江戸時代

個性豊かすぎる、江戸幕府の歴代将軍達一覧

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天皇陛下がお住いの皇居。

この皇居は皆さんご存知の通り、かつて歴代の江戸幕府の将軍が住んでいた江戸城でした。

江戸幕府の15人の将軍達、初代の徳川家康から最後の将軍・徳川慶喜まで、有名な将軍から名前だけ何となく知っている将軍まで様々です。

これを機会に歴代将軍がどんな人物だったのか、調べてみましょう!

*以降()内は将軍職についていた期間です。

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江戸幕府の基礎を築いた将軍達

(1)初代将軍・徳川家康(16031605

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」

戦国時代の三英傑の一人で、江戸幕府を開き戦乱の世を終わらせた初代将軍です。

前述したホトトギスの俳句は、織田信長、豊臣秀吉が派手な活躍をする中で、どんなに不運に見舞われても辛抱強く耐えた家康の性質をよく表しています。

生まれは三河国(現在の愛知県岡崎市)。幼少期を今川義元の人質として駿府で過ごしました。

今川義元が討ち死にした後は、今川家から独立し織田信長と同盟を組み(清洲同盟)、三河国を平定します。

当時天下を取るのではないかと言われていたのは、甲斐国の武田家。家康も北条氏と手を組み、武田家の領地を攻撃していました。しかし戦上手な武田信玄。

徳川家康は武田信玄と1573年に三方ヶ原の戦いで対決をしますが、結果は徳川家康の惨敗。命からがら武田信玄から逃げ帰った際には恐怖のあまりおもらし(大の方)をしてしまったのは有名なお話…

ただ、徳川家康が野戦で敗北したのは、生涯でこの戦いだけでした。

1582年に本能寺の変後、実権を握ったのは豊臣秀吉です。家康は豊臣政権時代には、秀吉の推挙により朝廷から従二位・権大納言に叙任され、駿府を始めとし、関東の監視役に任じられていました。

秀吉の死後、内大臣となっていた家康が朝廷の官位でトップとなり、また秀吉も死の間際に「秀頼(息子)が成人するまでは政を家康に託す」と遺しており、五大老の筆頭と目されるようになっていました。

そして1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると西軍(石田三成軍)についていた小早川秀秋の裏切りによって、東軍(徳川家康)は大勝利を納めます。

関ヶ原の戦後処理を終えた後、ついに家康は天下を手中に収め江戸幕府を開いたのです。

幼少期は人質となり、武田氏には屈辱的な大敗を喫し、長いこと織田・豊臣の家臣として勤めた家康は、本当に冒頭の俳句の通りに我慢強い人物だったんですね。

 

(2)第二代将軍・徳川秀忠(16051623年)

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]この人関ヶ原に遅刻した人です[/voice]

徳川家康の三男として生まれ、江戸幕府第二代将軍となりました。

2011年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」では、向井理さんが演じられていました。妻は日本史上最も有名な三姉妹・浅井三姉妹の末っ子、江(お江与の方とも)です。

秀忠の幼名は竹千代。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、10歳の竹千代は実質の人質として上洛し元服。豊臣秀吉の一字をもらい受け、秀忠と成りました。

1600年の関ヶ原の戦いでは、東海道を進軍する徳川家康本体に対し、別働隊を率い中山道から近江を目指すのですが…

進軍途中、上田城にて真田昌幸・真田幸村の抵抗を受けると、3万8000の大軍を率いながらわずか2000の真田勢に時間を費やしてしまい、関ヶ原へ急いだものの悪天候などが重なり、何と天下分け目の関ヶ原決戦の当日に間に合わないと大失態を犯してしまうのです…!!

