大和朝廷よりも前に日本にあった王国・邪馬台国。
その王は、卑弥呼という女性だったと言われています。現代でも、女性のリーダーはやっと最近増えてきたばかりです。それが3世紀中頃、ちょうど弥生時代と古墳時代の境目の時期に実在していたのでしょうか。
女王・卑弥呼について調べてみました。
卑弥呼って実在したの?
実在したかどうかなのですが…。
「いなかったんじゃないの?だって、日本の文献にそんな名前の人いないもん!」という結論が一番簡単です。

でも、ちょっと考えてみましょう。卑弥呼の名前はどうして「卑」なんでしょうね。邪馬台国も「邪」で始まります。良い名前とはとても思えません。
これは中華思想に基づく名前の付け方と考えられます。中国にとっては、自分の国以外は全て野蛮人。だから、たとえ女王様の名前でも蛮族だから卑しいのです。
ですが、日本を心底見下しているのであれば「あんな奴ら、でたらめやってるだけ。国なんてとても呼べないよ。女が頭目みたいだけどメチャクチャだね」という扱いになるんじゃないでしょうか?
それなのに「卑」とか「邪」とかケチをつけておきながらも、一方ではちゃんと「女王」とか「国」とか呼んでるんです。これはむしろ、コイツら侮れないと思ったからに違いない…。
ゆえに、卑弥呼に該当するであろう人物自体は実在したと考えられます。
卑弥呼らしい人物って、じゃあそれ誰よ?
でも、それだけじゃ終わらないのですね。だったら、誰?ということになります。それほどの存在だったら、日本でもその名を(別の名前で)語られているはずです。
日本の最古の歴史書と言えば『日本書紀』ですが、その中に書かれている誰が卑弥呼なのか?という議論は実は江戸時代から繰り広げられているのです。もちろん、いまだに決着はついていませんが。

- 「卑弥呼=天照大神」説
- 「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」説
- 「卑弥呼=神功皇后」説
- 「卑弥呼=宇那比姫」説
- 「熊襲の女酋説」
- 「甕依姫説」
- 「倭姫命説」
それぞれを一つずつ見ていこう!
1「卑弥呼=天照大神」説
『古事記』や『日本書紀』に出てくる有名な神様に、天照大神(あまてらすおおみかみ)がいます。天照大神が卑弥呼だとする説があります。
天を照らす太陽神であり、しかも女神。須佐之男命(すさのおのみこと)という弟がいます。
アマテラスの別名はいろいろあって、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)、大日女尊(おおひるめのみこと)、大日霊(おおひるめ)、大日女(おおひめ)、などなど。短くなるに従って「ひみこ」に近づいてきますね。
アマテラスは弟のスサノオが悪いことばかりするので、悲しくなって天岩戸に引きこもりました。引きこもりです!これも卑弥呼と似ています。
太陽神のアマテラスが天岩戸に隠れたことで、世界は暗闇に覆われました。で、卑弥呼が亡くなったとされる頃、247年と248年の二回、天文学上の計算から皆既日食が起きていたことが分かっています。
弟がいたというのも、両者の共通点といえます。
以上、状況証拠だけではありますが、符合することが多く、興味深いです。
2,「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」説
『日本書紀』で倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、『古事記』で夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)という人がいます。本当かよ!?と疑いたくなる名前ですが、第7代孝霊天皇の皇女で、列記とした皇族。この人が卑弥呼だとする説もあります。
漢字は音だけを表しています。意味を追ってみますと「ととひ」は「鳥飛」で、脱魂型の巫女を表している可能性があるそうです。特技が幽体離脱ということですかね。
幽体離脱できるのなら、引きこもってても世の中のことは全部お見通し。卑弥呼の素質は十分にあります。
『日本書紀』によれば、百襲姫はその特殊な能力によって、国の災害を鎮めたり謀反を予見したりして国政を助けました。第10代崇神天皇は百襲姫の弟ではありませんが、よく補佐していたようで、その様子を魏志倭人伝は姉弟と誤解して書いたのではないかとも言われています。崇神天皇崩御が258年と推定されていて、卑弥呼とも同時代です。
百襲姫は大物主神の妻となっており、卑弥呼は未婚という条件にはあてはまりません。ところが夫の大物主神は夜にしか姿を現さず、ある朝にその姿を見たら蛇だったとのこと。相手が蛇だったら、未婚(巳婚?)と言ってもいいかもしれません。
夫の蛇の姿を見て驚いた百襲姫は腰を抜かした時に箸が陰部に刺さって死んでしまいました。それで葬られたのが箸墓で、現在は奈良県桜井市にある箸墓古墳であると考えられています。この古墳の築造年代が放射性炭素年代測定などにより、卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀中頃であることが分かっています。
旦那が蛇だったという点はともかく、他の点はかなり説得力がありますね。
3,「卑弥呼=神功皇后」説
第14代仲哀天皇の皇后である神功皇后が卑弥呼だとする説もあります。
神功皇后は仲哀天皇が熊襲の矢に当たって急死したため代わって政務を執り行い、熊襲を討伐。そのまま朝鮮半島まで攻め入り、新羅をはじめ高句麗・百済に朝貢を約束させました(三韓征伐)。
この説の強みは、『日本書紀』の神功皇后紀に、晋書の倭の女王に関する記述が引用されていることです。『日本書紀』を編纂した人たちは、神功皇后を卑弥呼だと思ったのかもしれません。
しかし年代を合わせていくと、神功皇后は卑弥呼より120年(干支2回り)後の時代になるようです。また、陣頭指揮を執ったような勇ましい神功皇后と、引きこもり巫女の卑弥呼ではキャラが違いすぎますね。
4,「卑弥呼=宇那比姫」説
京都府宮津市に鎮座する籠神社の社家・海部氏(あまべし)系図に宇那比姫(うなびひめ)という名前が記されています。この人が卑弥呼だ!とする説もあります。
宇那比姫にも別名がたくさんあるのですが、大倭姫(おおやまとひめ)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)等々。音だけ聞くと、「ヒメミコト」と「ヒミコ」はそっくりですね。
邪馬台国では、台与(とよ)という人が卑弥呼の後を継いでいます。そして海部氏系図では、宇那比姫の二世代後に天豊姫(あまとよひめ)という名前があります。「とよ」がかぶってます。
これも興味深い符合です。
・他にも…
卑弥呼候補は他にもいます。
5,「熊襲の女酋説」:熊襲の女酋長が神功皇后になりすまし卑弥呼を名乗っていたとする説。
6,「甕依姫説」:『筑後風土記逸文』の甕依姫(みかよりひめ)が卑弥呼であるとする説。
7,「倭姫命説」:第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が卑弥呼であるとする説。
などなど。

