2004年、これまでの1000円札と5000円札の肖像が変更となったのは記憶に新しいですね。
1984年から使用されていた夏目漱石の1000円札と、新渡戸稲造の5000円札は、この年、新たに野口英世(1000円札)と樋口一葉(5000円札)に変わりました。
そんな中、1984年から肖像が変わらないお札がありますよね。
10000円札の福沢諭吉です。
現在の日本の最高額紙幣の肖像に、1984年からずっと変わらず使用され続けている彼は、いったいどんな功績を残したのでしょうか。
福沢諭吉はどんな人物なの?
福沢諭吉は1835(天保5)年、大阪にある中津藩(現在の大分県)の蔵屋敷生まれ。
中津藩(大分県)は当時の日本の玄関口・長崎にも非常にアクセスが良く、藩全体に蘭学を学びやすい空気がありました。勿論彼も武士の子なので、剣術や儒学も学びました。しかし、後に彼の人生を決めたのはやはり蘭学でした。
早くから蘭学に親しんでいたおかげで、黒船が来航した翌年の1854(嘉永7年)、長崎へ遊学する事となります。翌年には大阪に戻り、有名な「適塾」へ入塾。
同じころ中津藩では、黒船来航以降活気づいている江戸に蘭学塾を構えるプロジェクトを進めており、福沢諭吉もこれに参加する事になりました。
文字が読めないことに愕然!
しかしいざ江戸に出てきて、横浜の外国人居留区に来た時に福沢は、文字が読めないことに愕然とします!それもそのはず、彼が学んできたのは「蘭学」、つまりオランダの学問。横浜で彼が見たのは「英語」だったのです。
彼はオランダは小国にすぎず、今の世界を動かしている列強には入っていないことを痛感!これからはイギリス、アメリカ、フランス、ロシアに学ばなければならない、「英語の時代」であることを知ったのです。
とはいえ、英語の書物を入手することは難しく、福沢も悪戦苦闘している中、1859(安政6)年にビッグチャンスが訪れました。日米修好通商条約を締結を機に、幕府が使節団を派遣することとなり、福沢も咸臨丸に乗船することとなりました。
アメリカに衝撃を受ける!
アメリカに到着後、福沢はとにかく思想や政治制度に心の底から衝撃を受けました。日本の幕府が徳川家の世襲制度で将軍が決まっているのに対し、アメリカではこの時にはすでに民意による選挙で政権を決めていたからです。
またアメリカでは中国語ー英語の辞書「華英通語」を手に入れ、翻訳し「増訂華英通語」として出版されるとたちまちベストセラーとなりました。
この功績を買われ、福沢は翻訳者として出仕することに。語学力を買われ、福沢は1862(文久2)年、幕府の使節団として欧州にも向かいました。(文久遣欧使節団)この道中、彼は人種差別、植民地主義、帝国主義といった、列強諸国の負の側面も痛感することとなるのです。
ちなみに彼が欧州へ行った時期は、倒幕派が日本で大暴れしており、英国公使館を焼き討ちにしたり、攘夷を叫んで短絡的なテロが横行し始めていました。自分自身も日本ではテロの対象とならない状況です。
謹慎‥!そして近代日本の教育の基礎を作り上げる
1867(慶応3)年、福沢は使節として二度目の渡米をしますが、帰国時は戊辰戦争真っ只中だった為、謹慎処分となりました。周りでは上野戦争真っ只中にもかかわらず、福沢は英語や経済学の授業を続けていました。
徳川家が江戸城を出ると、福沢も幕府直参としての縁を一切きり、平民となります。明治の世になると、華々しく教育者としてのキャリアを重ねていきます。
1901(明治34)年に67歳でこの世を去るまで、教育の点から近代日本の基礎を作り上げました。時代としては坂本龍馬や高杉晋作らが活躍した時代と全く同じだったにもかかわらず、福沢は明治の世になってからの方が脚光を浴びました。
自分自身を「政治の下戸」と称していたので、政府から距離を置いていたのが後世に評価されることとなりました。
幕末の世に生まれたにもかかわらず、倒幕運動、開国運動とは一線を引き、いち早く欧米諸国を見て回っていたところがかっこいいですね。
福沢諭吉の出身地は?
前述もしておりますが、福沢諭吉の出生地は大阪堂島の中津藩蔵屋敷です。
中津藩士・福沢百助と、妻・順の次男として生まれました。
福沢が1歳の時に、父の百助が他界。
母や兄弟とともに、故郷の豊前国中津(現在の大分県中津市)に戻り、19歳までこの地で育ちます。
中津藩の主君・奥平昌猷(まさみち)は、薩摩藩の大名・島津重豪の孫にあたる人物でした。特にこの島津重豪は「蘭癖大名」と言われるほど蘭学に傾倒しておりました。
奥平昌猷の父、昌高も同じく蘭癖大名と言われており、さらに遡った中津藩3代藩主の奥平昌鹿は「解体新書」の翻訳者である前野良沢を高く評価した人物でした。
また当時の日本の玄関であった長崎にも近く、育った場所が「蘭学」を学ぶには最適の場所であったと言えます。
福沢諭吉のエピソード、逸話
お札や時々見る若い時の写真(イケメン)から見ると、なかなか超真面目そうな、堅物な感じを見受けます。何より慶應義塾大学の創設者っていうイメージもついているのかもしれないですけど(笑)
でも実際の福沢はかなりの破天荒な人物だったようです。
1、福沢諭吉は全裸グセがあった!!
