戦国時代

伊達政宗の性格は意外にも…?!逸話やエピソードから彼の性格を考察してみた

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伊達政宗は、江戸時代に仙台藩(宮城県)を築いた戦国大名。

政宗と言えば、三日月の兜と黒い眼帯がトレードマークですね。

ゲームやドラマなどにもよく出てくる人気の武将で、「独眼竜政宗」の愛称で知られていますね。

私も大好きな戦国武将のひとりです。

さて、伊達政宗は数多くの逸話を残す、とっても個性的な武将だったのです!

今回は歴史マニアの私が、政宗の逸話やエピソードから彼の性格を考えて行きたいと思います!

 

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政宗は派手好きで、お洒落さんだった⁉︎

エピソード①秀吉にこんな服装で会いに行った

 

1590年豊臣秀吉は北条氏への小田原城攻略を始めます。豊臣秀吉は織田信長に謀反を起こした明智光秀を破り、ここで一気に天下統一を成し遂げようとしていました。

一方伊達家は北条氏と同盟関係にあったため、秀吉に従って小田原攻めに加わるか、それとも北条に加勢して豊臣勢と戦うか、その意を決するまで政宗はかなり迷いました。

結局最後は秀吉に従うことに決めたものの、かなり遅い決断になってしまったため、秀吉の怒りを買うことになってしまいました。

そこで彼は恭順の意を示すため、ある行動に出るのです。

まず、大軍ではなくわずかの手勢(200人余)だけを引き連れて領地を出発します。

小田原に到着して謁見を許された時にはなんと、全身白装束で登場!政宗は、「申し訳ありませんでした。お詫びに死ぬ覚悟はできております。」と、自分の気持ちを秀吉に示します。

(白装束は死装束と呼ばれ、死ぬ前に着る服とされていました)

派手なパフォーマンスでしたが、幸いなことに秀吉自身もパフォーマンスが大好きで派手好きな人物でした。結果、この政宗の行動は気に入られ、遅参はお咎めなしとなったのです・・・!

伊達政宗は派手なものが好きで、インパクトの強い服装を披露したという記録がいくつか残っているそうです。

 

エピソード②伊達政宗を象徴するアレも秀吉のためだった

もうひとつ、伊達政宗と装束に関する有名なエピソードがあります。

1592年豊臣秀吉によって京で開かれた朝鮮出兵の出陣式がありました。そこで伊達の軍勢が着用していた戦装束も、とても豪華で煌びやかなものだったそうです。

紫紺地に金の日の丸が描かれた幟(のぼり)30本が揃えられ、足軽隊は金のとんがり笠をかぶり、朱鞘の太刀と銀箔の柄頭の脇差を腰に佩くという姿で現れました。

騎馬武者の鎧は全て黒、兜の前立ても金色の半月で統一という気合いの入れっぷり。馬飾りは虎・豹・熊の毛皮そして孔雀の羽で作られていました。全員の具足の前と後ろに金で星が描かれ、政宗自身は熊毛の陣羽織を身につけていたそうです。

この時の装束が評判になり、「伊達男」=派手でおしゃれな男性という言葉の使い方が後世に広まったようです。

しかし、この装束の真の目的は京の人々の目を驚かせることではなかったのです。

政宗は唐入り(朝鮮出兵)に賛成ではなかったのですが、他の武将と同様に表立ってこれに反対することができない状況と立場にありました。

そこで考えたのが、派手好きの秀吉が気に入りそうな派手で美麗な戦装束を整えることで、あわよくば伊達の軍勢を京の留守居隊に選んでもらおうと思い、この姿を選んだというわけなのです。

残念ながら政宗のこの作戦は成功しませんでしたが、2回目に行われた朝鮮派兵(慶長の役)では、伊達軍はめでたく留守部隊として京に残されます。

たしかに伊達政宗のあの三日月型の兜は、だいぶインパクトがあります。あれも秀吉ウケを狙ってのものだったんですね…伊達政宗は、今の世に産まれていたらファッションリーダー間違いなしだったかもしれません。

