日本のお城には、それぞれ「別名」があります。
お城の姿だったり、その城の歴史だったりと人々が親しみを込めて別の名前で呼んでいることがあるのです。
日本のお城と言ってパッと思い浮かぶのは、世界遺産にも登録された「姫路城」ではないでしょうか?
姫路城にも「白鷺城」という別名があり、こちらは有名かもしれません。
お城好き歴女の私が調べてみたところ、姫路城には「白鷺城」以外にも別名がいくつかあることが分かりました。
ということで、姫路城の歴史を紐解きながらその別名の由来に迫りたいと思います!
姫路城の歴史
西暦 |
和暦 |
|
1333年 |
元弘3年 |
赤松則村が護良親王の命により挙兵。京に兵をすすめる途中、姫山に砦(とりで)を築く。 |
1346年 |
正平元年 |
則村の息子・赤松貞範、姫山に本格的な城を築く。 |
1441年 |
嘉吉元年 |
嘉吉の乱が起こる。赤松満祐父子、六代将軍足利義教を謀殺し、自害。山名持豊、姫路城を治める。 |
1467年 |
応仁元年 |
応仁の乱が起こる。赤松政則は武功を挙げ、姫路城を奪還し、領国を回復。後に一族である小寺氏とその重臣、黒田氏が城主に。 |
1580年 |
天正8年 |
播磨国平定のため黒田孝高、姫路城を秀吉に献上。秀吉、3層の天守閣を築く。 |
1600年 |
慶長5年 |
関が原の戦いの後、池田輝政が姫路城主にを務める。 |
1601年 |
慶長6年 |
池田輝政、城の大改築を始める。9年後完成。 |
1617年 |
元和3年 |
池田光政、鳥取城へ移動のため、本多忠政が姫路城主に。工事途中であった三の丸、西の丸、その他を増築。 |
1639年 |
寛永16年 |
松平忠明、姫路城主となる。 |
1649年 |
慶安2年 |
榊原忠次、姫路城主となる。その後、松平・本多・榊原氏が城主に。 |
1749年 |
寛延2年 |
明治維新まで酒井氏が城を治める。 |
1869年 |
明治2年 |
最後の城主酒井忠邦、版籍を奉還。姫路城は国有となる。 |
1931年 |
昭和6年 |
姫路城天守閣、国宝に指定。 |
1951年 |
昭和26年 |
新国宝に指定。 |
1956年 |
昭和31年 |
天守閣、国費により8か年計画で解体修理に着工する(昭和の大修理)。 |
1964年 |
昭和39年 |
天守閣その他の全工事完了。 |
1993年 |
平成5年 |
ユネスコの世界文化遺産に登録。 |
2009年 |
平成21年 |
大天守の保存修理に着工する(平成の修理)。 |
700年以上ある姫路城の歴史を簡単に解説していきます!
南北朝〜戦国のサバイバル時代!
姫路城は鎌倉~南北朝時代に活躍した赤松氏によって、その基礎が作られました。
赤松氏は1333年の元弘の乱で、天皇の命により挙兵します。京都に攻め入り室町幕府を倒すため、「姫山」という姫路と呼ばれる前のこの土地にお城を作ったのです。これが姫路城の始まりと言われています。
赤松氏の一族であった小寺氏が城主になると、しばらく小寺氏が姫路城主の時代が続きます。
その後、小寺氏の家来であった黒田重隆が姫路城主になります。この黒田重隆は、大河ドラマにもなった「軍師官兵衛」の祖父にあたる方です。その後3代にわたって、黒田氏が姫路城の改築を行いました。
軍師官兵衛は姫路城城主14代目に当たります。
1576年織田信長が毛利攻めを開始すると、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が播磨に駐留。
姫路城がある播磨は、毛利氏を支持する勢力と、織田氏を支持する勢力に分裂します。毛利氏を支持していた小寺氏は、織田側の勝利により没落。
小寺氏の家臣であった官兵衛でしたが、秀吉と縁が深かったことから秀吉の家臣となり、生き残ります。そして、播磨を平定するため官兵衛は姫路城を秀吉に献上し、秀吉が姫路城の次の城主となるのです。
秀吉は姫路城の大改修を行い、立派な天守の近世城郭を作り上げます。秀吉が亡くなると、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が江戸に幕府を開き、江戸時代が始まります。名だたる武将たちが姫路城を治めていたのですね。
江戸時代〜平和な太平の世へ
江戸時代には、家康の娘婿であった池田輝政が姫路城城主となり、輝政は姫路城の拡張工事を行います。そして、これまた立派な5層の天守を築き上げます。
池田輝政は工事の途中に亡くなってしまいますが、その後徳川四天王の一人である本多忠勝の息子・忠政が城主になり後を継ぎました。そして建築途中であった運河などを完成させます。
本多家のあとも、徳川に縁の深い大名たちが姫路城の城主となり、明治維新までは酒井氏が播磨・姫路城を治めます。
明治時代には、廃城令により次々とお城が壊されていきましたが、姫路城は何とか生き残り、修理を繰り返しながら今世までその姿を留めます。
そして、1993年姫路城はユネスコの世界遺産に登録され、年間約200万人以上が訪れる世界も認める有名なお城になったのです。
白鷺城の由来とは?
