伊達政宗は出羽と陸奥をおさめていた第17代目伊達家の当主です。彼は片目をなくしてもなお強く、「独眼竜政宗」の愛称でも知られています。
さて、伊達政宗と言って思い浮かぶのはあの三日月型の兜ですよね。なぜ三日月型の兜だったのでしょうか。
また、伊達軍は黒の甲冑を着ていますがこれにも実は理由があったのです。そして、伊達政宗は刀をとても愛していた「刀コレクター」であることは有名な話だそうです。
今回は戦国武将大好き・歴史マニアの私が、伊達政宗の兜・鎧(甲冑)・刀について解説したいと思います!
伊達政宗の兜が三日月型なのは、こんな理由があった!
独眼竜と呼ばれた戦国時代の武将・伊達政宗は、大きな三日月の前立てをつけた黒い兜をつけていたことで知られています。
細長い鉄板を重ね合わせて強度を高め、黒漆を塗った六十二間の筋兜で、前立ては金に色塗られた大きな三日月という、シンプルながらとても印象深いデザインです。戦国武将の兜と言ったら伊達政宗!という感じで、私もカッコいいなあと見る度に思わされます。
これは細長い鉄板を組み合わせ、頭を平らに潰した鋲でとめ継ぎ目を筋状に加工した「筋兜」という種類のものです。
元々他の兜に比べて生産しやすい歩兵向きのものでしたが、使う枚数が多いほど重ね部分が増え、実質鉄板二枚重ねに匹敵する防御力が得られるようになったことから、大将レベルの武将も用いるようになったそうです。
この筋の数が多いほど製造するために高度な技術が必要ですし、防御力にも影響を与えると言われています。
最初は月じゃなくて、太陽だった?
さて、この月をモチーフにした兜は、仙台藩歴代当主の兜に使用されています。
三日月型の前立てを決めたのは政宗ではなく、その父である輝宗が決めたそうなのです。政宗が生まれたとき、輝宗は政宗の旗印を白地に赤丸としました。
「白地赤日の丸旗」と呼ばれる旗印は、そのイメージ通り太陽をモチーフにしており、現在の日本国旗とよく似ています。
その旗印に合わせて、兜の前立てを月としたそうです。太陽は仏教における金剛界、月は胎蔵界を表します。金剛界・胎蔵界とは仏教の曼荼羅(まんだら)の種類を示す言葉です。
そして、曼荼羅はこの世の理を表しているため、旗印と前立てはどちらも仏の加護を意味します。おそらく、我が子の成功と守護を願って考えた旗印と前立てだったと考えられます。しかし、月を象徴するなら満月でも良いはずですよね?
なぜ三日月型だったのでしょうか?
三日月型であるのには、重要な意味があった?
これは日輪と区別がつかなくなるために、三日月が用いられたためです。
これから満ちていく月と考えれば、天下を狙う政宗の志を表しているようにも思えます。ちなみに2代目以降の伊達家当主の前立ては弦月(半月)になっています。
引き絞った弓のように見えることから「弓張月」とも呼ばれており、平和になった江戸時代でも戦を忘れない覚悟を示しているそうです。
伊達政宗の辞世の句に、
「曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く」
というものがあります。
父の残した前立ての月が、政宗の生涯を照らし続けた心の月となったのかもしれませんね。
三日月型の理由には、武将ならではの理由があった!?
また、兜の右腕側が少々短くなっており、これは武器を振り下ろすときに邪魔にならないようにできています。美しさ、派手さとともに、戦場での機能性も考えられていたのです。
三日月型の兜であったもう一つの理由が、「秀吉に気に入ってもらうため」でもあったと言われています。
伊達政宗は、故郷東北から天下統一を狙って領土を広げていましたが、当時西側から勢力を拡大していた豊臣秀吉から臣従申請が届いたため秀吉の家臣となりました。
少しでも領土を獲得しようと、こんなところでも工夫をされていたんですね。兜ひとつとっても、様々な理由があって作られているというわけです。
伊達政宗の鎧はなぜ黒い!?
先ほどの兜と合わせて、5枚の鉄板を使って堅牢に仕上げた胴を用いた政宗の具足は「黒漆五枚胴具足」と呼ばれています。継ぎ目のない鉄板を用いたこの鎧は、非常に防御力が高い仕上がり!
騎馬鉄砲隊を考案したとされる伊達政宗であるからこそ、鉄砲対策として防御力の高い鎧を考えていたのでしょう。
この鎧は、政宗以後の仙台藩伊達家の歴代当主や家臣にも受け継がれており、別名「仙台胴」ともいわれます。
伊達政宗および伊達軍の鎧が「黒」なのは有名です。この黒い甲冑の黒という色を出すためには、黒漆つまり「漆」を使います。漆は高価で、調達するのも大変。何より日光に当たると光沢が無くなってはげ落ちてしまうんです。
なぜそこまでして黒にこだわったのかというと、それにはやはり理由があります。
政宗の鎧が黒いのは、ある武将に憧れていたから!?
