鎌倉時代

鎌倉幕府が滅亡した理由は?

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日本で最初に誕生した幕府が鎌倉幕府。しかし鎌倉幕府はなぜ滅亡したのか?いまいち謎だと思います。そこで今回は鎌倉幕府が滅亡した理由をひも解いてまいりたいと思います!

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海の向こうから蒼き狼の孫が突如攻めてきた!御恩と奉公が崩壊?

鎌倉時代は、「御恩」と「奉公」の関係で成り立っていました。そもそも御恩と奉公ってなに?ってなりますよね?御恩とは、将軍(主人)が御家人(従者)へ与えた利益を御恩、御家人が将軍へ与えた利益を奉公といいます。

具体的にそれぞれの利益ってどのいうことか?それは、幕府のために戦ってくれた武士に褒美として「土地」を将軍は与えていました。逆に、御家人たちは土地をもらっていたので、がぜん「この人のためならがんばれる!」と忠誠心を持っていたのです。

長らく御恩と奉公の関係で、鎌倉幕府は成り立ってきましたが、武士といえども長期政権となると徳川と同じように中だるみで「貴族化」してしまうのです。将軍にはなっていませんが、平氏もそうですよね。だんだんと主従関係が崩れ始めていました。

鎌倉幕府の初代将軍は、源頼朝ですが源氏直系は三代目で途絶えているのです。頼朝の長男で二代将軍・頼家、次男で三代将軍・実朝ともにお家騒動に巻き込まれ、暗殺され、四代目以降は、公家の九条家や天皇家の親王などが代々将軍の座につきました。

すると、今までは補佐役だった頼朝の妻・政子の実家の「北条氏」が実権を握ってしまいます。当然将軍は名前だけのお飾りに。

そんな中、「元」という国が日本へ攻め入ってきたのです!「元」というのは、現在のモンゴルを中心とした国家で、西は東ヨーロッパやトルコ、東は中国や朝鮮半島、南はアフガニスタンやチベットなど広大な大帝国でした!

朝鮮半島を統一し、海の向こう側「日本」が気になり始めます!「日本も手に入れたい」と第5第皇帝の「クビライ」は思うのですね。

元は朝貢といって、貢物を外交使節団に持たせて日本へ派遣させます!まずは、貢物から貿易を始めて、ゆくゆくは元の支配下にする。このようながあったと思われますね。

ところが、鎌倉幕府は頑としてこれ拒否!御家人と強い主従関係に結ばれていた幕府には怖い者などいなかったのです。

 

 

敵がついに襲来!劣勢と思いきや「神風」が起きた?

 1274年、鎌倉幕府に突っぱねられた元はついに大軍の船で博多湾に上陸!ついに「元寇」が起きます!そもそもこの「元寇」という言葉は後から付けられた言葉で、当時は「蒙古襲来」といわれていました。そういえば、亡くなった私の祖母もモンゴルではなくずっと「蒙古」と呼んでいましたね。

世界の4分の1を支配していた大帝国の元と小さな島国の日本。どう見ても日本の勝ち目は薄いですよね?しかし、九州の御家人たちが一応近々来るのではと防波堤を築いていました。そして両者は海岸で激突します!当時の日本の戦の仕方は一対一の「一騎打ち」が基本でした。「拙者は」とか挨拶から始めて、馬上からの斬り合いでした。しかし相手は外国の元です。挨拶とかしているうちにバンバン矢とか手りゅう弾が飛んできます!

大敗した九州の御家人たちは、一時大宰府へ逃げます。その間、突如「神風」が起きて元の大軍は慌てて帰ってしまうのです。ここからの日本の「神風神話」が誕生するのです。けれども本当に「神風」で元が帰ってしまったのでしょうか?

私は神風ではなく、「場所」と「季節」が関係しているのではと考えました。博多湾に上陸したということは、海は玄界灘です。九州の方はご存知だと思いますが玄界灘は荒れることで有名です。そこへもって、時期が11月中旬。寒冷前線が来る季節。海が荒れに荒れて、大破する船が続出します!

結局、日本は場所と季節に助けられた感がありますね。九州の御家人たちは事なきを得ます。その間幕府はなにしているのよって感じですが。笑

一度は引き返した元ですが、なんとしても日本を手に入れたかったので、またも上陸します。笑 前回失敗を教訓にした日本は、高さ2メートルに渡る防波堤を海岸線に作ります。防波堤を作るのも御家人の仕事。ご苦労様ですと言いたいですところですね。

元も考えます!季節を5月に変更し、二軍に分かれてやって来ます!モンゴルと高麗の「東路軍」と、元に降伏した南宋の「江南軍」でした。

東路軍が先に博多湾に上陸しますが、前回とは比べ物にならない防波堤がありました!今度は叩きのめしてやると、御家人たちは獅子奮迅の活躍を見せ、東路軍はなかなか船から陸上に降り立つことができません。