1605年、徳川家康より将軍職を譲り受け、第2代将軍となりました。この時、正室の江との間に生まれた千姫が豊臣秀頼に嫁いで行きます。

多くの人の中では、何となく「関ヶ原に遅刻した」イメージが強いですが、大坂冬の陣・夏の陣が終わり、淀殿と豊臣秀頼が自決すると武家諸法度・禁中並公家諸法度を整備・定着させ幕府の基礎を固めました。

娘の和子を入内させ朝廷との繋がりも強くし、鎖国政策としてはオランダ外国船の寄港を長崎・平戸に限定させます。

父親の家康の活躍に隠れがちですが、しっかりと幕府の礎を築いた第2代将軍でした。

 

(3)第三代将軍・徳川家光(1623 - 1651年)

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]江戸幕府の「基礎」を固めたのはコノヒトですね   [/voice]

第二代将軍・徳川秀忠とその正室・江との次男として、1604年江戸城で生まれました。

1623年に父・秀忠が隠居した20歳の時に、将軍職が譲られ第三代将軍となりました。

将軍継承の際に、父・秀忠が家光の弟の国松を溺愛したため、家光の家督継承を危惧した乳母の春日局が、隠居していた徳川家康に願い出たため、家光の世継決定が確定したと言われています。

上記のように全会一致で後を継いだわけではない為立場が不安定であり、また1624年には父・秀忠の勧めで公卿の娘の鷹司孝子が家光の正室となりました。

その為、隠居したにも関わらず秀忠の影響力は強く、誰が将軍なのかわからない状態が続きました。

その為秀忠が存命の時は目立った政策が行われませんでしたが、1632年に秀忠が亡くなると本領を発揮します。

まず幕府に老中・若年寄・奉行・大目付という役職を設け、将軍を最高権力者としての「公方」という位置付けを確立させ、平和な世の中の組織へと作り変えました。

1635年には武家諸法度も改訂し、諸大名に参覲交代を義務づけます。

1637年に発生た、天草四郎が率いた「島原の乱」を鎮圧すると、貿易相手国をオランダのみに絞り、1641年には長崎の出島にオランダ商館を築きました。

280年続いた江戸幕府の基礎は、この三代将軍家光の時代に完成したとも言われていますが、唯一問題だったのは正室との間に子供がいなかったということでした。

実は家光は「男色」だったとも言われ、正室とは仲が悪く、困った春日局はかの有名な「大奥」を作り上げ美女たちを集め、家光の手がつくように仕向けるのです。

そして1641年、側室のお楽の方が生んだ子が、第四代将軍・徳川家綱となりました。以後、大奥は将軍の世継を設けるために機能するようになりました。

いろんな意味で幕府の基礎を固めた、第三代将軍でした。

 

(4)第四代将軍・徳川家綱(16511680年)

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]優しい人物だったらしいぞ[/voice]

「徳川家綱」と聞いて、パッと「○○をした人!」と答えられる人っていますかね…?ちなみに私は答えられません笑

三代将軍・家光と、次に続く五代将軍・綱吉のキャラが濃すぎるため、正直キャラが薄く感じますが、優しい人物だったと言われています。

家光の時代まではとにかく「怪しい奴は断固処断!」の「武断政治」でしたが、家綱の時代からは「とりあえず話を聞いてみてから判断しよう」と「文治政治」へ転換しました。

政治にはあまり興味関心がなかったとも言われており、重臣の報告や許可を求めた際は全て「左様にせい」と頷くだけだったので「左様せい将軍」とバカにされていたようです。

でも本人としては政治家としての能力がないことを自覚していたので、手腕のある人に任せた方が良いと思っていたのかもしれませんね。

 

(5)「お犬様」だけじゃない!第五代将軍・徳川綱吉(16801709年)

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]犬将軍といえばこの人[/voice]

第五代将軍・徳川綱吉は三代将軍家光の四男として、1646年江戸城で生まれました。

1680年に五代将軍となると、早速前将軍の家綱の時代に下落した将軍の権威向上に努めます。(やっぱり優しいだけじゃダメなんですね)

とはいえ、家綱の時代に始まった文治政治を引き続き推進し、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど学問好きの将軍でした。

徳川綱吉の治世の前半は「天和の治」と言われ善政とされていましたが、彼を一躍有名にしたのは悪政と言われる「生類憐れみの令」です。

1685年に始まった「生類憐れみの令」は一度の成分法ではなく、135回も出された複数のお触れの総称です。

最初は「殺生は慎め」というごく当たり前なものでしたが、徐々にエスカレートしていき、犬、猫、鳥はもちろん、魚、貝、虫にまで及びました。(な、何食べればいいんだ…)

この「生類憐れみの令」によって、徳川綱吉にはすっかり「過酷なお触れで庶民たちを苦しめた」と悪評が定着してしまいましたが、実は彼の治世下では近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉など文化人が大活躍し、景気はとても良かったため、優れた経済政策を執っていたと評価もされています。

