弥生時代

卑弥呼の謎!年増女のババア説や2人の男とばかり会ってたハナシなど、色んな謎に迫ってみたよ

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古代日本に燦然と輝く女王・卑弥呼。しかしながら、彼女について知る手掛かりは『魏志倭人伝』だけと言って良い状況です。卑弥呼の謎については『日本書記』の時代から議論されてきた気配がありますが、手掛かり不足のため今も多くの謎はそのままです。

卑弥呼の多数の謎に迫ってまいります

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卑弥呼は謎に包まれまくっている人物

『魏志倭人伝』の中の卑弥呼は?

邪馬台国の女王・卑弥呼についての情報は、中国や朝鮮の歴史書にしか書かれていません。一番詳しく卑弥呼について書いているのは『三国志』の中の『魏志倭人伝』。他にも無いことは無いのですが、僅かに触れているだけなので、実質『魏志倭人伝』のみと言って良い状況。

それらによると、倭国(当時の日本のこと)では西暦180年頃に大乱が勃発。「倭国大乱」と呼ばれる日本史上初の大規模な内乱がこれだと言われています。この時、卑弥呼という一人の女性を女王として共立することで、ようやく混乱を鎮めました。

書き下し文を引用しますと…

「乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。夫婿なく、男弟ありて、たすけて国を治める。王と為りてより以来、見有る者少なし。婢千人をもちい、おのずから侍る。ただ、男子一人ありて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。」

卑弥呼は占いのような術(鬼道)を用いることができ、年増で独身。弟がいて、政務を補佐していました。卑弥呼は、王となってからは人前には出ず、一人の男だけが飲食物を運んだり言葉を伝えたりしていたようです。

以下、この記述をもとに、週刊誌っぽい切り口で、卑弥呼の人物像に迫ってみます。

 

卑弥呼が使った鬼道って何よ

まず「鬼道に事え能く衆を惑わす」とありますが、卑弥呼が使った鬼道とはどんなものだったのでしょうか?

倭人は令亀法のような占いをしていた

『魏志倭人伝』の別な箇所の記述によると、倭人は何かをする時とかどこかに行く時、よく占いをしたようです。

占う前にその内容を唱え、骨を焼いて、出来た裂け目で吉か凶かを占います。古代中国では令亀法と言って、亀の甲羅を焼いて同じように占っていました。倭では、亀の甲羅の代わりに手に入りやすい動物の骨を使っていたのでしょう。

倭人も吉凶を気にしていて、何か人智を超えた存在に伺いを立てていたわけですね。宗教的素養があったということだと思います。

魏で流行っていた五斗米道

三国志の時代に鬼道と呼ばれたものとしては、五斗米道という原始道教があります。

五斗米道の名は、信者に五斗(約90リットル)の米を寄進させたことに由来します。中国(魏)での活動は、呪術的な儀式で信徒の病気を治したり、流民に対し無償で食料を提供する場を設けました。

悪事を行ったものは罪人とせず3度まで許し、4度目になると罪人として道路工事などの軽い労働を課すという決まり。これらのことにより信仰を集め、信者から構成される強固な自治組織が形成されていきました。こうして、215年に曹操が侵入するまで、漢中は五斗米道による宗教王国でした。

何らかのつながりで卑弥呼は五斗米道を身につけていたのかもしれません。倭国大乱が勃発したのは180年頃。五斗米道なら国がまとまるという漢中での評判から、大乱の鎮静化を願う人々が卑弥呼を担ぎ上げたとも考えられます。

惑わしていた?

「衆をよく惑わす」というのが、今日的な意味だとすれば「倭人の奴らは、卑弥呼の変な宗教に騙されてるぜ。やっぱり野蛮人だぜ」というニュアンスになります。

でも、『魏志倭人伝』の筆者は倭を悪い国だとは思っていないようです。「婦人は淫らではなく、嫉妬もしない。窃盗もせず、訴え事も少なく、上下関係の規律も守られている」というような記述があるからです。

なので「よく惑わす」は、うまく導いているくらいの意味かと思われます。聖武天皇が仏教で国をまとめたように、鬼道(おそらく五斗米道)と呼ばれる宗教で倭国大乱は平定され、邪馬台国を中心に倭の国はまとまったということでしょう。

卑弥呼は年増のババア?