20代の前半、蘭学を学ぶために福沢は大阪の蘭学者・緒方洪庵が主宰する「適塾」に入塾し、塾舎に住み込んでいました。
大坂といえば夏は猛暑。耐えかねた福沢は塾舎の2階にある居室では、ふんどしも下着も何も着けず、完全な「裸族」として過ごしていました。
ある夜、福沢が塾舎の二階で寝ていると、下の階から自分を呼ぶ声がして目を覚ましました。夕方お酒を飲んでいてうとうとしていた福沢は「うるさい下女だ。何の用だ」と起き上がり、真っ裸のまま階段を飛び降ります。
「何の用だ」と苛立ちを隠さないまま言い放ったところ、目の前にいたのは下女ではなく、師の緒方洪庵の奥さんだったのです。師匠の奥さんに全裸を晒すという狼藉。(笑)
福沢も相当焦ったのか、真っ裸のまま、お辞儀もせず、さりとて逃げ出そうにも逃げ出せず、ジッとその場で凍り付いてしまったそう…彼は恥ずかしさのあまり、翌日謝りに行くこともできなかったとのこと。そのことを時々思い出しては、生涯悔い続けたそうです…
2、カレーを最初に日本に伝えた
前述したとおり、福沢は使節団の一員として欧米に渡っています。咸臨丸でアメリカへ渡った際に、彼は現地で手に入れた「華英通語」を訳し、初の著書として「増訂華英通語」を出版しました。
その中で「Curry」という単語に、「コルリ」とふりがなを付けました。しかし食べ物ではなく「煮る」「焼く」「蒸す」といった調理法のページに分類されていました。
当時アメリカにもカレーは伝わっておらず、料理として認識されていなかったのかもしれません。さすがの福沢もCurryが一体どんなものかはわからず、この著書の中でも意訳が記載されておりません。
その3年後、1863年、江戸幕府による遣欧使節団(横浜鎖港使節団)が派遣されました。(スフィンクスの前で記念撮影をした侍たちで有名なご一行です)
道中食べ物が合わず、お米が食べたいと難儀していたところ、岩松太郎という青年武士がカレーライスを目撃し、日本人として初めて記録に残したと言われています。
福沢諭吉の功績
福沢諭吉の功績と言えばまず、慶應義塾大学の創設や、「学問のすすめ」を著したなどがぱっと思い浮かぶかと思います。
でもそれ以外にも、彼は近代日本の発展、また教育において大きな功績を残しました。
①近代教育の礎を築いた
福沢はその生涯を教育に捧げ、近代教育の礎を作り上げました。
前述した通り慶應義塾大学の創設にも携わりましたが、それ以外にも一橋大学、早稲田大学、専修大学の創設にも関わりました。
②洋書の翻訳をした
彼が生きた幕末~明治初期、特に幕末は江戸時代からの鎖国の影響で、外国語が出来る人が多くありませんでした。
福沢は20代前半の適塾時代から洋書の翻訳を行っております。
「Speech」を「演説」、「society」を「社会」と訳したのは福沢と言われています。
③銀行の考え方を伝えた
江戸時代に欧米を回っていた福沢は、帰国後、中央銀行という考え方を日本に伝えました。
複式簿記を伝えたのも、福沢の功績です。
④保険制度を紹介した
江戸時代までは有事の際は、親族間で何とかするという考え方が多数を占めていましたが、福沢が「西洋旅案内」でヨーロッパの保険制度を紹介したことがきっかけで保険という考えが広まりました。
⑤様々な提言を行った
新聞に「国会論」を掲載し、国会開設や憲法制定に向けた提言を行いました。また木戸孝允と協力して、近代学校制度「学制」を制定したのも福沢諭吉です。
まとめ
今回のお話を端的にまとめると‥
- 早くから蘭学に親しみ、また英語の必要性に気が付いた
- 二度の海外派遣により、いち早く西欧の文明を取り入れて、幕末の攘夷運動に批判的だった
- 意外と豪快な性格でハダカになる癖があった
- 近代日本の教育に生涯をささげた
- 今で当たり前に知っている様々な外国をを日本語に訳した。
- 銀行、保険制度を伝えた
- 様々な提言を国に対し行った。
一万円の肖像になり続けるだけの功績を沢山残してきたんですね。
すっかり一万円札で定着してしまっている福沢諭吉ですが、もっとその人生や功績について、我々も深く知るべきですね。
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