 

(6) 第六代将軍・徳川家宣(17091712年)

甲府藩主・徳川綱重の長男として江戸の根津邸で生まれました。三代将軍徳川家光の孫に当たります。

彼は父が正室を娶る前、身分の低い年上の女中に生ませた子供であった為、家臣の新見正信に預けられ、養子として新見左近と名乗っていました。

しかし、彼が9歳の時に他の男子に恵まれなかった父に世継として呼び戻され(お父さん、勝手!!)、17歳で家督を継承しました。

第四代将軍・家綱に男子がいなかった為、後に五代将軍となる綱吉とともに次の将軍候補となりましたが、三代将軍家光に血が近い綱吉が将軍に。

しかし綱吉にも男子がいなかった為、六代将軍職を綱吉の娘婿の紀州藩主・徳川綱教と争いましたが、「徳川家光の孫」である事が決め手となり、六代将軍・徳川家宣となりました。

家宣は早速、綱吉の「生類憐れみの令」を一部を残し順次廃止。学者として新井白石を登用し、綱吉の時代から続く文治政治を引き続き推進していきました。琉球や李氏朝鮮との外交や、宝永令の発布、新井白石による正徳金銀の発行などの財政改革を試みます。

1712年に、現代でいうインフルエンザで亡くなりますが、慈悲深く真面目、細面のハンサムな将軍だったそうです。

 

(7) 第七代将軍・徳川家継(17131716年)

第六代将軍・徳川家宣の四男として生まれました。

兄弟が皆早くに亡くなってしまい、彼が将軍となったのはわずか4歳の時でした。

彼もまた病弱で、8歳で亡くなってしまいました…

ちなみに家継が亡くなった時の婚約者は、1歳7ヶ月でした…

 

(8)頼れるリーダー - 第八代将軍・徳川吉宗(17161745年)

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]皆さまご存知、「暴れん坊将軍」のモデルとなった第八代将軍です。[/voice]

彼は1684年、徳川御三家の紀州徳川家に生まれました。

万が一徳川将軍家に跡継ぎがいなかった場合、将軍職を継ぐというルールにのっとり、家継が亡くなった後に八代将軍となりました。徳川家康は曾祖父に当たります。

自身が将軍になった後、政治の実権を握っていた新井白石をクビにし、将軍自ら政治を行う体制を整えました。

さらに幕府の財政再建のため、新田の整備や倹約、法令の整備や訴訟の円滑化を計りました。彼の一連の改革のことを「享保の改革」と言います。

また「目安箱」を設置し、農民や町人の意見にも耳を傾けました。この目安箱のおかげで、貧しい人々のために病院(小石川養生所)や、消防所(め組で有名な町火消)が設置されました。

さらに裁判の基準として公事方御定書を制定し、大名からも1万石あたり100石の割合で米を徴収し(上米)、幕府の財政安定を図ります。

現代でも人気があるの、わかる気がしますね。

 

(9) 第九代将軍・徳川家重(17451760年)

徳川吉宗の長男として将軍職を継ぎ、第九代将軍となりました。

しかし、家重には脳性麻痺(?)か何らかの病にによる言語障害があったと言われ、家臣ですら何を言っているのか聞き取れなかったようです。

彼が将軍になることに反対をする声も少なくなかったようですが、確かに脳性麻痺により運動神経はうまく働かないけれど、知能は正常だったと言われています。(将棋が得意だったとも)

晩年にはのちに幕府の財政を立て直し、町人文化を開花させる田沼意次の才能を見出し、自分の死後も重用するように遺言を残しました。

 

(10)優れた決断力 - 第十代将軍・徳川家治(1760~1786年)

病弱な第九代将軍・家重の息子です。

小さい頃から頭が良く、祖父の吉宗から可愛がられ、次期将軍としての教育をしっかりと施されます。

23歳の時に父・家重が隠居し、将軍職を継ぎます。

そして父の遺言に従い田沼意次を重用し、印旗沼・手賀沼(千葉県)の干拓事業や蝦夷地の開発、およびロシアとの貿易計画に「許可」を出しました。

これらは自分が考えたことではありません。全て田沼意次のアイディアに対し許可を出した、ということです。自身は将棋に熱中していたので「無能」と言われることもありましたが、優秀な人材に任せることができる決断力が素晴らしかったということです。