『魏志倭人伝』では「一女子を共立して王とした」という記述のすぐ後に「年すでに長大」とあります。王となった時に、既にオバちゃんだったのでしょうか。

卑弥呼が王になったのは180~190年頃と推定されます。亡くなったのは、247年か248年。190年に王になったとして、在位期間は57年くらい。

『魏志倭人伝』の別の個所に「倭人は長生きで80~100歳の者もいる」と書いてあり、これが本当だとすれば今の日本にも匹敵するくらいの長寿国のようです。ですから、卑弥呼即位時の年齢はギリギリ40歳くらいを上限と考えていいかと思います。

ただ、『魏志倭人伝』の最後に、卑弥呼の後を継いだ壱与(いよ)、もしくは台与(とよ)、は13歳で即位したと書かれているので、これが当時の基準で普通なのだとすれば、20歳くらいでも「年すでに長大」と書かれるかもしれません。

個人的な希望としては、女子大生がバイトでやっている巫女さんのイメージで行きたいところです。

卑弥呼の男関係

卑弥呼は20歳~40歳で王になりましたが、王になってからは殆ど人には会いませんでした。弟と一緒に国政に携わっていたようですから、弟とは頻繁に会っていたかもしれません。その他に秘書兼執事のような男が一人いたようです。

普通、身の回りの世話は女ですよね。なのに、二人の男としか会っていなかったというのは、いろいろと下衆の勘繰りをしてみたくなる状況です。

卑弥呼が王になってからは2人の男しか会っていなかったと言われている。何その関係‥男女の関係があるんじゃない?と思っちゃいますよね
万利休

弟との関係

弟の関係は疑わなくとも良いだろうとおっしゃるかもしれませんが、そうとも言い切れないのが歴史の面白いところです。

遠く古代エジプトの話ではありますが、クレオパトラは弟のプトレマイオス13世と兄弟婚を行い、共同で王位に就きました。これはプトレマイオス朝の慣例だったそうで、近親相姦という考え方は無かったようです。

紀元前51年、クレオパトラ18歳の時ですから、紀元後190年の倭の国で同様のことが行われたとしても不思議ではありません。

まさか兄弟で恋愛してたのか?!この時代ではありえなくもない
天草ゴロー

1番怪しいのは秘書兼執事との関係

とはいえ、一番疑わしいのは秘書兼執事の男ですね。

女が一人だけで居る所に一人の男だけが毎日飲食物を運び、言葉もこの男を通してだけ伝えられる…かなり奇特な男でなければ、あっちにもこっちにも話を取り繕って、自分だけ良い思いをしそうな感じなのですが。

卑弥呼と弟と秘書兼執事、三人の関係。健全にして良好な関係だったのか、ドロドロとした修羅場のような関係だったのか。

60年近い在位の間、隣国との争いはあっても内紛は無かったようです。それを考えると、健全だったのでしょうかね…。

 

 

まとめ

  • 邪馬台国について書いてある史料は、『魏志倭人伝』のみと言って良い状況。
  • 卑弥呼は「鬼道に事え能く衆を惑わす」と、『魏志倭人伝』には書いてある。
  • 倭の人は令亀法のような占いにハマっていた。
  • 魏で「鬼道」と言えば「五斗米道」という原始道教だった。卑弥呼がこれを使ったことも十分考えられる。
  • 『魏志倭人伝』全体を通して、倭人に対して批判的な印象は感じられない。なので、「惑わす」も、「うまく導いている」くらいの意味と考えられる。
  • 卑弥呼は「年すでに長大」と、『魏志倭人伝』には書いてある。
  • 卑弥呼の在位期間と倭人の寿命から、即位当時の卑弥呼の年齢は40歳以下と思われる。
  • 卑弥呼の後継者の壱与(もしくは台与)は13歳で即位しているので、これが当時の標準的な年齢だとすれば、卑弥呼は20歳くらいだったとしても年増扱いされる可能性はある。
  • 卑弥呼は、王となってからは人前には姿を見せなかった。
  • 弟が政務を助けていたので、弟と会うことはあったと思われる。
  • 世界史的には、クレオパトラが弟と結婚して共同で王位に就いている例もある。
  • もう一人、秘書兼執事のような男が飲食を運び、言葉も伝えていた。
  • 卑弥呼、弟、秘書兼執事の三角関係がどのようなものであったか、興味をそそられる。

『魏志倭人伝』のボリュームはそんなでもないので、全文を隅々まで目を通すことになりました。よく読んでみると、倭人に好意的な書き方だと分かります。『魏志倭人伝』の筆者は、倭に渡り、倭人を第三者として観察しながらも、長期滞在で人々と打ち解けていったのでしょう。

狗奴国との戦いにも、魏から若干の応援があったようです。今の日中関係よりも良好な感じがします。いつからおかしくなってしまったのかな…なんて考えてしまいました。

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