時代劇を見ていると、各武将がそれぞれ非常に個性的な兜・甲冑を身に付けていることに驚くことありませんか??
「かっこいい!」と思うのもあれば、「それは風の抵抗的にどうなの…?」と思ってしまうようなデザインまで様々です。
今回は個性的な兜・甲冑を身に付けた武将の中でも、徳川四天王の一人の本多忠勝の兜・甲冑について調べてみましょう。
本多忠勝とは何者??
本多忠勝は1548年に三河国で生まれた、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる、家康の功臣として現在も顕彰されている武将です。(生誕:1548年〜没:1610年)
生涯で57回も合戦に臨んだのに、一度もかすり傷一つでさえ負わなかったと伝えられる猛将でもあります。
忠勝の名采配ぶりを見た配下の将達は、「忠勝の指揮で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」と称えました。
どんな兜・甲冑を身に付けていたの?
そんな彼の武具は非常に個性的です。
身に付けた甲冑は黒づくめの「黒糸威胴丸具足」に肩から数珠をかけていました。
そして兜もやはり黒色で、頂部が尖った「鹿角脇立兜」と名付けられたものを使用していました。
この兜は文字通り、脇立てに大きな鹿の角をあしらっており、すごく遠くからでも本多忠勝がいるな…とわかりそうなデザインです。
ちなみに真田幸村も、脇立てに鹿の角をあしらった兜を身につけていました。
何で「鹿」の角にしたの??
戦国最強武将の一人とされる本多忠勝は、なぜわざわざ「鹿」の角の兜にしたのでしょうか??
いくつか説があるためご紹介します。
①鹿のように家康をお守りしよう!
本多忠勝が13歳の時に、初陣として臨んだ桶狭間の戦いで徳川家康が三河国に帰ろうとした際、増水して渡れない川がありました。
その時突然鹿が現れて、浅瀬を教えてくれて、無事に三河国へ帰ることができたという話が残っています。
その時以来、忠勝は「この鹿のように、一生殿をお守りしよう!」と心に決め、鹿の角の兜を制作させたという説が残っています。
②鹿は神の使いという言い伝えがあったから
鹿は古くから神の使いと大切にされてきました。
(鹿を神の使いとしているのは奈良の春日大社、茨城の鹿島神宮、広島の厳島神社があります)
なぜ鹿が神の使いとされているのかは諸説ありますが、山の多い日本では、険しい山でも颯爽と駆け抜けていく鹿の姿が神秘的に映ったのかと考えられています。
確かに宮崎駿監督の「もののけ姫」も、森の神様は「鹿」の姿をしていますね…
さらに源平の合戦の時にも、こんなエピソードが残っています。
源義経の奇襲攻撃で有名な、一の谷の合戦における「鵯越の逆落とし」の場面で、義経は家臣にこう尋ねます。
「鹿はこの道を越えられるか?」
尋ねられた家臣が、「冬場は鹿は越える」と答えると、「鹿が降りられないところを馬が降りられないはずがない」と言い先頭を切って、一気に急な坂を駆け下りていきました。
この奇襲攻撃によって、形勢は一気に源氏に傾き、平氏は敗走、源氏が勝利を収めることができたのです。
私は昔、家族旅行で車でまさにこの鵯越の近くを通ったことがあります。下から見てもびっくりするほどの急斜面で、この斜面を馬で駆け下りていくとか考えられないと思ってしまいました…
でも神の使いを信じて、駆け下りていく勇気をもらったのかもしれませんね。
個性的な兜・甲冑を身に付けた武将達
本多忠勝の他にも個性的な兜・甲冑を身に付けた武将は数多くいました。
その中でも一際個性的で後世にまで有名になった武将を紹介しましょう。
①直江兼続(1560年〜1620年)
越後の上杉景勝の側近中の側近として活躍した、直江兼続。内政や外交を一手に引き受け、景勝の主要な戦に従軍しました。
そんな彼が身に付けた兜は、正面の前立て(装飾部分)に「愛」という一文字を掲げたものでした。彼の兜は通称「愛の兜」と呼ばれています。
彼が「愛」の一文字を使った理由は2つあると言われています。
一つは上杉謙信が戦勝祈願をした「愛宕神社」の一字を取った説。
二つ目は「愛染明王」から拝借したという説が残っています。
兼続は軍神として名高い「愛染明王」を信仰していたと言われており、その頭文字である「愛」の字を掲げたと考えられています。
上杉謙信が毘沙門天から一字を拝借して旗印としたことにあやかったのかもしれません。
②伊達政宗(1567年〜1636年)
「独眼竜」と呼ばれた、隻眼の戦国時代最後の英雄・伊達政宗。
彼は隻眼というだけで十分目立つにも関わらず、さらに愛用した兜でも目立つ存在でした。
彼の兜の前立ては、金色に塗られた大きな三日月。
この月のモチーフは、政宗以降の仙台藩伊達家の歴代当主や家臣に受け継がれました。
この月の前立てを決めたのは、政宗本人ではなく、父の輝宗でだと伝えられています。
政宗が生まれた時、父は息子の旗印を「白地赤日の丸旗」と呼ばれる旗印で、文字通り「太陽」をイメージしています。
その旗印と合わせて、兜の前立ては「月」となったのです。
仏教において太陽は「金剛界」を、月は「胎蔵界」を表しており、金剛界も胎蔵界も仏教の曼荼羅の種類を示す言葉です。
曼荼羅はこの世の理を表しているとされていたので、旗印と前立てはどちらも仏の加護を意味していたということです。
父親が我が子の成功と守護を願って考えたものだったんですね。
まとめ
さて、本多忠勝を始めとする個性的な兜を身に付けた武将達を調べてきました。
・本多忠勝の鹿の角の兜…鹿は「神様の使い」と信じていたのが理由
・直江兼続の愛の兜…愛染明王の一字を拝借
・伊達政宗の三日月の兜…旗印と合わせて仏の加護を意味していた
こうして調べると三人とも、それぞれしっかりとした理由で、加護を受けられるよう考えられた兜だったんですね!!
「愛の兜」も「三日月の兜」も、戦場で風の抵抗とか受けないのかな…とか完全に余計な心配でした。笑
ただ生死を賭けた戦いの中で、神仏の加護を受けられるよう考えられた武具を身に纏っていれば、「自分には神様がついている!」と心強くなったでしょうね。
武将の兜から、戦いに臨んでいく思い、意気込みを感じ取っていくのも面白いですね。