政宗が隻眼(片目だけ視力を失ってしまいました)となり、幼少期に落ち込んでいた時それを救ってくれたのが虎哉和尚という方なのですが、その虎哉和尚が彼に語って聞かせたのが隻眼の唐の武人「李克用」の話です。
彼は後に皇帝にまで登りつめているのですが、その「李克用」が使用していた鎧が黒でした。彼の軍は鴉(からす)の軍と呼ばれ非常に強く、黒の軍が来るとそれだけで敵は怖気付いたそうです。
虎哉和尚は中国には片目でも立派な武将がいたから、政宗も強くなれるよと励ましたのではないかと思われます。政宗はこの言葉をずっと大事にしていました。
天正十三年11月の「人取橋の戦い」からこの黒の鎧を使用し始めるわけなんですが、そこから彼の快進撃はスタートするのです。
ちなみに、この黒の鎧が映画「スターウォーズ」に出てくるダースベイダーのモデルにもなっているのは結構有名な話。世界一有名なダークヒーローのルーツは、伊達政宗だったのです。
黒の鎧は強くてカッコいい・・!その伝説が脈々と受け継がれているのですね。
伊達政宗は言わずと知れた刀コレクターだった?
武士にとって刀とは武器であり、恩賞として贈られるものでした。当然、その魅力に取りつかれて、コレクターになった人もいました。
伊達政宗もその一人です。また、「 国包(くにかね) 」というお抱えの鍛冶を育成するほどの熱の入れようでした。伊達政宗は豊臣秀吉など数多くの武将から、刀を献上されていたと言います。
そんな伊達政宗が愛した「刀」たちをご紹介したいと思います!
燭台切り忠光(しょくだいぎりただみつ)
備前(岡山県)の刀工集団長船(おさふね)派の光忠によって作られたと伝わっています。
刃の長さは約78cmです。
なんとも言えない不思議な名前ですが、名前の由来は政宗が所持していた時にさかのぼります。
政宗の小姓に仕事をサボってばかりの者がいました。怒った政宗はその小姓を斬り、小姓は二つになって倒れてしまいました。その際に、刀の先にあった燭台まで切り落としたそうです。
何とも物騒な話ですが、それほどまでに恐ろしい切れ味の刀でした。この刀は光忠作の刀を愛用していた織田信長が持っていました。それが豊臣秀吉の手に渡り、秀吉から政宗に託され、その後政宗は水戸・徳川家にこの刀を進上しています。
現在は徳川ミュージアム(茨城県水戸市見川)に保存されているそうです。
黒ん坊切景秀(くろんぼうきりかげひで)
鎌倉中期に作られ、鞍切景秀(くらきりかげひで)とも呼ばれています。
備前・長船派景秀の作で、刃の長さは約73cmです。
名前の由来は政宗が慶長の役に従軍した時にまでさかのぼります。
現地で「猿を切った」ことで、この名前が付いたとされています。
この刀は、伊達家の重臣石川昭光から政宗に献上されたとされています。
なかなか面白い名前の刀が多いですね。
大俱利伽羅(おおくりから)
伊達家は徳川家より、江戸城石垣の修繕を命じられたことがありました。その時の褒美として、徳川家康から政宗に下賜された刀です。
当時政宗は仙台にいたので、代わりに嫡男の忠宗が拝領したと伝えられています。
無銘刀ですが、俱利伽羅模様(くりからもよう)の施された綺麗な刀です。
現在は大阪府茨木市内にある企業が所有しています。時々、一般公開に出されることがあるようです。
太鼓鐘貞宗(たいこかねさだむね)
太鼓鐘貞宗は相模国彦四郎貞宗作の短刀で、長さは24.8cmです。
徳川家康は政宗の嫡男・忠宗と自分の養女と結婚させます。
その際に下賜されたのが、太鼓鐘貞宗です。
伊達家では「 大鼓磬貞宗 」とも書いていました。
元禄9年(1696年)に藩主・綱村から養子の吉村に譲られた記録があります。
以後、伊達家に代々伝えられ、明治16年に仙台より東京・伊達家に移されます。
後に国から重要文化財に指定されました。
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まとめ
- 伊達政宗の兜は、亡き父が息子の天下統一を願って作った由緒ある三日月型の兜だった。
- 伊達政宗の鎧(甲冑)は、伊達軍の強さを象徴するものであり、その防御力は天下一品だった。
- 伊達政宗は言わずと知れた「刀コレクター」であり、たくさんの愛用の刀が後世に残されていた。
というのが、今回のまとめです!政宗の強さの秘密はこんなところに隠されていたのですね。今回は伊達政宗の兜・鎧(甲冑)・刀について、解説させていただきました!
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