今回は、戦国武将の中でも人気が高い「独眼竜」こと伊達政宗ですが、彼の死因は何だったのでしょうか?また彼に纏わる話も調べていきたいと思います!
伊達政宗の死因と、そして最期の死に様は・・・!
伊達政宗は、三代目将軍徳川家光の時代に死去しています。
記録によると、晩年食欲不振と軽度の嚥下困難になっていたとのこと。
死因は食道噴門癌と癌性腹膜炎かと言われています。
亡くなる年のコト・・・伊達政宗は体調が優れませんでしたが、仙台から江戸まで向かいその途中日光に寄りました。この頃既に死期を悟っており、政宗は日光に立ち寄ったのです。江戸に着くと徳川家光のお見舞いを受けました。家光は、父親の様に伊達政宗を尊敬していたので心配だったのでしょう。
お見舞いを受けた三日後に伊達政宗は、一度目を覚まして起き上がり、髪を整えて手水を済ませてから家人にこう言ったそうです。
『わしが死んでも、むやみに部屋に人を入れてはならぬぞ。』
こう言い、また床に就いた政宗は・・・西方に向かって合掌して、そのまま起きる上がることなく亡くなり、この訃報に徳川家光は大変悲しみました。
享年69歳。自分の死期を察して、身だしなみを整えてから亡くなるなんて、おしゃれ侍の異名通りの最期と言えます。
実は、ずんだ餅の名付け親は伊達政宗だった
宮城県の有名な郷土料理といえばずんだ餅です!!栄養価が高い枝豆を茹ですり潰し、砂糖、塩、水で味を付けてから餅を加えます。
なんと、ずんだ餅の名前の由来は・・・伊達政宗に関係していたのです。
ずんだ餅発祥には諸説ありますが、有力な説が二つあります。
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- 伊達政宗が、戦の際に陣中で陳太刀の柄で枝豆を潰して食べたのが始まり、訛って「ずんだ」となったという説
- 政宗が藩内の視察に訪れた際出された餅を「仙台藩豆打餅」と付けて「豆打(ずだ)」が訛ってずんだ餅と呼ばれるように説
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有名な戦国武将が、まさかずんだ餅のネーミングに関係しているなんて意外ですよね。さすが伊達政宗は、戦国武将の中でもグルメ武将といったところですね。
他にも伊達政宗が名付け親とされている料理があって、伊達巻も伊達政宗が名付け親と言われています。伊達政宗が好んで食べた厚焼き玉子は、ヒラメの肉を混ぜて焼いた平玉子焼でそれを伊達政宗が食べた事からいつからか伊達巻と呼ばれるようになりました。
それに、伊達政宗は美食家の一面もあって、自らも料理をして徳川家光にも献立を考えて出したというエピソードもあります。
他にも伊達政宗が研究して作った料理があって
- 仙台味噌
- 凍り豆腐
これらも伊達政宗が作ったと言われる料理です。まさか、伊達政宗が戦国時代では、珍しい料理好きの武将だったとは・・・(笑)
伊達政宗は、派手好きだった??
伊達政宗は、ゲームやアニメでも派手好きという風に描かれています。
が、本当にハデ好きだったのか?
ちょっと調べてみました。
伊達軍の派手な軍装
文禄元年、豊臣秀吉が京で開かれた朝鮮出兵の出陳式で伊達の軍勢を着用していた戦装束が派手だったそうです。
- 戦装束・・・紫紺地に金の日の丸が描かれた幟30本で揃えた。
- 足軽隊・・・金のとんがり笠、朱鞘の太刀、銀箔の柄頭の脇差
- 騎馬武者・・・全部黒で統一、兜の前立ても金色の半月で統一、馬飾りは、虎・豹・熊、孔雀の羽で作られ、具足の前と後ろに金で星が描かれていた
伊達政宗自身も熊毛の陳羽織をつけて式に参加しました。他の武将たちもこの軍勢には、驚いたと思います。この装束が有名になり、「伊達男」=派手でおしゃれな男という言葉が使われるように定着したといわれています。
伊達政宗の兜
伊達政宗の兜といえば、三日月で派手ですよね?ただのおしゃれかと思っている方もいるのではないでしょうか。実は違います!!
戦国武将の間に「妙見信仰」というのが広まりました。妙見信仰とは、星や月を信仰するもので、周りが動いても動かず、目印となる北極星を神格化し妙見菩薩として武運を祈ったのが始まりです。戦国武将も星や月の兜をモチーフにしたそうです。
伊達政宗の三日月も妙見信仰だそうです。
また、派手好きは、豊臣秀吉に気に入られる為とも言われており、こんなエピソードがあります。
小田原討伐の時に伊達政宗は、ギリギリまで豊臣秀吉の前に現れませんでしたが、何と死装束である白装束姿で登場したのです。これには、豊臣秀吉も驚いたそうですが、この若い伊達政宗の行動に感心したのか許してしまったのだとか。
さすが豊臣秀吉や徳川家康より早く産まれていれば天下統一できたと言われる伊達政宗ですね(笑)
ちなみに伊達政宗が眠るお墓の作りも豪華だったりします。墓まで豪華とは・・体の芯からオシャレに気を使った侍だったのでしょうねぇ(笑)
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伊達政宗の辞世の句!!
伊達政宗は、辞世の句も遺しています。
「曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」
意味は「何も見えない真っ暗闇の中で、月の光を頼りに道を進むように、戦国の先の見えない時代の趨勢を自分が信じた道を頼りにただひたすら歩いてきた一生だった。」という意味です。
伊達政宗の遺訓
遺訓(故人の遺した教え)も遺しているのでご紹介します!!
伊達政宗の遺訓
- 「仁に過ぐれば弱くなる。」
- 「義に過ぐれば固くなる。」
- 「礼に過ぐれば諂となる。」
- 「智に過ぐれば嘘をつく。」
- 「信に過ぐれば損をする。」
儒教にある仁・義・礼・智・信の五常に基づいた伊達政宗の遺訓です。
簡単に訳すと、
人のためを思いすぎると相手のためにならない。正しくあろうとしすぎれば堅物になる。礼儀過ぎると媚びになる。利口過ぎると嘘をつく。人を信じすぎると損をする。
という意味です。
これも政宗の人生が関わった遺訓だと思いました。伊達政宗は、本当に色々と波乱に満ちた生き方をしていますから・・・
まとめ
伊達政宗の死因は・・・
- 食道噴門癌
- 癌性腹膜炎
伊達政宗の死因を調べてみて、伊達政宗が、癌と腹膜炎で亡くなったと言う事が分かり、グルメで知られていた伊達政宗が患ってもおかしくない病気だと感じました!!
また伊達政宗は、徳川幕府三代目将軍徳川家光からも絶大な信頼を受けており、伊達政宗も徳川家光の事を大切にしていました。
二人は、将軍と外様大名という主従関係にありましたが、それを乗り越えて信頼関係を築き、政宗の死を悼みました。二人の関係は、主従関係よりも孫と祖父に近い間柄だったと私は、考えています。
家光も戦国時代を生きた武将である伊達政宗と交流していい経験になったと思いますし、伊達政宗も無理して江戸に来るぐらいですから・・・家光の事を大事にしていたのだろうと感じました。
江戸時代を生きた徳川家康と伊達政宗・・・二人は、幼い頃似たような境遇で育てたのでそれもあると思います・・・どっちも母親に疎まれていたのですから、
その境遇も分かり合える間だったのでしょう。