明治時代

女好きの伊藤博文!妻・梅子ってどんな人?

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伊藤博文は内政にも外交にも大活躍の政治家でしたが、プライベートはどうだったのでしょうか?

女好きだったと言われているようですが、どのくらい派手だったのでしょう。奥さんとの修羅場とか、あったのでしょうか。

女好きだった伊藤博文の妻・梅子の人物像も気になります。旦那さんが歴史に名を残すような女好きだなんて梅子もたまったもんじゃないですね。

まず、妻・梅子がどんな人だったか、見てみましょう。

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伊藤博文の妻とはどんな人物?

まさに婦徳の鏡

1848年、梅子は長門国(現山口県)で誕生。伊藤博文は1841年生まれなので7歳ちがいになります

1864年頃、イギリスから帰国間もない伊藤博文と出会いました。この時、既に博文は「すみ子」という女性と結婚していましたが、1866年に離婚。梅子が継妻となりました。

梅子は赤間関(下関)稲荷町の置屋「いろは楼」の芸妓「小梅」。博文は、友人の妹で武家の娘を捨て、芸者を妻にしたということになります。

梅子は長女貞子(1866年‐1868年)、次女生子(1868年‐1934年)を産みました。また、養子となる博邦(1870年‐1931年)や、庶子となる朝子(1876年‐1944年)、文吉(1885年‐1951年)、眞一(1890年‐1980年)たちを育て上げました。

夫の博文が初代内閣総理大臣となったため、梅子は初の内閣総理大臣夫人となりました。勝ち気で向学心に富み克己心が強かったとの評判で、もともと字も書けなかったのに下田歌子から和歌を学び、津田梅子からは英語を習得。英語で手紙が書けるまでになったそうです。

鹿鳴館での社交もそつなくこなし、婦徳の鑑と称されました。

 

 

伊藤博文は女好きでヤバイ

博文には多くのスキャンダルがあった

妻梅子の方は非の打ちどころのない良妻賢母だったようですが、夫博文の方はどうだったのでしょう。

実は書き立てられないほどスキャンダルがあります。度々、新聞のネタになっていたために、伊藤には「箒」というあだ名が付けられました。「女が掃いて捨てるほどいる」と言う意味です。

時系列に沿って、紙幅の許す限り、伊藤の悪事を紹介していきたいと思います。

でるわでるわ、これが本当に初代総理大臣のやることなのかと思うくらい、ネタが豊富です。精力絶倫の男は出世すると言いますが、それにしても‥困ったものです。

 

伊藤の女性ネタ悪事1:愛のない結婚をした?女を寝取る

博文の最初の奥さんのすみ子は、同じ松下村塾の入江九一・野村靖の妹でした。すみ子に最初に心を奪われたのは、同じく松下村塾にいた山縣有朋で、刀にかけても女房にすると息巻いていましたが、告白する勇気がなくグズグズしていました。

博文はその隙に、すみ子を寝取ってしまい、結婚してしまいました(1863年)。山縣の鼻を明かしてやるのが目的だったとも言われています。

 

伊藤の女性ネタ悪事2:イギリス留学で風俗にハマった

1863年ということなので結婚して早々、伊藤博文は井上馨らと共にイギリスに留学しました。長州藩から伊藤に課せられた使命はイギリスの人情風俗や文明を調査することで、他の留学生よりも多くの資金を与えられていました。

そんな刺激の強い使命を女好きの伊藤博文に与えてしまっては大変です。ほらみろといわんばかりに伊藤博文はやらかしました

伊藤は風俗街のようなところに入り浸ってしまい、留学生たちの間でも問題になりました。井上馨が仲介に入り、事なきを得ています。風俗は風俗でも、違う方の風俗に一生懸命になってしまったようです。

最初の方にも書きましたけど、コレは妻の梅子を結婚してスグの出来事ですからね。男としては気持ちはわからんでもないですが、それにしても立場っていうものがあるでしょう。

 

伊藤の女性ネタ悪事3:不倫、そしてできちゃった婚

1864年、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃の恐れが出てきたため、戦争を回避すべく伊藤と井上は帰国しました。結局、戦争回避はできず、下関戦争が勃発。その後、禁門の変で幕府からも攻撃をうけた長州藩は大損害を被りました。長州藩内部での派閥抗争が起こり、伊藤は命を狙われます。

亀山砲台があった亀山八幡宮の境内に伊藤が逃げ込んだ時に匿ってくれたのが、境内のお亀茶屋でお茶子をしていたお梅(後の梅子)でした。お梅の美貌に惚れた伊藤は度々二人で会うようになります。このとき伊藤は既婚者ですから、不倫ですね。

薩長同盟が結ばれることになり、最新兵器購入のために伊藤は長崎に赴きました。この間に、お梅の父・木田久兵衛は、借金のかたに置屋「いろは楼」に、お梅を身売りさせてしまいます。お梅は芸妓「小梅」となりますが、この時、既に小梅は伊藤の子を身ごもっていました。それを知った伊藤は身請けを申し出ましたが、「いろは楼」の主人から本妻・すみ子との離婚を条件に出されます。

1866年、伊藤はすみ子と離婚。小梅は梅子と名を改め、伊藤の継妻となりました。不倫の末に、できちゃった婚ですね。

 

伊藤の女性ネタ悪事4:娘がいるのにまた不倫!

