明治時代

岩倉使節団とは?エピソードやメンバーについて

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幕末の動乱が終わり明治維新が起こると、日本は急速に近代化・西欧化、いわゆる「文明開化」が進みます。

その「文明開化」の一躍を担ったのが、明治政府が派遣した「岩倉使節団」でした。

歴史を勉強していたらよく聞く名前ですが、彼らは一体諸外国で何をして、帰国後日本に何をもたらしたのでしょうか。

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岩倉使節団は何のために派遣されたのか?

「岩倉使節団」は1871(明治4)年から1873(明治6)年まで、明治政府の命によって、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団です。

戊辰戦争が終結したのが1869年ということを考えると、わずか2年後に使節団を派遣することを決断した明治政府に驚いてしまいますね。

この岩倉使節団には2つの大きな使命が託されていました。

①幕末に欧米15か国と締結した不平等条約の改正を目指すための下交渉

②西欧文化を吸収するために、ウィーン万博やスエズ運河を視察すること

②に関しては予定よりもはるかに時間をかけただけあってその後の日本を考えると収穫はありました。しかし①に関しては、日本の法整備の不備を欧米政府に突かれてほとんどが失敗に終わってしまいました。

①に関して使節団が訪れたある国でのエピソードが残っていますので、後ほどご案内させていただきます。

 

 

「岩倉使節団」のメンバー

さて、明治維新間もない日本で栄えある使節団のメンバーに選ばれた人は一体どんな人たちだったのでしょうか?

岩倉使節団は総勢107名。使節46名、随員18名、留学生43名で構成されていました。

使節団を率いた大使、および副使は以下の5名です。

*括弧内は出発当時の役職、出身です。

 

特命全権大使:岩倉具視(右大臣・公家)

副使:木戸孝允(参議・長州)

副使:大久保利通(大蔵卿・薩摩)

副使:伊藤博文(工部大輔・長州)

副使:山口尚芳(外務少輔・肥前)

 

教科書で見たことがあるメンバーがずらっと並んでいます。

少し詳しく見ていきましょう。

 

・岩倉具視(18251883年)

岩倉具視は公家の出身で、「維新十傑」の一人に選ばれています。公家というと黒船来航以来、ひたすら「異国とのおつきあいを絶対反対するでおじゃる!」みたいなイメージを持ちがちです。(私の勝手なイメージかもしれませんが笑)

 

そんな中岩倉具視は当時から、相手が何を考えているのかわからないから欧米諸国に施設を派遣するのはいかがか、幕府を潰すのではなく国を守る仕事をさせるべきと、意見するなどかなりの先見の明を持っていた人物でした、

結局幕府は独断で日米修好通商条約を締結してしまい、幕府vs朝廷の対立が生まれますが、彼はこの構図も良くないとわかっていました。

 

公武合体のために、孝明天皇の妹・和宮を十四代将軍・徳川家茂に降嫁させますが、この行為が佐幕派と見られ蟄居を命じられてしまいます。

 

大政奉還後に赦免され、戊辰戦争の最中には京で新政府の枠組み作りに尽力をします。

 

木戸孝允(18331877年)

副使の一人、木戸孝允は幕末期には「桂小五郎」と名乗っていた「維新の三傑」です。桂小五郎といえば倒幕を狙う長州藩の最重要人物で、常に新選組などに追われる身でした。

有名な幕末の「池田屋事件」に彼も巻き込まれますが、難を逃れて変装を繰り返し追っ手から逃げ続ける生活を送っていました。

そんな彼を支えていたのが、恋人で人気芸妓の幾松でした。桂小五郎が変装をしながら橋の下で潜伏をせざるを得ない時も、彼女は献身的に食事を持って行ったりしながら匿い続けます。新選組局長の近藤勇が長州藩の屋敷に御用改めに入った際も、幾松は桂小五郎を隠し、泣く子も黙る新選組局長に向かい啖呵を切って追い払ったエピソードも残っています。

明治維新が起こり二人は身分の差を超えて結婚し、木戸孝允が新政府の重鎮となった後も支え続けたまさにおしどり夫婦だったそうです。

 

・大久保利通(18301878年)

幕末の英雄の一人・西郷隆盛の盟友であり、薩摩藩主・島津久光の側近として活躍します。

明治新政府では参議として、「版籍奉還」や「廃藩置県」を行います。どちらも天皇を中心とした中央集権を確立するために実施されました。

1871年に大蔵卿となり、新しい税金の仕組みである「地租改正」を実施し、同年岩倉使節団の一員として欧米へ外遊に出ます。

帰国後は内務卿として就任し、欧米諸国に負けない国を目指し、「富国強兵」を掲げました。またヨーロッパやアメリカで見たものをすぐに取り入れ、洋服を着て朝食にはコーヒーを飲み、オートミールを食べてたとのこと…

 

・伊藤博文(18411909年)

初代内閣総理大臣となった伊藤博文は、長州の貧しい農家の生まれでした。

吉田松陰の松下村塾で学び、すぐにその才能を開花させていきます。が、安政の大獄で吉田松陰が処刑されると、尊皇攘夷運動に加わりながら海外へ憧れを抱くようになっていきました。

なんと彼は幕末真っ只中の1863年に、井上馨の推薦を受けイギリスへ旅立ち、英語からマナーまであらゆることを学びました。そしてイギリスの軍事力や産業、文化に感動し、日本を開国させようと決意するのです。

その後、長州藩vs英仏蘭米の連合艦隊による「下関戦争」が勃発するとすぐさま帰国し、圧倒的な力の差で敗北した長州藩に少しでも有利になるようにと覚えたばかりの英語を駆使し和平交渉を行いました。(か、かっこいい…!)