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政宗は実はヘビースモーカーだった⁉︎

伊達政宗は煙草を嗜む人で、遺品の中にも愛用していたキセルが見つかっています。毎日起床後・昼・寝る前に煙草を吸っていたそうです。どのくらいの量吸っていたかは分かりませんが、まるで食事のように規則正しく吸っていました。不思議です。

実は政宗は嗜好品として喫煙をしていたのわけではないのです。

当時の人々は煙草は薬だと考えていました。政宗も徳川家康と同じように健康には関心が強く、喫煙は健康法として取り入れていたものだったようです。

だから規則正しく煙草を吸っていたんですね。にしても、あんなに死に直面した戦いをいくつも繰り広げていたのに、健康オタクな一面もあったなんて意外ですね。

そして政宗は、とても几帳面な性格だったのだということも分かりました。

しかしながら政宗は、食欲不振や嚥下(えんげ・食物を飲み込む)時のつっかえ感があり、約2年で腹水が出現したことから、『食道癌とそれに伴う癌性腹膜炎』が原因で死んだのではないかと考えられています。

健康に良かれと思ってやったことが、裏目に出てしまったのとするとちょっと残念です。

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政宗は料理もできるおもてなし男子だった⁉︎

政宗には実はグルメな一面もあり、料理もお得意でした。徳川幕府が開かれ平和な時代になった後は、料理の研究を一生懸命にされていたそうな。

自ら腕をふるい、笹かまぼこ、ずんだ餅、伊達巻、高野豆腐、仙台味噌…などのこだわりの料理を作ってきました。あの徳川家2代将軍・秀忠を手料理でもてなしたこともあります。

3代将軍・家光をおもてなしした際は、全国津々浦々の名産を吟味して選び抜いた材料を使った献立を準備し、その献立全ての考案を自ら行い、味見から配膳まで何一つ人任せにせず、自分の手で準備したといいます。

その結果なのか、家光には何かと慕われていて、「伊達の親父様」と呼ばれたりもしたと伝わります。家光は家臣の言うことを聞かない時でも、伊達政宗のお咎めには従っていたようです。

政宗死んだ時には徳川家は江戸で7日間・京都では3日間の服喪をするよう、民に対して発令をしました。これは御三家以外の大名に対する礼としては異例中の異例で、公にも大変敬われていた存在だったことが分かります。

政宗の驚くべきおもてなし力…

また、政宗は料理の事に対し、こんなことを言っています。

「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」

何より料理を作ることが大好きだったんでしょうね。また、相手に喜んでもらいたいという、政宗の真心が素晴らしいものです。今の時代だったら、シェフでも主夫でもどちらでもいけますね!

 

 

筆まめ男子、政宗⁉︎

伊達政宗は手紙を書くのが好きだったようです。

大名は普通、右筆(祐筆とも)と呼ばれる「口述筆記係」に手紙を書かせることが多いのですが、彼は本当に筆まめで自筆の手紙をいろんな武将や家族に送っています。

約3,000通以上もの自筆書状が確認されているとか。これが例えば豊臣秀吉や徳川家康ですと、現存する直筆の書状は100通以下だそうです。この数字からもどんなに筆まめな人だったかがわかると思います。

自筆の手紙からは、自身の信頼する家族や一族の武将などに対してあけすけに自分をさらけ出していて、手紙の内容は面白いものが多いです。

芸事にも長けた政宗は、自筆書状を残した武将のなかでも抜群に字がうまいです。伊勢物語を書写して襖絵に残すなど、書に対する自信が相当あったようです。自分の筆を周囲の人たちに見てほしいという気持ちもあったのかもしれません。

政宗の手紙が気になる方は、「政宗の手紙」という本が出てるそうなのでチェックしてみてください!

 

 

【まとめ】政宗はとてもマメで、几帳面な性格だった

  • 政宗は派手好きな一面もありながら、料理もこなすおもてなし男子だった。
  • 健康オタクな面もあり、几帳面な性格で手紙もマメに書いていた。

というのが今回のまとめです!

この結果から見ると、政宗が今の時代に生きていたらかなりモテているのでは?

政宗の意外な一面がたくさん見られました。

今回は伊達政宗の逸話やエピソードから、政宗の性格について解説させていただきました!

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