そもそも卑弥呼って、どんな人?
邪馬台国の女王・卑弥呼についての情報は、中国や朝鮮の歴史書にしか書かれていません。一番詳しく卑弥呼について書いているのは『三国志』の中の「魏志倭人伝」。他にも『後漢書』『晋書』や、高麗(朝鮮の王朝)の『三国史記』などに少しだけ記述があるようです。
それらによると、倭国(当時の日本のこと)では西暦180年頃に大乱が勃発。「倭国大乱」と呼ばれる日本史上初の大規模な内乱がこれだと言われています。この時、卑弥呼という一人の女性を女王として共立することで、ようやく混乱を鎮めました。
卑弥呼は占いのような術を用いることができ、年増で独身。弟がいて、政務を補佐していました。卑弥呼は、王となってからは人前には出ず、一人の男だけが食べ物などを持って出入りしていたと書かれています。
占いみたいなオタクなことにハマって引きこもってた人…とイメージすると、現代的な人のような感じもしますが…。
▶ 大和政権・大和朝廷・ヤマト王権の違いをわかりやすく解説!
まとめ
- 邪馬台国の女王・卑弥呼の名は『魏志倭人伝』など中国や朝鮮の歴史書にのみ見られる。
- 卑弥呼を女王として共立することで倭国大乱が治まった。
- 卑弥呼は占いのような術を使う巫女。年増で未婚。王となってからは人前には出なかった。
- 中国の歴史書の扱いから、筆者は「卑弥呼は実在した」と考える。
- 日本の歴史書の中の誰が卑弥呼なのかは諸説ある。
- 【「卑弥呼=天照大神」説】:弟がいること、天岩戸に引きこもったこと、日食が一致していること、などが符合する点。
- 【「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」説】:特殊能力を持っていること、天皇を弟のように補佐したこと、お墓の年代が卑弥呼の没年と一致、などが符合する点。
- 【「卑弥呼=神功皇后」説】:『日本書紀』の中に、神功皇后と卑弥呼を結び付けるかのような記述がある。
- 【「卑弥呼=宇那比姫」説】:宇那比姫の別名が卑弥呼にそっくりなこと、その二世代後の「天豊姫」と卑弥呼の後継者「台与」も名前が似ていること、などが符合する点。
- 他にも、「熊襲の女酋説」、「甕依姫説」、「倭姫命説」など諸説ある。
神話とか古墳の時代。大昔のことなので確たる手掛かりは殆どないのですが、それが逆に想像をかきたてます。
江戸時代の国学者・本居宣長は「熊襲の女酋説」を唱えていたそうです。『日本書記』編纂者は「卑弥呼=神功皇后」説だったようです。
歴史上の人物と一緒に、更に昔の歴史について考えることができるなんて、太古の歴史に取り組むのも面白いことですね。