1868年、伊藤は兵庫県知事に就任しました。そのとき関係を持ったのが、福原遊郭料理屋兼宿泊業を営む千崎弥五平の娘・お仲です。伊藤は頻繁に千崎屋に通うようになり、やがて梅子が気づきました。この年は次女の生子が生まれているのですが…。

梅子は激怒し、伊藤はしばらくお仲との関係を断ちますが、やがて元どおりに。梅子は井上馨に頼み込み、お仲を兵庫県のとある巡査と結婚させました。

 

伊藤の女性ネタ悪事5:総理時代は華族の令嬢とあんなコトやこんなコト

1887年、伊藤は初代内閣総理大臣(1885年~)となっていました。当時は、欧化政策推進のため、欧米風社交施設の鹿鳴館で外国要人の接待や舞踏会が盛んに開かれています。

そんな中で「鹿鳴館の華」と呼ばれていたのが、岩倉具視の三女、戸田氏共伯爵夫人の極子(きわこ)でした。

伊藤は仮装舞踏会で、この極子にも関係を迫っています。マスコミからは、裏庭で事に及んだとか馬車の中で関係を持ったとか、いろいろ書かれたそうです。

その後、極子の夫が異例の出世をしていることから、伊藤が権力を使って揉み消したのではないかと、再び騒がれました。

 

伊藤の女性ネタ悪事6:日清戦争時は広島大本営で

日清戦争(1894年~1895年)の時、伊藤は第5代内閣総理大臣として再び首相を務めていました。広島城に大本営が置かれ、戦争指導のために伊藤は広島入りします。この時も芸者遊びを楽しみました

1895年の下関講和会議の時には、伊藤は下関に入りました。講和交渉中、清国側の代表・李鴻章が狙撃されるという事件が起きました。伊藤は芸者と一緒に、この事件の報告を受けています。

 

伊藤の女性ネタ悪事7:名古屋の芸者と成田山参詣

1896年に伊藤は総理を辞職。翌97年に貴族院議員・瀧兵左衛門の名古屋の別荘に滞在していました。その際に芸者・桃吉と出会います。伊藤は桃吉に惚れ込み、議会開会中も関係なく桃吉と会いました

1898年には第7代内閣総理大臣として3回目の総理を勤めています。在任は半年間だけでしたが、この年に桃吉の願いを聞き入れて一緒に千葉県の成田山を参詣しました。

 

伊藤の女性ネタ悪事8:芸者遊びのポリシー

広島や名古屋以外でも、伊藤は地方に行った際には必ずと言っていいほど芸者遊びをしていたようです。でも、その土地の二流・三流の芸者を指名するようにしていました。

そのときに伊藤博文が言い放った言葉がコレ。

伊藤博文:「その土地土地の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」

伊藤という人は、思慮分別が有るのか無いのか分かりません。まともなことを言っているようで何をいっているのだか。さすが大出世する女好きは頭のネジがぶっ飛んでいるようです。

 

伊藤の女性ネタ悪事9:天皇が注意しても女好きが直らない

伊藤の女好きは酷過ぎますね。明治天皇もたまりかねて注意したそうですが、伊藤は動じませんでした

妻梅子は、最初の頃は怒っていたようです。兵庫県知事時代の件もそうですが、伊藤家の女中を身ごもらせた時も激怒しました。でも、その後は諦めてしまったのかもしれません。なにしろ、天皇が注意してもダメなのですから。

伊藤の元に訪れた芸者たちが帰る時には、反物などのお土産を梅子は渡していたそうです。

ダメだこりゃ。

 

 

まとめ

  • 伊藤博文の妻・梅子は素晴らしい良妻賢母で、婦徳の鑑と言われた。
  • 最初の妻・すみ子との結婚は愛のない結婚だったと思われる。
  • イギリス留学中は風俗街に入り浸り、留学生仲間の間で問題になった。
  • 梅子との結婚は、不倫の末のできちゃった婚だった。
  • 兵庫県知事時代は料理屋の娘と関係を持ち、梅子に怒られた。
  • 総理時代は華族の令嬢に関係を迫った。
  • 日清戦争時は広島大本営や下関講和会議に芸者を連れ込んでいた。
  • 名古屋の芸者と成田山を参詣したこともある。
  • 地方に行った時は、一流の芸者は指名しないというポリシーを持っていた。
  • 梅子は、伊藤の元を訪れた芸者たちが帰る時、お土産を渡していた。

伊藤博文は政治家として多くの仕事をこなしていますが、それに負けず劣らず女遊びの方も多くのことをやっていました。普通はコソコソやるものなのでしょうが、この人は公然と行っています。

私も調べていて最初は軽蔑していましたが、途中から尊敬し始めました。もちろん、真似しようとは思いませんが。

それにしても、梅子は素晴らしい。身売りというのは今の私たちには想像がつかないので、身請けしてくれた夫への感謝とか、逃げ場のない肩身の狭さとか、現代では理解できない境遇なのでしょう。しかし、それにしてもファースト・レディなのですからね。こんなに我慢できたのはどうしてなんだろう、と思ってしまいました。

みなさんは、どう思いましたか?

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