明治新政府ではこれまでの実績と語学力を認められ、参与や外国事務局判事など重要なポストで活躍します。岩倉使節団での渡航を含め数回の留学を経験し、貨幣法の制定や、鉄道事業などに力を注ぎ、内閣制度の創設や大日本帝国憲法の制定の中心人物となり、政治家としての才能をどんどん開花させていきました。

 

・山口尚芳(18391894年)

前述した4人と違い、彼だけは教科書に名前が記載されません…でも、彼も幕末、明治にしっかりと活躍した人物です。

山口尚芳は佐賀藩の生まれで、幼い頃から優秀で長崎で蘭学を学びます。大隈重信らと長崎英語伝習所で英語も学びました。

幕末の動乱の中、山口は薩摩・長州の志士と親交を深め、特に薩摩藩の小松帯刀との親交は深かったと伝わっています。

そして大政奉還後、江戸城へ入城する際はその小松帯刀と共に先頭に立って入城しました。

彼の驚くべき点は、新政府で歴任した職務は越後府判事や外国官判事など20を超える点です。出来たばかりの組織の中で、数多くの要職をこなしていくのは相当に器用な人物だったということですね。

 

 

日本を変える「ある国」の助言

ヨーロッパを歴訪中の岩倉使節団一行は、1873年、統一されたばかりのドイツに立ち寄りました。国王との謁見や産業の調査ももちろん大切でしたが、ドイツ側の記録によると何故か一行が最初に立ち寄ったのはベルリンの動物園だったとのこと…笑

 

一行は滞在中にヴィルヘルム1世と首相のビスマルクとの対話も果たしています。

 

日本が欧米列強に習い「国際法」の導入を検討していることを話すと、ビスマルクは「弱い国が国際法を導入してもその権利が守られる保証はどこにもない。まずは日本が強くなることが重要」と伝えたそうです。

一足先に列強の仲間入りをした国の助言は、ようやく国際外交の舞台に現れた日本にとっては衝撃的なものでした。

 

岩倉使節団が帰国した後、日本は早速「富国強兵」に取り組み、日本はドイツ式の軍制をしき、近代化の道を登り始めることになるのです。

 

使節団の中には、女子教育の功労者も!

岩倉使節団の中には43人の留学生も含まれていたと先述いたしました。

その中には女性教育の先駆者であり、津田塾大学の創設者の津田梅子もいました。当時わずか6歳。

1871年彼女は5人の女子留学生とともにアメリカへ旅立ちます。

6歳から17歳までアメリカで過ごした梅子は、帰国する時にはすっかり日本語を忘れてしまい、さらには玄関では靴を脱ぐといった日本の風習も忘れてしまっていました。

日本に帰った彼女の目標は、女性のための学校を創ること。

しかし当時の日本は女性が就ける仕事が少ない上に、仕事か結婚かをすぐに選択しなければいけない世の中でした。それは梅子も同じでした。

彼女は全ての縁談を断り、1889年に再びアメリカへ留学し、92年に帰国します。

帰国後は華族女学校で英語教師として働き、1900年、女子教育への関心が高まり始めると、多くの支援を受け、現在の津田塾大学である女子英学塾を開きました。

今までは花嫁修行が中心だった女子教育ため、身分に関係なく学問を学ぶ女子英学塾の評判はたちまち世に広まるようになりました。

厳しい教育でも有名になりましたが、彼女が最初の卒業生には、女性であることを誇りに思うと同時に、学んだことを無駄にしない責任を負うことが、今後の人生の成功の秘訣であると、愛情深い祝辞を送りました。

 

 

まとめ

岩倉使節団のエピソードと、バラエティ豊かなメンバーを見てまいりました!

・岩倉使節団は、不平等条約の改正と、西欧文化吸収を目的に派遣された。

・メンバーは幕末の志士として大活躍した人物達

・ドイツの助言で、その後の日本の「富国強兵」が成された。

・女子教育の発展にも繋がっていった。

ここまで見てきたら、岩倉使節団がもたらしたものって良いことばっかりじゃない?と思います。

しかし、彼らが留守にしていた間に日本国内は大きく方向転換をしていました。

留守の間改正を行わないと約束をしていたはずなのに、三条実美、西郷隆盛を中心に積極的に徴兵や地租改正を行い、さらには「征韓論」まで唱え始めます。

欧米との力の差を目の当たりにした大久保利通らは、国内の産業強化を優先するのが先決とし、朝鮮出兵につながりかねない征韓論に猛反対をします。

結果的に新政府内部では対立が生まれ、西南戦争へと繋がっていくことになりました。

政変の最中、木戸孝允は病没、西南戦争後大久保利通は暗殺されてしまいます。

岩倉使節団の欧米派遣は新しい時代を切り拓く時は、多くの犠牲が伴うということを実感させる歴史的な出来事だったということです。

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