日本人の誰もが知っている、お財布の強い味方…ではなく、偉大な教育者である福沢諭吉。
彼は坂本龍馬や高杉晋作など幕末の有名人と同じ年代の人物であるにもかかわらず、大きな功績は明治以降になってからのものがほとんどです。
いったい彼はどんな人生を歩んできたのでしょうか。
福沢諭吉の人生を年表形式で見ていきましょう。
福沢諭吉の生涯
①誕生~大坂・適塾時代
1835年(天保5年) | 摂津国大坂堂島浜にあった、豊前国中津藩蔵屋敷で、下級藩士の福 沢百助と、妻・於順の次男として生まれる。 |
1836年(天保6年) | 父の死により、大坂から帰藩。中津(現在の大分県中津市)で過ごす。 |
1840年ごろ | 5歳ごろから藩士の服部五郎兵衛に、漢学と一刀流の手ほどきを受ける。 |
1,843年ころ | 8歳ごろから福沢の兄も師事した、野本真城と白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。 論語」「孟子」「詩経」「書経」はもちろん、「史記」「左伝」「老子」「荘子」を学ぶ。 |
1854年(安政元年) | 19歳で長崎へ遊学し、蘭学を学ぶ。 |
1855年 | 大坂にもどり、蘭学者・緒方洪庵の適塾で学び始める。ところが腸チフスを患い、一度中津へ戻り静養する。 |
1856年(安政3年) | 再び大坂へ出て学ぶ。しかし同年、兄が亡くなり福沢家の家督を継ぐこととなる。しかし大坂遊学をあきらめきれず、父の蔵書や家財道具を 売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って、再び大坂の適塾で学び始める。
学費を払う余裕はなかったので、福沢は同郷の奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した、築城学の教科書を翻訳するとい う名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶ。 |
1857年 |
最年少の22歳で適塾の塾頭となる。 オランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験を行っていた。 |
②江戸~渡米時代
1858年(安政5年) | 中津藩から江戸への出府を命じられる。 江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となる為に、古川正雄、原田㐂蔵を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から 移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介、沼崎済介が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」が後の学校法人・慶應義塾の基礎と なった為、この年が慶應義塾の創設の年と言われている。 |
1859年 |
日米修好通商条約により、外国人居留地となった横浜へ見物に出かける。 そこでは英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語が通じず、また看板すら読めない事に衝撃を受ける。 以降、英語の必要性を痛感した福沢は、英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。 |
1859年(安政6年) | 冬、日米修好通商条約の批准交換の為、使節団が米軍艦・ポーハタン号で渡米する事となり、その護衛として「咸臨丸」 をアメリカ合衆国に派遣する事が決定した。 |
1860年2月10日 | 福沢は咸臨丸の艦長となる、軍艦奉行の木村摂津守の従者としてアメリカへ立つ。同年5月5日に帰国。 |
③幕末期
1861年(文久元年) | 中津藩士・土岐太郎八の次女、お錦と結婚。 |
1862年(文久2年) |
文久遣欧使節団を英軍艦・オーディン号で欧州各国へ派遣する事となり、福沢も翻訳方として同行。 途中立ち寄っ香港で、帝国主義・植民地主義を目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫のように扱う姿に衝撃を 受ける。 ロンドンでは万国博覧会を視察、蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。樺太国境問題を討議する為に入ったペテルブルグでは、陸軍病院で外科手術を見学。 幕府から支給された金400両で、英書・物理書・地理書を買い込む。 |
1863年(文久2年) | 1月(12月)に帰国。 |
1863年(文久3年) | 7月に薩英戦争が勃発。幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、徹夜で外交文書の翻訳に当たった。 |
1864年(元治元年) | 外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕、臨時の「御雇い」ではなく、幕府直参として150俵・150両を受けて、 御目見以上となり、「御旗本」となる。 |
1865年(慶応元年) | 幕府の長州征伐の企てについて、幕臣の立場からその方策を献言した「長州再征に関する建白書」では、大名同盟論の 採用に反対し、幕府の側に立って、その維持の為には外国軍隊に依拠する立場も辞さないという立場を取る。 |
1867年(慶応3年) | 幕府の軍艦受取委員会随員として、コロラド号という郵便船で再渡米。ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDC を訪問。1867年7月に帰国。 |
1868年(慶応4年) | 蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念。官軍と彰義隊の合戦が起こる中でも、F・ウェイランドの「経済学原論」の講義を続けた |
1869年(明治2年) | 本格的な西洋戦術書「洋兵明鑑」を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳する。 |
④明治維新〜晩年
1871年(明治4年) | 三田の旧島原藩中屋敷の土地に、慶應義塾を移転。「帳合之法(現在の簿記)」などの講義を始める。 |
1872年(明治5年) | 「学問のすゝめ」の初編を刊行。(明治9年の17編で完結) |
1873年(明治6年) | 慶應義塾と東京英語学校(現在の東京大学教養学部)は、例外的に徴兵令免除の待遇を受けることに。 |
1873年(明治6年) | 木戸孝允と会談。「学制」を制定。西洋式簿記の教科書「帳合之法」刊行。 |
1874年(明治7年) | 西洋のSpeechを広める為に、三田演説会を開始。 |
1875年(明治8年) | 三田演説館を開設。「文明論之概略」を刊行。 |
1879年(明治12年) | 東京学士会院(現・日本学士院)の初代会長に就任。「民情一新」「国会論」を刊行。 |
1880年(明治13年) | 社交のための結社「交詢社」を創立。 |
1881年(明治14年) | 「明治14年の政変」が起こり、福沢門下生が官界から追放される。 |
1882年(明治15年) | 日刊新聞「時事新報」を創刊。 |
1890年(明治23年) |
慶應義塾に大学を設置、文学、理財、法律の三科を置く。 |
1892年(明治25年) | 北里柴三郎を助け、伝染病研究所の設立に尽力。 |
1894年(明治27年) |
売りに出た耶馬渓の競秀峰一帯の土地を買い取る。自然保護の先駆。 |
1897年(明治30年) | 「福翁百話」刊行。 |
1898年(明治31年) |
「福沢全集」全5巻を刊行。脳溢血を発症。 |
1899年(明治32年) | 「福翁自伝」「女大学評論・新女大学」を刊行。 |
1900年(明治33年) |
門下の高弟数名に編纂させた「修身要領」を発表。 |
1901年(明治34年) | 1月25日脳溢血再発。2月3日、東京の三田の自宅で永眠。 |
まとめ
福沢諭吉の生涯を年表で見てきました。
幕末期、日本が攘夷を叫んでいる中、いち早く外国へ目を向けていたということがよくわかりました。
そして明治の世になってから、ものすごい勢いで日本のために様々なことを実施してきていますね笑
普段お札で見慣れている人ですが、こんなスゴイ経歴があったのかと思わずにはいられません。
さすが一万円になる人!ですね。
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