一方で、南宋の人間で結成され、今の中国の長江側から江南軍は一向に現れません。もともと無理やり戦わされている軍だから士気が低いのです。

そして、江南軍が上陸した頃に「台風」が発生します!東路軍と江南軍の両軍の船が台風によって大破や破損して、戦どころではなくなってしまいます。ほどなくして、両軍は元へ撤退するのです。

私は、神風の原因は「台風」と「御家人たちの努力」だと思いますね。台風は自然発生の現象ですが、努力は御家人たちが命がけで幕府を守ろうと一丸になったからだと思います。それは「御恩」(土地)ですね。元の大軍を蹴散らしたわけなので、莫大な土地をもらえると御家人たちは浮足だっていました。

今一度、冷静に考えてみて下さい!本来の御恩と奉公は、日本での戦で敵を倒して敵の土地を横取りすることで成り立っていました。けれど、相手は外国です。当然与えられる土地はありません。いうなればただ働きさせられた御家人たち。

この時から御家人たちの鎌倉幕府への不満が募っていくのです!それもそのはず。御家人たちは全部自腹で戦に参加していたのです。

 

 

鎌倉幕府崩壊の序曲、新たなキーパーソンたち!

元寇を境に、鎌倉幕府を統括していた、執権・北条氏の力のなさが徐々に露呈していきます。もはや、武士じゃなく貴族化していた北条氏。かたや、御家人たちはあれほど命をかけて戦ったのに、見返りはなし。案の定生活は苦しくなっていきます。生活に困窮し始めた御家人たちの中には、土地を担保にお金を借りる者たちが現れます。

幕府も鬼ではないので、貧しい御家人たちを救おうと考えます。「永仁の徳政令」というお触れを出します。内容は、担保に出された土地を無料で返却するように命令するものでした。

けれども、徳政令の効果は一過性のもので、逆に悪循環になってしまいます。土地を貸す側が、御家人に貸しても幕府が後ろ盾では貸したお金が返ってこないと、貸し渋るように。

せっかく、御家人たちを助けようした政令は裏目に出て、かえって反感を抱かせます。執権・北条貞時は、政務を放棄しアル中な生活を送るようになっていました。当然、政治の実権は側近たちのものに。

混沌とした時代の中、体たらくの幕府に反旗をひるがえす者たちが出現します!その中の一人が「後醍醐天皇」です。もとは武士なのに貴族化した北条氏に対して、天皇でありながら武士っぽいのが後醍醐天皇なのです。武士による政治が当たり前となっていたのを、もう一度朝廷が政治を行う「新政」を強く望んでいた天皇。

この頃、執権も北条貞時から息子の高時に代替わりしていました。高時この時わずか16歳。元服は済んでいたにせよ、現代で言ったら未成年で高校生ぐらいですよね。とうぜん政治の実権は、長崎円喜などの側近たちににぎられていたのです。

その間、着々と後醍醐天皇は、朝廷での政権を目指し「倒幕計画」を進めます!しかし、信頼していた家臣の一人・吉田定房が幕府に密告してしまい、計画は頓挫します。側近中の側近で、もとは花園天皇の蔵人(天皇の秘書的な役職)をしていた日野俊基が佐渡島へ島流しにされてしまいます。

それでも、後醍醐天皇あきらめないのです。意思が強いというかしつこいというか。笑

結局倒幕計画は「正中の乱」として失敗に終わり、辛くも京都を脱出。二度目の倒幕を試みた後醍醐天皇は、またも事前に計画が発覚してしまい、今度は自身が隠岐の島へ島流しに。これが世にいう「元弘の変」です。武士でなくあくまでも天皇なので、この辺の計画性が甘かったのでしょうか?

 

 

田舎武士ついに挙兵する!

二人目は、楠木正成です。後醍醐天皇が隠岐の島へ流された後、各地で続々と討幕運動が盛んになっていきます。これは、後年の徳川幕府時の幕末と似たところがありますよね。

鎌倉から遠く離れた河内(現在の大阪府あたり)の御家人だった楠木正成。正成は、弘元の変のとき最初の挙兵をしますが、幕府軍に敗北。その間、後醍醐天皇は隠岐の島から脱出に成功し、出雲(現在の鳥取県)の豪族・名和長年にかくまわれます。

そして、出雲の船上山で各地の御家人たちに、鎌倉幕府は朝敵であると宣言し、通達するのです。後醍醐天皇の宣言を聞いた正成は再度挙兵します。

正成は、田舎武士らしくゲリラ戦や崖から石を投げる攻撃などを展開。幕府軍を苦しめました。この正成の活躍に触発され、赤松円心など有力御家人たちが挙兵したのです。

 

 

最後に天下を取った男は、裏切り者だった?

