鎌倉幕府。これは日本で初めて武家政権が誕生しました。その地は鎌倉です。源頼朝が開いた鎌倉幕府は現在のどのあたりで、今はどうなっているのでしょうか。詳しく解説いたします。
鎌倉幕府の現在
源頼朝が開いた鎌倉幕府は、鶴岡八幡宮から東へ5分ほど進んだところにあります。大蔵幕府跡という場所です。
付近には、源頼朝の墓を示す案内板もあり、源頼朝の墓もあります。
かつて鎌倉幕府が開かれていたところは、現在では清泉小学校という小学校の敷地になっていて、住宅街の中に校舎と運動場があります。今から約820年ほど前に、この場所には多くの武士が集まり、日本で初めての武家政権が産声をあげました。初めての武家政権ということもあり、緊張感があたりいったいを支配していたのではないでしょうか。
清泉小学校の敷地の東側には、「東御門」と書かれた石碑もあります。大蔵幕府には4つの門があったと言われています。
鎌倉幕府の移動
実は鎌倉幕府は場所を二回も移動しています。
最初は、大倉御所と呼ばれ、源頼朝から3代将軍の源実朝までがここで政治を行っていました。この大倉御所が上述でご紹介した場所です。
源頼朝が鎌倉を選んだ理由として、鎌倉の土地の特徴である三方を山に囲まれており、南には海があり、攻め込まれにくい地形をしていた点があげられます。また、源頼朝の父である義朝の根拠地であったことも理由の一つとしてあげられます。
源頼朝は鶴岡八幡宮および宮と南側の海を結ぶ若宮大路を軸として、まちづくりを行いました。
この周辺には、有力御家人の家や役所がありました。
源氏の血筋が途絶えた跡は、北条氏が執権を握り、幕府を運営していきます。
1225年、北条泰時は大蔵にあった幕府の役所などを鶴岡八幡宮の南側に引っ越ししました。若宮大路の東側を南北に走る宇都宮辻子という道に面するかたちで、「宇都宮辻子御所」と呼ばれる御所が造営されました。
鎌倉幕府は同じ年に、京から藤原頼経を4代将軍として迎えました。北条政子が亡くなったため、心機一転を図って引っ越ししたと言われています。
引っ越しした地を選んだ理由は北条氏の家があったためと考えられています。
この宇都宮辻子御所の跡地には、宇都宮稲荷神社があります。神社のあたりが御所の南門があった場所と推定されています。この神社の前にも御所があったことを示す碑が建っています。
それから11年後の1236年には、北条泰時はまたも引っ越しをします。宇都宮辻子御所の北側へ移したのです。この引っ越しの理由ははっきりとしていません。4大将軍藤原頼経が病気だったのではないかとも言われています。
鎌倉幕府が滅びるまでの1333年までの約100年間、ここに幕府がありました。この場所が一番長いですね。
若宮大路の東側、鶴岡八幡宮のすぐ南に位置する住宅街が若宮大路御所のあった場所の跡地には、やはり石碑が建っているだけです。
鎌倉幕府のおさらい
ここで、鎌倉幕府のおさらいをしておきましょう。
「いい国つくろう鎌倉幕府」の言葉でお馴染みの鎌倉幕府です。歴史が苦手な方もこの言葉だけは覚えている方も多いのではないでしょうか。
そうです。鎌倉幕府は1192年に誕生します。終わりは1333年。約140年もの間続きました。
鎌倉幕府が源頼朝が作りました。日本で初めての武家政権です。この武家政権は江戸時代まで続きます。その礎を築いたのが源頼朝です。
鎌倉幕府を開いた源頼朝とは
源頼朝は源義朝の3男として生まれます。出身は現在の名古屋であったと言われています。頼朝は父と一緒に平清盛と戦いました。有名な源氏と平氏の戦いです。しかし、敗北してしまいます。義朝は殺され、頼朝は静岡県の伊豆に追放されてしまいました。
頼朝はずっと平氏に見張られて過ごしていたのです。それから20年後、後白河法皇の子どもである以仁王から平氏を倒せという命令が届きました。願ってもないチャンスです。頼朝が、妻である北条政子の父、北条時政と一緒に平氏に戦いを仕掛けます。すると、もともと平氏が嫌いであった武士が続々と集まってきました。その数はなんとなんと数万にも膨れ上がりました。かの有名な源義経もかけつけました。
源頼朝は平氏との戦いを義経に託しました。頼朝自身は何を行ったかというと、鎌倉で武士が中心となって政治を行う仕組みを作り始めたのです。
これが鎌倉幕府の始まりです。
義経はとうとう1185年に壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしました。ですが、朝廷から褒美をもらったり勝手な行動をとったため、頼朝が怒ってしまいます。
なんと頼朝と義経が対立してしまったのです。義経は鎌倉から追放されてしまいました。
そして、頼朝は鎌倉に幕府を開き、鎌倉幕府が誕生したのです。
そんな頼朝ですが、小さい頃は苦労したと言われています。
頼朝には腹違いの兄弟がたくさんいました。頼朝は3男ですが、兄2人は討ち死にし、父は味方の裏切りで死んでしまいます。
実は頼朝も平清盛に殺されそうになったのです。しかし、平清盛の母の懇願から命だけは助かったのです。
頼朝はとても優しい武将で、敵である武将を捕らえたりしても乱暴をしたりしません。
過去に敵であった人物でも気に入って側近にしたりしていました。
女性にも優しく、命も助けています。ものすごく男らしい一面があるのが頼朝です。
鎌倉幕府の特徴をあげるとしたら
鎌倉幕府の特徴としては以下の役職があったことがあげられます。
・将軍:鎌倉幕府のトップ、実際はお飾りだった
・執権:将軍の補佐を行う、鎌倉幕府の事実上のトップ
・連署:執権の補佐を行う
・評定衆:政策の決める役職、後に寄合衆に取って代わられた
・寄合衆:北条氏の家臣の集まりだが、後に評定衆の役割を行うように
・引付衆:裁判を行う
・政所:政治を行う
・侍所:軍事・警察を管理する
・問注所:御家人の訴訟を取り扱う
・六波羅探題:京都で、貴族と西国の武士を監視する
・守護:任命された国の御家人のチェックや、その土地の軍事を管理する
・地頭:任命された国の管理や税金の取り立て、犯罪の取り締まりを行う
・鎮西奉行:九州地方の御家人のトップ
・奥州総奉行:東北地方の御家人のトップ
・蝦夷代官:北海道(蝦夷地方)の管理を行う
この基礎を作ったのが源頼朝です。頼朝はとても頭がよい人物だったのでしょう。
また、鎌倉幕府で重要なのがご恩と奉公です。幕府は御家人や武士に土地を与えるのがご恩で、その代わりに御家人が恩返しに幕府のために精一杯精力を尽くすことが奉公です。
中には、土地を失った貧しい武士が奉公のために鎌倉へ駆けつけ、恩賞として3つの土地をもらったと言う作り話があるほどです。
まとめ
・鎌倉幕府の跡地は清泉小学校になっている
・現在は石碑しかない
・鎌倉は地形的に有利だった
清泉小学校は私立の小学校で昭和22年に建てられています。鎌倉幕府の跡地をなぜ買うことができたのかなどは不明です。いずれにしても何かしらの権利関係があるのかもしれません。みなさんも一度は鎌倉幕府の跡地を訪れてみてはいかがでしょうか。武士社会の先駆けとなった頼朝の知識や知恵を盗めるかもしれません。