平安時代

壇ノ浦の戦いの場所は?現在はどうなっている??

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1185年、長きにわたって繰り広げられた源氏vs平家の戦いは「壇ノ浦の戦い」で終焉を迎えます。

壇ノ浦は現在の山口県下関市。

今現在、この場所は一体どうなってるのでしょうか??

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壇ノ浦の現在

源平合戦終焉の地であり、多くの悲劇を見つめてきた壇ノ浦。

現在は山口県下関市みもすそ川町にあります。古戦場を眼前に臨む「みもすそ公園」内には、源義経と平知盛の像がお互いの運命の場所に置かれ、訪れた人々を出迎えています。

この像の除幕式には、前述した大河ドラマ「義経」に出演された、源義経役の滝沢秀明さん、安徳天皇の母・建礼門院徳子を演じられた中越典子さんも出席され、お二人の手形も残されています。

ちなみに安徳天皇の母・建礼門院徳子も海へ身を投げましたが、源氏の兵士に見つかり引き上げられますが、その後彼女がどうなったのかははっきりしていません。

 

 

壇ノ浦の戦いって、どんな戦い??

簡単に言ってしまうと「源平合戦における最後の戦い」と言えますが、正確には1180年(治承4年)から1185年(元歴2年)まで6年間続いた「治承・寿永の乱」での最後の戦いです。

この戦いの敗戦により、平家は滅亡に至ります。

当時「平家にあらずんば人にあらず」と豪語されるほど、平氏政権は絶対的なものでした。

しかし1180年、平清盛の孫・安徳天皇の即位により皇位継承が絶望的となった、後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が、源頼政の協力を受け、平氏追討・安徳天皇廃位・新政権の樹立を計画した令旨を発します。

以仁王の軍は平知盛、平重衡が率いる大軍により敗北しますが、この「以仁王の挙兵」が6年にわたり続く、いわゆる「源平合戦」の始まりでした。

この挙兵を受けて、皆様ご存知源頼朝、そして源義経を始めとする東国武士団が挙兵をします。

源平合戦では、以仁王の挙兵から壇ノ浦の戦いまで数々の有名な合戦を生み出しました。

  • 水鳥の音に驚いて平家が撤退した「富士川の戦い」
  • 源義経軍が急斜面を下り奇襲(鵯越の逆落とし)を仕掛けた「一の谷の合戦」
  • 那須与一が扇の的を射抜いた「屋島の戦い」

平清盛も合戦の間亡くなり、上記の戦いによって、ついに迎えた「壇ノ浦の戦い」では、平家は序盤は優勢だったものの、阿波水軍の裏切りなどにより敗北。

平氏の武将は次々に海に身を投げ、安徳天皇と清盛の妻の二位尼も三種の神器と共に入水し、平氏は滅亡しました。

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壇ノ浦の戦いで生まれたエピソード

源平合戦の最後の戦いである壇ノ浦の戦いでは数々のエピソードが生まれました。

序盤こそ潮の流れによって平家が源氏を追い込む形でしたが、潮の流れの変化と共に、今度は源氏が平家を追い込む側となっていきました。

 

安徳天皇の入水

劣勢に立たされた平家軍はパニックに陥り、次々と入水し多くの人たちが命を落としました。

平家の敗北を確信した平知盛は、安徳天皇とその祖母である二位尼へ戦況を報告します。

最悪の状況に立たされた二位尼は覚悟を決め、孫の安徳天皇を抱え、そして三種の神器である天叢雲の剣と八尺瓊勾玉を身につけ船上に登ります。

ただ事ではない状況に不安に思った安徳天皇は祖母に対し、「尼よ、私をどこへ連れて行くのだ?」と尋ねます。

二位尼はその問いに対し「波の下にも都はございます」と答え、彼を慰めながら冷たい海に身を投げました。

この時安徳天皇は数え年で8歳。幼いながらも身を投げる前は、全てを悟りしっかりと念仏を唱えたと伝えられています。

 

義経の八艘飛び 

味方が次々と海に身を投げる中、最期まで戦い続けようとした武将がいました。平教経です。

矢が尽きるまで射続け、矢がなくなれば刀で敵を斬りまくり、源氏の総大将である義経を探し続けました。

そしてついに、平教経は源義経を見つけます。

義経も猛将で知られる平教経とまともにやり合わない方が良いと考え、彼から逃げることを選択しました。

その逃げ方がなんと!八艘の船をぴょんぴょんと超人的な動きで乗り移っていき、教経の前から姿を消したのでした。

さすが牛若丸時代、鞍馬山で天狗と修行をしていたという噂が残っているだけある…

さすがの教経も義経を討ち取ることは叶わないと、敵兵巻き添えにし、海へと沈んでいきました。

 

平知盛の最期

2005年のNHKの大河ドラマが、滝沢秀明さん主演の「義経」でした。多くの有名な役者さんが印象的な壇ノ浦のシーンを演じられてきましたが、個人的に印象に残っているのが、阿部寛さんが演じた平知盛でした。

平知盛も前述した教経と同様勇猛な武将の一人で、機知に富んだ人物でした。

なんでも壇ノ浦の絶望的な状況の中で、平家に仕える女房たちに戦況を聞かれた際、彼女たちに笑顔を見せながら、

「これからみなさんは関東武士の姿をお目にかかることになりますよ」

と答えました。

つまりこれは「敵兵が現れ、捕らえられ、遊び女にされる」とオブラートに包んだジョークのような警告だったのです。

そんな彼も教経の入水を目の当たりにし、自害をすることを決意します。そして最期に、

「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」

と言い、身体に錨を巻きつけ海に沈んでいきました。

大河ドラマでのこのシーン、阿部寛さんの迫力のある演技は今でも忘れられません…

 

 

まとめ

さてここまで壇ノ浦の戦いに至るまでの歴史から、現在の姿までを見てきました。

  • 壇ノ浦の戦いで「源平合戦」が終わりを迎えた。
  • 数々のエピソードが生まれた、劇的な戦いであった。
  • 現在は古戦場となっており、源義経と平知盛の対決像が迎えてくれる。

平清盛一代で築き上げた栄華が「春の夢のごとく」散りゆく様を見てきた壇ノ浦。

その壇ノ浦を有す下関は、その約680年後にまた一つの戦いの舞台となります。

幕末の混乱が続く1864年、下関では過激な尊皇攘夷派達を有する長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四カ国の間で武力衝突が勃発します。

この大敗により長州藩はその後攘夷思想ではなく、開国へと歩みを進めていくことになりました。

つまりこの場所は、源氏と平家の運命の地であっただけでなく、江戸時代にはその後の日本の未来を決めた運命の場所でもあるのです。

多くの武士たちの思いが詰まった海を目の当たりにした時、私たちは一体どんな言葉を発するのでしょうね。

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