次に、ご紹介するのは足利尊氏です。尊氏の「尊」という字。実は、後醍醐天皇の御名「尊治」の一字からもらっているのです。なので、一見天皇の側近なのかなと思いますよね?いえいえ幕府側の人間でした。笑

この時は、まだ「高氏」という名前でした。祖父・家時が自害に追い込まれ、父・貞氏とともに、北条氏に虐げられた生活を余儀なくされます。

執権・北条高時は、政治そっちのけで闘犬や田楽という芸事に熱中し、ことあるごとに尊氏を馬鹿にしていました。この辺は、大河ドラマ「太平記」での高時役の片岡鶴太郎さんと尊氏役の真田広之さんが見事に演じていましたね。

後醍醐天皇を討つべく、幕府は尊氏を総大将に任命し、名越高家とともに京の都へ西上させます。ところが、高家は赤松円心の軍勢に討たれ、尊氏はピンチに陥ります。普通ならここで、「殿(高時)のために」と敵が迫ろうとも獅子奮迅の活躍を見せるところです。

だが、尊氏はあっさりと朝廷側へ寝返ってしまうのです。笑 今までの虐げられた復讐か、はたまた風見鶏なのか?この時、尊氏は病気を患っていましたが、高時が圧をかけるのです。今でいう「パワハラ」ですね。しかも父・貞氏が亡くなっていたので喪に服していたところでした。肉体的にも精神的にも疲弊していたところでの出兵。尊氏としては「やってらんねえよ」ってなったわけです。笑

すぐさま、尊氏は船上山にこもる後醍醐天皇に密使を送ります。朝廷側に味方することが書かれた文書を託したのです!つまり、総大将に任命されてすぐに寝返る気満々だったのです。抜け目ないですね尊氏。笑

一路、京の六波羅探題(鎌倉から遠い京都を監視する目的で作られた機関)を目指します!慌てたのは、乱を起こして天皇の座から後醍醐天皇に変わって新しく天皇になった「光厳天皇」やその父である「後伏見上皇」ら幕府側の人たちでした。

尊氏や赤松円心などの御家人連合軍と、六波羅軍が激突します!圧倒的に、御家人連合軍の方が戦上手でした。なんというか野武士なのです。一方六波羅軍は、北条幕府軍やら六波羅の公家たちで構成された「貴族」です。はっきりいって弱かった。

怖いので逃げようとしますが、連合軍に包囲されます。あげく、光厳天皇の膝に矢が命中!ほとんどの北条幕府軍は自害、光厳天皇たちは捕られ、引き戻されます!

100年以上に及ぶ六波羅探題は崩壊し、連合軍勝利の知らせを聞いた後醍醐天皇は船上山からまんをじして京へ上ります。

六波羅探題の崩壊は、足利尊氏の裏切りがなければ実現しなかったかもしれません。風見鶏的な行動は武士としてどうなのよと賛否が分かれるところですが、結果オーライでしょうか?

 

 

美味しいところを全部持っていかれた悲運な武将!

最後は、新田義貞です。正成や尊氏の戦は、主に日本の西側ですよね?じゃあ東側はどうなのよと。尊氏が六波羅を攻めていたころ、関東の上野(現在の群馬県)の新田荘を取り仕切っていた御家人が義貞でした。もとは源氏の源義家の流れで尊氏とは親戚関係にありました。

義貞は、最初幕府側として、あの正成がゲリラ戦など展開した千早城の戦いに参戦していましたが、幕府の勝ち目はないと確信した義貞。その間、後醍醐天皇が全国の御家人たちに「共に幕府を倒そうではないか」という綸旨(天皇の言葉が書かれている公文書)を出していたことを知ります!早々に、仮病を装い戦線離脱した義貞。笑

尊氏同様、義貞も幕府から虐げられていたのですね。地元に戻った義貞でしたが、軍資金調達のため、幕府が土地の税金をがっぽり持っていこうとします!誰だって怒りますよ。

抵抗する新田荘の家臣たち。ついに幕府の徴収人を殺してしまいます。こうなったらもう泥沼。幕府は領地没収を決定します。これが義貞の挙兵の決定打になるのです!

義貞にも後醍醐天皇から綸旨が届き、ついに倒幕の意思を固め挙兵するのです!上野から利根川を渡って武蔵(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)に入った義貞一行。

尊氏の六波羅探題攻め成功によって、人質に取られていた尊氏の嫡男・千寿王(後の義詮)が家臣たちによって鎌倉から脱出に成功し、義貞一行と合流しました。さぞ若武者と思いきや、この時千寿王はまだ四歳なのです。笑 尊氏が29歳、義貞が33歳と父親世代がまだ若い。つまり、お飾り的要素があったのです。あの六波羅探題を倒した尊氏の子息がいるとなると、関東周辺の武士たちが続々と義貞軍に合流。2万以上の大軍となったのです!

