平安時代と言って思いつくものはなんでしょうか?
平安時代は読んで字のごとく、争いのない平和な時代が約400年も続きました。
そのため、素晴らしい文化が誕生した時代でもあります。
今回は歴史マニアの私が、平安時代に栄えた素晴らしい文化とその特徴をご紹介していきます!
そもそも平安時代ってどんな時代だったの?
合戦などはなかったものの、平安時代は政治的な争いが頻発した時代でした。「平安貴族」という言葉もあるように、平安時代は雅なイメージが強くありませんか?
現在では象徴として存在している天皇も、この時代は政治の頂点に立ち、率先して権勢をふるっていました。
そんな平安時代の出来事を、簡単に年表でおさらいしたいと思います!
平安時代 年表
794年 桓武天皇が長岡京を廃止し、平安京に遷都する
858年 藤原良房(ふじわらのよしふさ)が初の摂政となり、摂関政治が開始
880年 藤原基経(ふじわらのもとつね)が初の関白となる
894年 遣唐使を廃止する
1068年 後三条天皇が即位し、摂関時代が終わる
1086年 白河天皇が上皇となり院政を開始する
1108年 「源義親の乱」勃発。平正盛が源義親を追討する(源義親の乱)
1159年 「平治の乱」勃発
1167年 平清盛が太政大臣となる
1185年 「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡。朝廷が源頼朝に守護・地頭の設置を認める
1190年 源頼朝が上洛。権大納言・右近衛大将となる
1192年 後白河法皇が崩御。源頼朝が征夷大将軍となる
※鎌倉時代が始まる時期については、1185年に頼朝が守護・地頭の設置を認められた時とするか、1192年の征夷大将軍に就任した時とするか、そのほかとするか諸説あります。
平安時代は「国風文化」が栄えた時代だった!
平安時代中期・894年、藤原道真の提案により約200年間続いた遣唐使が廃止されました。
それにより、今までの唐をはじめとする大陸から伝来した文化ではなく、日本独自の「国風文化」がより栄えていきました。平安時代中期・894年、藤原道真の提案により約200年間続いた遣唐使が廃止されました。
この国風文化の特徴は、日本の自然や生活感情に合った、優美で細やかな文化であることです。
服装・装束
平安時代の文化・貴族の服装は、男性は束帯、女性は女房装束(十二単)です。
あの雅な服装は、平安時代を想像させますね。
建築
平安時代の文化・建築は「寝殿造」が有名です。
寝殿造は、平安京に住む高位の貴族のお屋敷などに見られる様式です。
寝殿造は、寝殿(正殿)、対屋(たいのや)、それを繋ぐ渡殿、釣殿、庭には太鼓橋のかかる池からなります。
今までは、庭には唐風に梅の木が植えられることが多かったのですが、この頃から桜の木が植えられることが多くなったようです。
大和絵・絵巻物
平安時代の文化の代表の一つに、日本の風景や人物を描いた「大和絵」があります。
物語と絵を交互に見せる大和絵の「絵巻物」もあります。
かな文字
平安時代は、日本語に大きく影響を与えた期間でもあります。
漢字から「ひらがな&カタカナ」が生まれたのをご存知ですか?