表向きの仕事は部下に任せっぱなしでしたが、一方で大奥の経費削減にも努めました。

しかも正室をはじめとして、父の家重や弟含め家族仲が良かったことでも有名です。

…「経済観念がしっかりしていて、決断力もある、家族仲も良い」とか旦那様にはピッタリかもしれません…

 

(11)第十一代将軍・徳川家斉(17871783年)

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]性欲旺盛すぎてヤバイんじゃないの?コノヒト[/voice]

徳川家斉は徳川御三卿の一つ、一橋徳川家に生まれました。

十代将軍・家治の息子が急死し、他に適当な男子がいなかった為あれよあれよと次の将軍候補となり、家治の養子となりました。

家治が亡くなった後、家斉は15歳になります。

元服しているとはいえ政治のことはさっぱりわからない状態だったので、実質的には老中をはじめとしたお偉いさん達が取り仕切っていました。

この時田沼意次が罷免され、次第に幕府の財政が傾き始めます。

家斉自身も贅沢をし始め、なんと側室は40人!子供は55人!!27人は早いうちになくなってしまいますが、それでも28人の子供!! 

この元気さをもっと他のところに使ってくれれば良いものの、世はインフレ状態で、天保の大飢饉は起こり、息子に将軍職を譲ってもまだ実権を握り続けると、無駄に身体が丈夫な将軍でした。

 

(12)第十二代将軍・徳川家慶(18371853年)

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]第十二代将軍・徳川家慶は、完全に親に翻弄されてしまった将軍だったと言えるでしょう。[/voice]

父親は第十一代将軍・徳川家斉です。

隠居したにも関わらず、引き続き実権を握り続けました。お父さんだけならまだしも、お父さんはそのお父さん(家慶のおじいさん)に実権を握られていたもんだから、一体誰が将軍なんですか?という状態が家斉の時代から続いていました。

家慶の治世中には浦賀にペリーが黒船を率いて現れ、日本中が大騒ぎとなりました。

いよいよ日本の歴史が動く時、そして家慶の手腕が発揮されようかという時に、ペリーが来航してわずか三週間後に亡くなってしまうのです。

実の親に翻弄され続け、ちょっとかわいそうな感じもします…

 

(13)第十三代将軍・徳川家定(18531858年)

幕末の激動の時代の始まりに将軍職に就いた家定は、十二代将軍・家慶の四男として生まれました。家慶は子沢山だったものの、成人した男子は家定だけ。

その家定も病弱だったため、気後れしてか人前に出ることをひどく嫌ったそうです。脳性麻痺があった、天然痘の痕が顔に残っていたなど様々な説がありますが、コンプレックスの塊だったのかもしれません。

しかし黒船が来航した1853年に将軍職に就くことになり、就任直後に開国を迫られるわ、家臣からは決断を迫られるわで、ストレスのため体調の悪化に拍車がかかっていきました。

さらに次の将軍の候補者も決めることを家定本人に求められ、さらに重責がかかります。(もうやめてあげて…涙)

家定は最終的に従弟に当たる、紀州藩主の家茂(当時は慶福)を次期将軍に選んだ直後、35歳の若さで亡くなります。

家定の三人目の正室として迎えられたのが、薩摩の島津斉彬の養女・篤姫でした。2008年の大河ドラマでは宮崎あおいさんが篤姫を、徳川家定を堺雅人さんが演じられました。バカ殿的行動の中で、時折見せる真剣な眼差しに、思わずキュンとした思い出があります。笑

篤姫は父・斉彬の密命(一橋慶喜を次期将軍候補と家定に決めさせること)を受けて、家定の正室となります。しかし密命は置いておいて、少しずつ心を通わせていった中での突然の永遠の別れは、涙なしでは見られないものです…

 

(14)第十四代将軍・徳川家茂(18581866年)

