弥生時代

卑弥呼は天皇と関係があるって本当?どういうことなの?

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弥生時代から古墳時代にかけて存在したとされる邪馬台国。そして数百年後に日本を治めていた大和朝廷。両者はどんなつながりがあるのでしょうか。邪馬台国の女王・卑弥呼と天皇家とは、どんな関係にあるのでしょうか。

両者を結び付ける史料はほとんどありません。そこで、大胆に推理してみました。

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卑弥呼と天皇家は関係があるのか?!

邪馬台国は大和朝廷の前身!

ズバリ、最初に結論を申し上げますと、卑弥呼の邪馬台国が後に天皇が治める大和朝廷になったと考えられます!

その根拠は…。「ヤマタイ」と「ヤマト」、似てますよね?「ヤマタイ」って早口で10回言うと「ヤマト」って聞こえてきませんか?

ふざけるな!と、お叱りを受けそうですが、結局これが卑弥呼と天皇の関係を結び付ける一番確かな証拠のように思うのです。

これを分かっていただくために、まずは当時の日本の状況から見ていきましょう。

 

邪馬台国は当時の日本の中心国

邪馬台国や女王・卑弥呼についての情報は、中国や朝鮮の歴史書にしか書かれていません。

日本最古の歴史書と言われる『日本書紀』が出来上がったのは西暦720年頃。一方、卑弥呼が活躍したと思われるのは西暦200年頃ですから、500年以上も前のこと。日本には文字として記録を残すという習慣がまだ無かったと思われます。

記録の中で一番詳しいのは『三国志』の中の『魏志倭人伝』。それによると、倭国(当時の日本のこと)では西暦180年頃に大乱が勃発したようです。この時、卑弥呼という一人の女性を女王として共立することで、ようやく混乱を鎮めました。

約30の国がEUのような連合を作ったようです。その中の一つ、「對海國」は今の対馬だと考えられていますが、約千戸の家があったと書かれています。

他に、「一大國」は約三千戸、「末盧國」は約四千戸、「伊都國」は約千戸、「奴國」は約二万戸、「不彌國」は約千戸、「投馬國」は約五万戸とある中で、「邪馬壹國」は約七万戸の大国。一番大きな邪馬台国を中心にまとまったようですね。

そして、邪馬台国の南方には「狗奴國」という男の王が治める国が有りましたが、連合には属しませんでした。

 

解析!「やまとことば」

『魏志倭人伝』には邪馬台国連合の国の名前が列挙してあります。正確には31の地名、14の官職名、8人の人名。これらは倭の国の実際の発音を音写したもの。ここから、倭人の言葉の特徴が分かると言われています。

学者先生の執念、おそるべし!

その特徴の中で注目したいのが二重母音回避の規則性。「邪馬台」を「yamatai」と読むと、最後が「-ai」という二重母音になるので回避され、「ヤマト」となります

早口で10回も言う必要はありませんでした。「邪馬台」は、そのまんまで「ヤマト」だった可能性があるのです。

 

「邪馬台」から「大和」になるまで

「邪馬台」が「大和」になるまでには、どんな変遷を辿ったのでしょう。

残念ながら、そこは歴史の空白期間になっています。266年に倭の女王の使者が、魏に代わって成立した晋の皇帝に朝貢したという記録が有りますが、それっきり倭に関する記録は途絶えているのです。

天草ゴロー
歴史の空白の期間があって、詳細は分かっていないんだ

晋の治政は安定せず、中国は隋によって統一されるまで分裂・抗争の時代が続きました。周辺諸国に気を配っている場合ではなかったのでしょう。

再び日中のやり取りが盛んになるのは、西暦600年頃の遣隋使まで待たなければなりません。つまり、聖徳太子や小野妹子の時代です。

いつしか「倭」と書いて「ヤマト」と読むようになっていました。これは、隣の狗奴国との戦いに勝利した邪馬台国が倭を統一して「倭=邪馬台(ヤマト)」となったからではないでしょうか。

701年の大宝律令で地名は二文字と規定され、「大倭」と書いて「ヤマト」に変更。757年以降、「大和」という表記が見られるようになります。「倭」という侮蔑的な文字を廃したのでしょうね。

ここでもう一つ指摘しておきたいのは、中国の晋は魏から禅譲を受けて成立しているということ。平和的に移行した場合でさえ、魏という名称は晋に変更されるのです。

「邪馬台」から「大和」まで「ヤマト」という呼称が長い空白期間を越えて継承されているということは、血縁までは保証できないにしても、王権が継承されていった証拠と言えると考えられます。

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卑弥呼はどの天皇だったの?

