伊達政宗の家臣にはどんな人がいたのか?ちょっと気になりますよね。改めて聞かれると精々片倉小十郎景綱ぐらいしか名前が出てこない!私もそうです。
もう2,3人ぐらいスラッと言えるといいなぁ、そんな方に私が気になった人物をピックアップして紹介させて頂きます!
伊達政宗の家臣メンバー一覧(「伊達家臣二十四将より」)
[aside]
- 亘理兵庫元安(※元宗、元安斎)
- 伊達藤五郎成実
- 片倉小十郎景綱
- 鬼庭良直入道左月
- 留主上野政景(※留守)
- 大條薩摩実頼
- 伊藤肥前重信(※伊東)
- 後藤孫兵衛信康
- 原田左馬之助宗時
- 中村八郎右衛門盛時
- 白石若狭宗実
- 大町三河■■(※おそらく定頼)
- 斉藤外記永門
- 小梁川泥蟠斎(※盛宗)
- 泉田安藝重光
- 黒木肥前■■(※宗俊か宗元)
- 遠藤文七郎宗信
- 石田将監與純
- 小山田筑前定頼
- 津田豊前景康
- 小田邊勝成
- 石母田大膳宗頼
- 富塚小平治宗総
- 石川弥平実光
[/aside]
まずは名前を一覧表にさせて頂きました。ここから掘り下げてピックアップさせて頂きます。
片倉小十郎景綱(かたくら こじゅうろう かげつな)1557~1615
通称は「小十郎(こじゅうろう)」。梵天丸(伊達政宗の幼時名)の守役(もりやく)となます。片倉の姉の喜多が梵天丸の乳母です。それもあってか、政宗にとって景綱は家臣以前に信頼できるお兄さんのような存在でした。
しかも政宗の器量を一番初めに見抜いたのはこの景綱でした。
政宗が家督を譲られて初めての大合戦「人取橋の役(ひととりばしのえき)」では、劣勢陥った政宗を救うために「私が伊達政宗だ!」と名乗り、おとりになり政宗を救いました。景綱も政宗を弟の様に思っていたんだろうと感じました。
数々の功績をあげ、後に白石城城主として1万6千石の領地を与えられました。これは大名並みでしかも、白石は会津と接しており仙台藩の南の要として重要な城でもあることからも、政宗がいかに信頼を寄せていたのかがうかがえます。
また秀吉から小田原参陣を命じられ、渋っていたのを聞き入れるように説得したのも景綱でした。これにより政宗の名は後世でも聞かれるようになったのです。さすがお兄さん!ですね。
「智の片倉景綱」は秀吉、徳川からスカウトを受けていたのですが、どちらも断りました。
断り方がまたかっこいい!「伊達家に奉公することは、すなわち天下に奉公すること」と最後まで政宗への忠誠心を貫きました。
また景綱が亡くなったときに6人の殉死者もでたそうです。部下にも慕われていたんですね。死因は一説には糖尿病という説もあるそうです。 享年は59歳
→ 伊達政宗の性格は意外にも…?!逸話やエピソードから彼の性格を考察してみた
伊達藤五郎成実(だて とうごろう しげざね)1568~1646
仙台藩の一門で、通称は「藤五郎」
片倉景綱が智ならば伊達成実は武。伊達軍一の猛将でした。イメージ的には猪。猪突猛進という感じです。政宗が渋っていた小田原参陣も「秀吉と一戦交えるべき」とあくまでも戦う姿勢をとっていました。
政宗より1つ年下で政宗にとっては家臣というより弟のような存在だったようです。
猪な弟なので、成実は政宗に対して反抗的な態度もとることもありました。有名なお話は1595年政宗との確執により出奔(確かな理由は不明ですが一説によると成実の軍功に対しての政宗の評価が思ったよりも低かったからとか…)。この出奔は成実にとっては最悪の結果を生んでしまいました。
若かった政宗は成実への怒りが収まらず、その怒りを成実が治めていた角田城にぶつけてしまいました。そして伊達家が伊達家を攻めることになってしまい、成実の妻と子供を自害へと追い込んでしまいました。政宗は一生後ろめたさを背負うことになります。これがもしかしたら彼を成長させたのなら痛すぎる代償だと思います。
出奔してから5年後、片倉景綱等の説得により伊達家に戻ってきました。
すごいのは妻子を失ったのは自分の責任だと悟り、伊達家に帰った後はさらなる忠誠を政宗に誓って仕えたそうコト!また、政宗も成実に対して今まで以上の信頼感を持ったようでした。
また出奔していた時に上杉景勝と徳川家康にスカウトされたのですが断ったのだとか。伊達家の家臣、スカウト凄すぎですね・・・そして徳川幕府の信用がスゴイ。
政宗より約10年長生きをし、晩年は将軍家光の時代に合戦経験のない武士達に、合戦の話をする講師として要請されることもあったと言います。しかも外様大名の家臣の身分なのに、籠に乗って江戸城に訪れるという破格の待遇を許可されていたんだそうです。享年は79歳でした。
→ 伊達政宗の身長・誕生日・出身は?妻はどんな人だったんだろう?