さて、姫路城の歴史を知ったところで別名の話に戻ります。
有名どころ「白鷺城」の別名の由来ですが、真っ白なその見た目から「白鷺」という鳥が羽を広げたように見えることからそう呼ばれているそうです。これが一番メジャーですね。
また、なぜ壁が白いのかというのにはちゃんとした理由があります。
関ヶ原の戦いで秀吉に勝利した家康は徳川幕府を開き、その威厳を多くの人々に見せるため大きなお城をたくさん作ります。
その時に城を大きく見せるための策として、膨張色である「白」の壁のお城を作ったのです。
また、火災に強いお城を作るため、石灰が原料の白漆喰(しっくい)が使われました。美しいだけでなく防災にも優れたお城を作るため、あの白亜のお城が作られたということなんですね。
さすがは家康です。
また、姫路は昔「姫山」と呼ばれておりました。その名のごとく、姫山には桜が多く咲くことから「桜木山」と呼ばれ、これが転じて「鷺山」(さぎやま)と呼ばれていたことも「白鷺城」の由来と関係しているのではないかと言われています。
実際に白鷲と称されるゴイサギも、多く住んでいたそうです。他にも岡山にある烏城(うじょう)の黒壁との比較で、よく白鷺城は登場したりしますね。
豊臣の出世城と呼ばれていた!
また、姫路城には「出世城」という別名もありました。これは先ほどの歴史を振り返ってもみてもわかりますね。
秀吉は中国地方攻略のための拠点として姫路城に住み、備中高松城の水攻め、本能寺の変の後の中国大返しなどで大活躍し、出世の道をどんどん歩んでいきます。
また、こんな逸話があります。
秀吉は姫路城で戦支度をしている時、「自分は天下人となるため、二度と城に戻ることはないし、城に残すものもない」と言い、城内にあった金銀・米をすべて兵士たちに与えた
兵士たちの士気はすごく高まったことでしょう。明智光秀を山崎の戦いで討ち取ると、そこから一気に天下人の地位へと駆け上がります。
→ 明智光秀の最期!死因はまさかの◯◯で大ダメージだったコト(笑)
元は農民の子で、織田信長の草履番であった時代からは想像できないほどの大出世です。秀吉の才能か、はたまた姫路城の秘められたパワーなのでしょうか?このような逸話から別名がつくこともあるんですね。
ちなみに、「浜松城」も出世城と呼ばれています。
これは浜松城主の数多くが、徳川の重臣になっていったことからそう呼ばれているそうです。
もう一つの別名、不戦の城
そして姫路城は「不戦の城」と呼ばれていることも分かりました。
幕末の鳥羽・伏見の戦いで、姫路城城主・酒井忠惇(ただずみ)は老中として幕府の中心人物であり、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜とともに新政府軍と戦いました。
結果徳川方が負け、酒井忠惇が江戸に逃げ帰ると、朝敵とみなされた姫路藩は新政府軍に包囲されます。
新政府軍は姫路城に威嚇砲撃を行います。この時実弾も含まれており、1発は城の南にあった福中門に命中してしまいます。
両者の緊張は高まり、姫路城総攻撃も免れないかと思われましたが、新政府軍の説得や家来が私財を新政府軍に献上したりと、何とか総攻撃を食い止め藩の家老たちは、城を明け渡したそうです。
姫路城大ピンチでした…
また、第二次世界大戦の際にもピンチが訪れます。
姫路城の真っ白な白壁は空の上から見るとよく目立ち、アメリカ空軍の爆撃対象になるのではないかと恐れられました。そのため、黒く染めた網で天守などの主要な建造物を覆い隠したそうです。
1945年姫路大空襲の際城下は焼き尽くされてしまい、城内にも焼夷弾が襲います。しかし、西の丸に着弾した弾は不発弾ですぐに消化され、大天守にも直撃しましたが不発に終わります。
その後落雷や地震大火などの自然災害に巻き込まれることはなかったそうです。これが姫路城が「不戦の城」と呼ばれる由縁です。
まとめ
姫路城には白鷺城だけでなく、他にも別名がありました。
そのどれもが先人たちの知恵だったり、素晴らしい歴史だったり、姫路城の秘めたるパワーを感じさせてくれるものでした。
もちろんその外観も美しく、お城は見るだけでも楽しいと思うのですが、こうしてお城のことを詳しく知っていくと、それだけで見る視点も変わりますし、感慨深くなります。
こうしてお城のことを知る人が増えて、城ガールが増えてくれることを願います!
今回は、姫路城の歴史と別名について解説させていただきました!