さて、邪馬台国が大和朝廷の前身だったとして、卑弥呼はどの天皇だったのでしょうか?天皇自身ではないとしたら、どの天皇の時代の人だったのでしょうか?

・「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」説

第7代孝霊天皇の皇女で、『日本書紀』では倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、『古事記』では夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)という名前の人がいます。この人が卑弥呼だとする説があります。

『日本書紀』によれば、倭迹迹日百襲姫はその特殊な能力によって国の災害を鎮めたり謀反を予見したりして、第10代崇神天皇の国政を助けました。崇神天皇崩御が258年と推定されていて、卑弥呼とも同時代です。

 

・「卑弥呼=倭姫命」説

第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が卑弥呼であるとする説もあります。

『日本書紀』によれば、倭姫命は天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張を経て伊勢の国に入り、神託により伊勢神宮内宮を創建しました。神託は「伊勢は辺境ではあるが美しい国なので、ここに鎮座しよう」という内容だったとのこと。後に、東夷の討伐に向かう日本武尊に草薙剣を与えた人でもあります。

邪馬台国の場所については諸説ありまして、もともと九州にあって後で東に移動したと主張しているのが東遷説。倭姫命も東に移動しているので、「卑弥呼=倭姫命」説は東遷説と合致します。

 

・「卑弥呼=神功皇后」説

第14代仲哀天皇の皇后である神功皇后が卑弥呼だとする説もあります。

神功皇后は仲哀天皇が熊襲の矢に当たって急死したため代わって政務を執り行い、熊襲を討伐。そのまま朝鮮半島まで攻め入り、新羅をはじめ高句麗・百済に朝貢を約束させました(三韓征伐)。

何を隠そう『日本書紀』がこの説に則って書かれています。しかしながら、朝鮮側の記録と突き合わせてみると、神功皇后は卑弥呼より120年(干支2回り)後の時代になるようで無理があるようです。

 

 

まとめ

  • 邪馬台国の「ヤマタイ」と大和朝廷の「ヤマト」は音が似ていることから、邪馬台国は大和朝廷の前身と筆者は考える。
  • 邪馬台国や卑弥呼について書いてある史料は、中国や朝鮮にしかない。
  • 西暦180年頃に起きた倭国大乱は、卑弥呼を女王として共立することで治まった。
  • 邪馬台国は、倭の国にある約30の国が集まった諸国連合の中心国となった。
  • 『魏志倭人伝』に音写された倭国の言葉から、規則性を見つけることができる。
  • 倭国の言葉の規則性から、「邪馬台」は「ヤマト」と発音した可能性が高い。
  • 西暦266年から600年くらいまで、当時の日本に関する史料は殆ど無い。
  • この日本史空白の間も「ヤマト」という呼称は継承され、表記は「倭」→「大倭」→「大和」と変遷した。これは王権が継承されていった証拠だと筆者は考える。
  • 卑弥呼がどの天皇と関りがあったかについては諸説ある。
  • 【「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」説】:倭迹迹日百襲姫命は7代孝霊天皇の皇女で、特殊能力を使って第10代崇神天皇の国政を助けた。
  • 【「卑弥呼=倭姫命」説】:倭姫命は第11代垂仁天皇の皇女。神託により伊勢神宮内宮を創建した。大和国より東に移動しているので、邪馬台国東遷説と合致する。
  • 【「卑弥呼=神功皇后」説】:神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で、『日本書紀』はこの立場で書かれている。

私たちは書面に書かれたものを重視し、口頭で伝えられるものは軽視しがちです。でも、それは文字で記す習慣があるから。文字が無かった時代は言霊信仰などもあり、音をとても大切にしていた筈です。

「邪馬台」と「大和」は、文字を比べれば全く関係が無さそうですが、同じ読みだったかもしれないと知りビックリしました。もう、卑弥呼は天皇家の祖先としか思えなくなりました。

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