徳川家茂は1846年、第十一代和歌山藩主・徳川斉順の長男として生まれました。

性格はいたって穏やかで頭も良く、責任感も強い。悪いことをしたと思ったらしっかりと謝罪をするといった、大変な好青年だったと言われています。

後に勝海舟から海軍の必要性を説かれ、素直に彼の意見を取り入れ、勝海舟からべた褒めされる人物でした。

そんな人材が幕末の動乱の中で放っておかれるわけもなく、大老・井伊直弼に担がれて十三代将軍・家定の後継者として、一橋慶喜と共に将軍継子問題に巻き込まれていきます。

最終的には徳川家茂の勝利となり。1858年第十四代将軍となります。

時は尊皇攘夷やら公武合体やらの風が吹き荒れる幕末。幕府も朝廷とのつながりを婚姻によって強くしようと、当時の孝明天皇の妹・和宮との縁談を成立させました。

1862年、慣れ親しんだ京都を泣く泣く離れた和宮は、顔も知らない家茂の元へと嫁ぎました。

が、待ち受けていたのは貴公子然として、心優しい少年でした。政略結婚とはいえ、二人は非常に仲睦まじかったと後世にも伝わっています。

家茂は1863年、1864年と2度にわたって、公武合体の為に上洛をします。しかし1864年の京都は、池田屋事件や禁門の変など危険極まりない街へと変貌を遂げ、長州藩討伐への動きが激しくなっていました。

そんな大変な状況の中、家茂は大阪城で病死してしまいます。まだ21歳の若さでした。

家茂の帰りを待つ和宮のもとに、家茂が彼女への贈り物に取り寄せていた西陣織の着物だけが帰ってきました。

「空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ」

美しい着物も見せるあなたがいないのに、何の意味があるのでしょう…

残された和宮の気持ち、彼女を一人残してしまう家茂の二人の気持ちを考えると、胸が張り裂けそうになりますね。

 

(15)第十五代将軍・徳川慶喜(18671868年)

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]言わずと知れた「最後の将軍」です。 [/voice]

1837年、江戸の水戸藩邸にて、過激な尊王攘夷派の徳川斉昭の息子として生まれ、父親の方針で、慶喜は江戸ではなく水戸で厳しく育てられました。

徳川家茂の項でも述べましたが、11歳で一橋家を継いだ慶喜は、紀州の徳川慶福(家茂)と共に十三代将軍・家定の後継争いに巻き込まれていきます。

本人は全く将軍職に興味はない中で、完全に腹の中で色々企んでいる大人達に翻弄された形です。

最終的に十四代将軍には家茂に、そして慶喜は勝手に日米修好通商条約を米国と結んだ大老・井伊直弼に意見し、謹慎処分を命じられてしまいました。

桜田門外の変で井伊直弼が討たれた後謹慎が解かれ、将軍後見職となり、1864年に禁門の変では自ら軍を率いて長州藩を撃退する活躍をしました。 

家茂が亡くなった後に、十五代将軍となりますが待ち受けていたのは深い深い茨の道。

まさかの薩摩藩と長州藩が同盟を結び(薩長同盟)、孝明天皇が亡くなるわ…そしてついに1867年、京都の二条城で「大政奉還」を行い形式的に江戸幕府が終わりました。

江戸幕府を終わりにしたと言っても、実権はまだ握っており、このまま政治の中枢が幕府から朝廷に移っても引き続き権力を握ろうと画策しておりましたが、「王政復古の大号令」により計画は頓挫します。

さらには新政府軍と旧幕府軍との内戦(戊辰戦争)が勃発。慶喜も本当に朝敵となってしまっては元も子もないので、兵を置いて江戸へ帰りますがこの行動が最後まで慶喜に「裏切り者」「卑怯者」のレッテルを張ることになりました。

頭が良すぎるがゆえに周りの人がすぐにはわからない行動を取ってしまい損をしがちですが、よくよく考えると慶喜の行動は全て筋が通っていると言えなくもないのです。

明治維新の後はひっそりと暮らしますが、明治30年には貴族院議員として再び政治の世界に返り咲いたのです。

 

 

まとめ

280年続いた江戸幕府の15人の将軍たちを、ざっと駆け足でみてきました。

どの将軍もなかなか個性的で面白い人物ばかりです。将軍になるべくしてなった人や、もっと別の人生を歩んでいたら幸せになれただろうなと様々です。

彼らがいての今の日本があるわけですから、一度は勉強してみるのも良いのではないでしょうか。

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