順番としては、まずカタカナが漢字の一部から作られました。
「伊」の人偏から「イ」、「宇」のウ冠から「ウ」という感じです。
これが漢文を読むときにルビのように使われるようになり、
「とても便利!」
「漢字よりこっち使えば、もっと楽に文章を残せる!」
という点が高く評価され、カタカナが多くの場面で用いられるようになりました。
また、漢字の草書体(一定の法則に従って、漢字を省略する書き方)をさらに崩してできたのが「ひらがな」です。
ひらがなに曲線が多いのは、元になった草書体が比較的丸みを帯びているからなのかもしれません。
そして「漢文は男性が身につけるべき教養」であることから、男性は漢字とカタカナ、女性はそれらを学ぶことが避けられたため「ひらがな」で文章を記すようになりました。
清少納言や紫式部のように、知力と環境に恵まれた女性は漢字・漢文の知識を持っていましたが、それはごくごく例外です。
もしかしたら、世間体を考えて隠していただけで、他にも漢文に通じた女性がいたのかもしれませんね。
その辺の建前にあまりこだわらなかったのが、平安一の権力者・藤原道長です。
道長は自らの娘である彰子と、その夫である一条天皇の仲を親密にするため、彰子を魅力ある女性に教育しようと考えました。
そのために、歌や物語の才で知られていた女性をあっちこっちからかき集めます。
- 実家にいた紫式部
- 親王兄弟との恋愛沙汰などにより宮中を去っていた和泉式部
- 元は道長の正室・源倫子に仕えていた赤染衛門
などです。
漢文を学ぶ女性が多数派になるようなことはなかったと思われますが、和歌の技術を磨くために歌集を読んだり、歌作でも字を書きつけるといった習慣は定着しました。
もしひらがながなかったら、女流歌人や作家の発達もなかったかも。
日本独自の言葉によって、素晴らしい文学が生まれた!
平安時代には、藤原氏が子女を天皇家に娘を入内させて外戚関係になる摂関政治を行いました。
天皇に気に入られるため、娘に優れた女房を付けることに力を注いだことにより、紫式部や清少納言のような女流作家が生まれました。
そんな平安時代は文学の宝庫です。それぞれご紹介していきたいと思います!
源氏物語
言わずと知れた「源氏物語」は、天皇の子として生まれ、才能にも容姿にも恵まれた主人公・光源氏と、数多の女性との恋を描く「本編」と呼ばれる編と、主に宇治を舞台にした編「宇治十帖(うじじゅうじょう)」から成り立っています。
現代語訳され、舞台、マンガなどの媒体で今も親しまれていますね。私も大好きな作品のひとつです。
落窪物語(おちくぼものがたり)
作者は不明(男性の下級貴族との説があるそうです。)。
この物語は、継母や異母姉妹から辛い扱いを受けるが出自・教育ともに優れた姫が、一途に姫を思う貴族・右近の少将と結ばれて幸せになるという、日本版・シンデレラという雰囲気です。
いつの時代、どこの国でも、女性はこのような物語に憧れるものなのかもしれませんね。
古今和歌集(こきんわかしゅう)
編纂者は、紀貫之(きのつらゆき)、紀友則(きのとものり)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)らです。
醍醐天皇の命により編纂された、日本で最初の勅撰和歌集です。
和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)
編纂者は、藤原公任(ふじわらのきんとう)です。
漢詩、漢文、和歌からなる詩文集です。
藤原道長の娘・藤原威子(ふじわらのいし/たけこ)の入内の折、贈り物の屏風に添える詩としてまとめられましたが、後に藤原公任の娘の結婚の際の引き出物として贈られたそうです。
枕草子
作者は、清少納言です。
中宮・藤原定子(ふじわらのていし/さだこ)に女房として仕えた清少納言による随筆です。
主にひらがなで書かれた和文は、平安時代の文化を代表する作品と言えるでしょう。
「枕草子」は、日本三大随筆の1つと称されています。
(ちなみに、日本三大随筆は「枕草子」ほか、鴨長明『方丈記』、吉田兼好『徒然草』です。)
更級日記(さらしなにっき)
作者は、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)で本名は不明です。
「更級日記」は、作者が13歳~52歳頃の約40年間が綴られています。
平安時代の文化の最盛期~少しずつ栄華が失われていく時代であったようです。
まとめ
- 平安時代は「国風文化」という、日本独自の文化ぎ生まれ、数多くの文学作品が生まれた素晴らしい時代であった
というのが、今回のまとめです!
平安時代の背景から、日本人らしい雅な文化が発展していったといえるでしょう。
時代ごとに、文化を振り返ってみると面白いかもしれませんね。
今回は平安時代の文化、その特徴をご紹介しました!