勢いづいた義貞軍は、小手指原の合戦、久米川の合戦、分倍河原の合戦と次々に勝利を収めます!挙兵して、わずか10日ほどで、藤沢あたりまで迫ります!深く険しい道が続くので、義貞軍は三手に分かれます。大舘宗氏を大将にした大舘軍を右から極楽寺坂へ、堀口貞光を大将とした堀口軍を左から巨福呂坂へ、自身は中央から化粧坂へ向かいます。

しかし、宗氏が幕府軍に攻撃にあって無念の戦死。大切な仲間を失った義貞。より一層倒幕に燃えます!義貞はとうとう幕府軍を追い詰めます!観念した執権の高時は自害。北条一族200人もが後を追って命を絶ち、150年に渡る鎌倉幕府は幕を閉じます。

直接鎌倉幕府を倒した義貞。戦の後始末に明け暮れる中、「帝!幕府をたおしました!」との内容の文書を使者に送らせます。

だけれど、京の都では尊氏フィーバーが起きていたので 笑 鎌倉でもその嫡男である四歳の千寿王少年に人気が集まります。

鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇をトップとする「建武の新政」がスタート。御家人たちは「ついに新しい時代がきた!」と歓喜します。

御恩と奉公再び!と思いきや、そんなものないのです。天皇は武士ではありません。やはり自分の側近である、公家たちのほうがかわいいのです。公家が「我が子」だとすると、武士は「よその子」なのです。今で言ったら「正社員」と「派遣」といったところでしょうか。後醍醐天皇はあくまでも、朝廷及び公家を中心とした政権を考えていて、武士のことはどうでもよく政権を奪取するためのこまとしが考えていなかったのです。

義貞は、従四位という身分しか授けられませんでした。本来ならば幕府を倒した張本人なら、「征夷大将軍」に任命されるのが妥当でした。

 

 

男たちの醜い争い!

後醍醐天皇の独裁に御家人たちは不満を募らせ、騙し騙されの混沌とした時代に。そんな中、信濃(現在の長野県)に逃れていた亡き執権・高時の遺児・時行が「父の敵!」と鎌倉へ出兵し、またたく間に占拠してしまいます。尊氏は後醍醐天皇に「時行を討つから、恩賞と征夷大将軍に任命してよ」と願い出るわけですが、天皇は知らんふり。笑

結局、自称征夷大将軍を名乗って、時行軍と戦い、敵を倒します。これに冗談じゃないと激怒したのが後醍醐天皇。尊氏討伐のため朝廷軍を差し向けます!尊氏、なんと躁うつ病をわずらっていたので、一人寺にこもります。笑 で、戦うのは兄に代わって弟の直義なのです。この辺は、大河ドラマ「太平記」でも高嶋政伸さんが演じていましたね。ドラマまで良い弟キャラだなと。笑

弟の劣勢を知った尊氏はちょっと回復したので、参戦します。笑 尊氏兄弟軍は、劣勢をはねのけ、逆に京の都を制圧。京の人々は嘆きます。「あんたうちらのヒーローじゃなかったの」って。

しかし、朝廷も黙っていません。「尊氏とんだ食わせ者だな」と怒り心頭!天皇の側近・北畠顕家らに反撃され、尊氏兄弟軍は京を追われます。こうなったら死に物狂いです。全国の御家人に「みなのもの今一度武士の世の中を作ろう」ではないかと。尊氏は光明天皇を擁立して「この方が本当の天皇です」と御家人たちに通達します。もう止まりません。笑

対抗した義貞と正成連合軍は、尊氏との戦いに敗れ無念の戦死。尊氏は京の都を奪還。光明天皇が即位します。一方、後醍醐天皇は京を追われて吉野(現在の奈良県)へ落ち延び、「建武の新政」は短命に終わり、朝廷が二つある「南北朝時代」という前代未聞の時代へ突入。最後には、正式に尊氏が征夷大将軍に任命され、新たな「室町幕府」を開きました。

 

 

まとめ

1 鎌倉幕府の滅亡した理由は、元からの元寇と執権・北条氏が政治そっちのけで趣味にのめり込んで、威厳を失ったから。

2 元寇の際に、敵が外国だったため、幕府と御家人の「御恩」と「奉公」の関係が崩壊したから。

3 後醍醐天皇が、天皇中心の政権を考えたから。

4 有力御家人、足利尊氏、新田義貞、楠木正成らが台頭したから。

正直、私は足利尊氏好きになれないですね。ころころ心変わり過ぎだと。幕府を倒した新田義貞を征夷大将軍に任命してほしかったと個人的には思いますし、元寇がなくても、どっちみち鎌倉幕府は御家人たちから信頼を失って滅亡したのではないと思いました。いつの時代も権力争いは醜いですね。

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