杜の都仙台。緑豊かな街です。仙台と言えば伊達政宗、独眼竜 政宗ですよね。
ここでは伊達政宗の歴史を年表でチェックしていきたいと思います。
三代将軍家光に「伊達の親父殿」と呼ばれ慕われた政宗の年表を追っていきます。
伊達政宗の年表
1567年(1歳)
現在の山形県米沢市にて、伊達輝宗の長男として生まれます。母親は最上義光の妹で義姫(よしひめ)。もともと最上と伊達は敵同士で政略結婚にて結ばれますが、割と夫婦仲は悪くはなかったそうです。
1571年(5歳)
疱瘡(天然痘)にかかり、右目を失明し独眼になります。これを機に母親から疎まれます。当時の天然痘は致死率が20%~50%。そんな中生き残った我が子を疎んじた義姫の気持ちが、私には全く理解できません。
1575年(9歳)
片倉小十郎景綱が傅役(もりやく)になります。ここで小十郎が登場。長く政宗のことを守り続けます。「傅」の漢字の意味は付き添い助けるという意味があります。まさに小十郎を表した感じだと思われます。
1579年(12歳)
陸奥国磐城三春城城主・田村清顕の娘で「愛姫」(めごひめ)と結婚します。初めは政略結婚ということあり、あまり夫婦仲は良くなかったのですが、後にその仲も睦まじいものに変わります。
またのちに京都の聚楽第に人質としてと暮らしていた時には「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな。匕首(あいくち)を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送っています。
愛姫との間には3人の子供がおり、長女五郎八姫(いろはひめ)は徳川家康の6男松平忠輝の妻になります。ただ忠輝は家康には好かれていませんでした。諸説ありますが家康は顔にこだわりを持って忠輝の顔がお気に召さなかったらしいのです。
なので牽制すべき伊達の姫君を嫁にもらったのかもしれませんね。
1584年(18歳)
父、伊達輝宗が隠居します。家督を継いだ政宗は伊達家17代目当主となります。
18歳で一家の主になるなんて、なんて無茶なんだ…!と思います。まだまだ子供でも大人?なんでしょうか。おこがましいですが自分がその立場になったら、ビビりまくり逃げる算段を展開するのが目に見えるようです。皆さんはどうでしょう?
1585年(19歳)
人取橋の戦いに出陣。19歳で合戦。19歳で総大将。昔の人はきっと子供の時間が短かったのでしょう。切なさを感じるのは私だけでしょうか?
言葉は悪いですが合戦というのは人殺しだと思います。でも武将たちはその殺人すらも背負ってしまえる何かがあるのでしょう。19歳で背負えますか?
1588年(22歳)
北方の大崎義隆を攻めますが、最上義光が大崎家の援軍に駆け付けたため大敗。母義姫が兄と息子の間に立ち和解しました。唯一お母さんらしい??行為です。
1589年(23歳)
奥州南部を平定。奥州の武将たちを従えることにも成功し、合計114万石を支配下にしました。大敗した翌年に奥州南部を平定できる気力には脱帽です。
そして実母、義姫に毒殺されそうになります。(前年に助けたのにぃ…)伊達の中でも沢山の人が処罰されました。この事件を発端に、家督を狙っていた弟の伊達政道(小次郎)を手にかけます。(異説もあります。ただ義姫は弟に肩入れしていたことは確かなようです。)
1590年(24歳)
豊臣秀吉が、小田原征伐を行います。政宗も秀吉の元へ馳せ参じ、以後秀吉の配下になります。
政宗は出兵を渋っていましたが、小十郎に説得され出兵します。この出兵がなければ「独眼竜」の名は後世に伝わっていませんでした。小十郎えらい!
1592年(26歳)
文禄の役に出陣します。派手な格好をして参戦し、『伊達者』と呼ばれるようになります。『伊達者』の意味は「派手な振る舞いをする男」「粋な男」だそうです。今とは少し意味が違いますがやっぱり憧れの言葉なんですね。
1594年(28歳)
母の義姫が出奔して実家の山形城に戻ります。後年親子関係も修復され仙台に迎えられます。
親しかった前関白豊臣秀次の切腹に伴い、親しかった政宗にも謀反の疑いがかかりますが、弁明が上手く通り許してもらえます。殺すより生かすことをとった秀吉もまた覇者の一人なんです。
1600年(33歳)
関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に属し、最上家の山形城を攻めた上杉家家老・直江兼続と戦います。
上杉のを制役を果たしますが、どさくさに紛れて一揆を先導したことがばれ、評価が下がってしまいます。お調子にのっていたのでしょうか??
1601年(34歳)
仙台城を築城し、初代仙台藩主に就任します(60万石)加賀が100万石なのでかなり大きな取れ高だという感じ。よく考えたら納得。宮城県はササニシキの加賀はコシヒカリ昔からのコメどころ。米があるということは兵糧が確保できるし、強い武器も買えますからねぇ。
1605年(39歳)
娘の五郎八姫(いろはひめ)が、徳川家康の6男松平忠輝と結婚します。この二人の間には子供がいないと言われています。でもとても仲の良い夫婦だったそうです。
後に忠輝は改易(江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄(かろく)・屋敷を没収するもの。切腹より軽く、蟄居(ちっきょ)より重い。 )され離縁されますが
五郎八姫は再婚せずに一生を過ごしたそうです。
1613年(47歳)
家臣の支倉常長をヨーロッパに派遣(慶長遣欧使節)してます。
幕府からまた謀反未遂の関係者としてまたも嫌疑がかけられますが、またまた切り抜けます。嫌疑がかけられるということはそれだけ幕府は政宗を恐れていたのでしょう。もしかしたら取って代わられるかもという思いもあったのかもしれません。
鮮やかに嫌疑を切り抜けることもまた要因の一つだったのかもしれませんね。
1614年~1615年(47~48歳)
大坂冬の陣・夏の陣に出陣して豊臣方の重臣の後藤又兵衛を討ちます。戦功として伊予宇和島10万石を拝領します。これを長子の伊達秀宗を城主にします。
ちなみに仙台は嫡男の伊達忠宗が継ぎます。長子とはいえ嫡男より下って両方が嫌な感じですよね。これは現代人の私だから感じるのでしょうか。
1636年(70歳)
腹膜炎、または食道がんが原因で亡くなっています。
5月24日が命日でその日は伊達巻の日です。
まとめの前にちょっと補足。
伊達政宗は正室のほかに側室が7人いました。未確認情報なので何とも言えないのですが、外国人の側室がいたとか居ないとか(笑)子供もたくさんいました。
十男四女の子だくさん。
3代将軍家光が政宗に気を許していたのは、母親から疎まれていたということがあるのかもしれません。家光も実母に疎まれていましたから…。
世の中が落ち着いた後は、主に領地経営に力を注ぎ、治水対策をして表向きは仙台は62万石でしたが、実は内高74万5千石相当 あったようです。今なら所得隠しになってしまいますね(苦笑)。
米も江戸におろしていました。最盛期には「今江戸三分一は奥州米なり」 と書物にも記されてしました。
江戸は世界にも類を見ない人口を抱えていて、その3分の1はが奥州の米ということは、徳川にとっては大変なことだと思われます。食料を抑えられれば、身動きが取れなくなるのは今も昔も変わらないんですよね。
まとめ
[aside]
- 政宗の人生は若いころにかなり激動を迎えていた。
- なまじ力があるので謀反を何回も疑われ、その都度回避してきた。
- 子供が思った以上にたくさんいた!
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政宗を駆け足で年表を書いてきましたが、心に留まったものがあれば幸いです。