江戸時代

伊能忠敬がガチでスゴイ!エピソードや逸話をご紹介!

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江戸時代、正確に日本の海岸線を測量し、「地図」で当時日本を始め、世界中の人の度肝を抜いた人物がいました。

彼の名前は伊能忠敬。

江戸時代、当時の千葉県佐原で商人をしていた彼は、50歳を過ぎてから日本を歩いて(!)周り海岸線を測量し、17年かけて精巧な日本地図を作成しました。

「元々商人」「50歳からスタート」「徒歩で」と、中々興味をそそるワードが並んでいますね。そんな彼なら更にびっくりするようなエピソードがあるに違いません。

伊能忠敬のスゴイお話、エピソードをご紹介!

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伊能忠敬がスゴイ!エピソードや逸話!

1、そもそも「地図を作るため」に測量を始めたわけではなかった

伊能忠敬=測量のイメージですから、きっと幼い頃から日本の測量を志していたに違いない!と思いきや実は全然!実は世界に誇る精巧な日本地図は、彼の好奇心のついでに作られたモノだったのです。

伊能忠敬は元々は千葉県佐原市で商人をしていました。

50歳で隠居し、そこから以前より興味があった天文学を学ぼうと江戸へ行き、江戸幕府の天文方・高橋至時(よしとき)に師事します。当時高橋至時は32歳。自分よりも随分年下の人からでも、素直に学ぼうとする姿勢には頭がさがりますね。

高橋至時のもとで、伊能忠敬は天文学のみならず測量も学びました。

当時門下生の間では、「地球の直径はどれくらいあるのか」という事が話題になっていました。当時すでに、地球は丸いという事はわかっていました。では、実際にはどれくらいの大きさがあるのか?ということです。

そこで伊能忠敬は「北極星の高さを二つの地点で観測し、見上げる角度を比較する事で緯度の差がわかり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案しました。

ちょっと聞いてもポカーンとなってしまいますよね

実際に上記の方法で測るとしても、その2地点には距離がある事が必要でした。

そこで彼は師の高橋至時に相談したところ、「江戸と蝦夷くらい距離があれば大丈夫ではないか」と言われたため、蝦夷に行く決心をしました。

只、当時の蝦夷へ行くには幕府の許可が必要‥‥そこで彼は幕府に、「正確な日本地図を作って、日本の役に立ちたい」と申し出、その依頼が受理されたのです。

当時幕府には、外国艦隊が攻めてきた時に国防に欠かすことが出来ない正確な地図が無かったため、伊能忠敬はそこを突き、自分の要望(本来の目的は、ただの好奇心笑)を通したのです。

 

2、歩いて歩いて…はじき出した地球の外周と、現在の誤差は何と…!!!

晴れて幕府から蝦夷へ渡る許可を得た伊能忠敬は既に55歳に。

江戸を出発してから、海岸線に沿って正確に正確に…3年をかけて東日本の測量を終えて、彼は江戸に戻ってきました。そして、本来の目的である地球の外周の計算に取り掛かり始めまます。

実測値を基に割り出した地球の外周は「4万キロ」!!何とこの数字、現在判明している外周と比較しても1000分の1しか誤差が無かったのです!!

伊能忠敬が持ち帰った東日本の地図を見た幕府は、あまりの精巧さに驚き、「西日本の地図も作成せよ!」と命令を下します。江戸を出発した当初55歳だった伊能忠敬も、3年もたてば立派なアラウンド還暦。体力は完全に落ちています。

しかし幕府の命令に従い、西日本の地図を作成する旅に出ます。

幕府もしたたかですから、彼に全国の測量をさせる目的の他に、当時幕府の脅威になりつつあった薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいて、彼を測量の旅に出したともいわれています。

東日本こそ3年で戻ってこられましたが、西日本は想像以上に広く、10年の歳月を費やしました。東日本と同様3年で終わるはずが、内陸部の調査に手こずったり、四国が思ったよりも広かったりと、3年経っても結局九州まで手付かずの状態でした。江戸へ戻ってきた時、彼は70歳になっていました…

彼が17年をかけて完成させた地図・「大日本沿海輿地全図」。

この為に日本全国を周った距離は、何と4万キロ…

奇しくも彼が求めた「地球の直径」と同じ距離を彼は歩いていたのです。

 

3、彼の地図が幕府の危機を呼んだ!?

伊能忠敬が師事した幕府の天文方・高橋至時は、伊能忠敬が測量で日本を周っている間に病死。彼の役職は息子の高橋景保に受け継がれます。

この高橋景保、何と幕府の斬首令により最期を迎えます。一体彼に何があったのでしょうか??

彼はドイツの医師であり、博物学者であるシーボルトから、「自分が持っているヨーロッパの最新地図と、日本の最新地図を交換しないか?」と持ち掛けられ応じてしまったのです。

いわゆる「シーボルト事件」です。

シーボルトが思わず交換しようと言ってしまうほどの「日本の最新地図」というのは、伊能忠敬が作成した「大日本沿海輿地全図」の写しだったのです。

我々からすれば地図の交換は大したことの無いように感じますが、当時としては大問題!!!戦争時には大きなカギとなる、立派な軍事機密です。

これが海外に渡ってしまったら最悪侵略の恐れがあります。当時の日本は「異国船打払令」を出しており、外交上非常に危うい立場にありました。

1829年(文政12年)、シーボルトには国外退去令と再入国禁止令が命じられました。そして、幕府の禁制品である地図の写しを渡した高橋景保には、斬首が命じられることになったのです。

 

4、「あれ、日本すごくない??」地図が西洋に関心と恐れを抱かせた。

幕府は伊能忠敬の地図を秘伝のものとし、外への流出を防ごうとしていました。

しかし実際は1830年代、幕府の権威に限界が感じられ始めたころには、彼の測量技術は欧州まで伝わっていました。

特にイギリス海軍にとっては、彼の測量や天文学の技術は、それまで「おかしな髪型で剣を振り回すしかない劣った民族(失礼な…)」という認識を改めさせられ、幕末に至る薩英戦争や、薩長との軍事同盟のきっかけになったと言われています。

こうした技術が中国や朝鮮よりも、ずっと先んじて民間から現れた事が、明治維新以降に日本が先進諸国の仲間入りできたことに繋がるのかもしれません。

 

まとめ

今回のお話を端的にまとめると‥

  • もともとは地球の外周を知りたくて始めた。
  • あまりの出来栄えに幕府が西日本の地図の作製も命じる。
  • 彼が求めた地球の外周と、現代分かっている外周の誤差は1000分の1
  • 彼が地図の作成の為に歩いた総距離は4万キロ。その距離は地球の外周と同じ。
  • 彼の地図が幕府の軍事的危機を引き起こした。
  • 彼の地図が西洋諸国の、当時の日本への認識を改めさせた。

彼自身も、ただ好奇心から始めた事業が、後に幕府の危機を呼んだと同時に、西洋諸国による誤った認識を改めさせることになると思ってもいなかったでしょう。

千葉の佐原には伊能忠敬の生家と記念館が残っており、測量に使った道具と彼が作った地図を見ることができます。

内陸部の測量は甘いと言われていますが、沿岸部に関してはGoogleも真っ青な出来栄えだと思います。

これを55歳から、歩いて作り上げたと思うと、言葉で表現できないほど感動します。

願わくば誰かが伊能忠敬に、「あなたが命をかけて歩いた距離と、本当に求めたかった地球の外周の距離は同じですよ」と伝えてほしい物です。

伊能忠敬のコチラの記事もどうぞ!

伊能忠敬の正確な測量はどうやって‥‥?道具や測量術があったのか??

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