原田左馬之助宗時 & 後藤孫兵衛信康
原田宗時(はらだ さまのすけ むねとき)と後藤信康(ごとう まごべい のぶやす)と言えば、史実でも有名な秀吉の朝鮮出兵における出陣式でしょう。
伊達の軍団は第一陣の前田軍、第二陣の徳川軍に続く第三陣で登場しました。そのいでだちは京の人々から「さすがは伊達者」と言われる派手さであったとか。
この二人はライバルであり特に若いころの宗時は信康に対抗心を燃やしていました。メラメラですね(笑)
こんなエピソードがあるそうです。かねてから信康の戦場での活躍をよく思っていなかった宗時が、ある日信康に決闘を申し込みました。でも信康は宗時にこう答えたと言います。
[aside type="boader"]
「あなたが言うのはもっともです。決闘を受け入れても構いませんが、このような私的な理由であなたのような方が命を失うのは伊達家にとって大変な損失になります。
もちろん私もこのような形で命を失いたくありません。お互い伊達家のために忠戦して死ぬことこそ大事だとおもいませんか」
[/aside]
9歳も年上の信康からこう言われ、宗時は自分を恥じて反省し、これ以降は親交を深めていきます。
朝鮮出兵で、信康は相馬を牽制するために国元にいましたが、宗時は政宗と一緒に出兵しますが、これが宗時にとって最大の不幸が訪れてしまいます。
朝鮮から帰国の途中の釜山(プサン)で病に倒れ、日本に帰航したおり29歳の若さで亡くなってしまいました。政宗は歳が近く兄弟のような宗時の死を悲しんだとおもいます。
信康は出兵の出陣式で時宗が使った、刀を政宗にお願いして家宝にしたといわれています、それほど彼を悼んでいたのでしょう。時宗、享年29歳・信康、享年59歳でした。
→ 伊達政宗の兜・鎧(甲冑)と刀について!月型の前立て・・アレ何なん?
支倉六右衛門常長(はせくら ろくえもん つねなが)1571~1622
通称は「六右衛門」です。日本史においては主君の政宗より有名な人物がこの人です。常長は親善目的ではなく、交易のためにヨーロッパに渡った初めての使節団の団長でした。ただこの使節団の本当の目的は解明されていないのだそうです。
理由はこの使節団の送り主が、伊達政宗という権謀術数に優れた武将だからです。普通は政宗が表の責任者で、実際は幕府が使節団を派遣するという形でした。この使節団は仙台藩独自で交易、軍事要請のためであると、考えられているそうです。
ですが常長は帰国後大変な目にあってしまいます。常長はローマ法皇から洗礼を受けていました。8年の歳月を経て帰国しますが、日本はキリシタン弾圧が行われたていて、政宗も幕府の方針に従ってキリシタン狩りを行っていました。
一説によると政宗が保護したと言われています。52歳で亡くなったといわれますがそのお墓は特定されてません。
まとめ
[aside]
- 伊達家の家臣は他の武将からスカウトされるほど優秀な人材がそろっていた。
- やっぱり一人ひとり深い話を持っていた。
[/aside]
現代でこの強い個性の家臣たちをまとめるとなると、相当骨が折れて、大きな器量がないと立ち行かないだろうなぁというのが正直な感想です。
家臣を生かすも殺すも殿様の器量によるところが多い、大変な時代でした。
皆さんの心に少しでもこの伊達家の家臣の名前が残っていたらうれしいです。
→ 伊達政宗の名言BEST!意味も合わせてご紹介!見が引き締まるぜ
→ 伊達政宗の死因・最期について!オシャレ侍の死に様について見ていこう
→ 伊達政宗『ワシがイケメンに描かれるのはナゼじゃ?』伊達政宗は本当にイケメンだったのか?