「~~狩り」って風流ですよね。
「紅葉狩り」「潮干狩り」「果物狩り」「刀狩」。
とくに刀狩なんて、狩るのは刀ですから、それはもう刀の刃がきらめいて輝かしい……ことにはなりそうにありません。
潮干狩り・果物狩りとは違って狩っても食べられそうにもありません。
刀を狩るって、いったいどうして?
方法は?
狩った刀をどうしたの?
まさか紅葉狩りのように観賞用だったわけでもないでしょう。
昨今、急増中の刀好きな方にとっては聞き捨てならない言葉の一つではないでしょうか。
かくいう私もとっても気になっています。
歴史の中で狩られた刀の行方を探ってみたいと思います。
刀狩りは何のために?目的は?
刀狩りとは、刀を狩ること。
この場合の「狩る」は文字通り、奪いとることです。紅葉狩りのように観賞するわけではありません。
有無を言わさず奪い取る。そうやって無下に集めた刀をどうしていたのか?
一例として、豊臣秀吉の刀狩の場合を見てみますと方広寺というお寺に大仏を奉納する、ついてはその大仏殿の部品に使うというのが名目でした。
ほかにも柴田勝家は刀剣を溶かして鎖を作って橋の材料にしたとか、農具を作成したなどという話も残っています。
そして一番重要なのが、刀を取り上げて兵力を削ぐことにありました。
刀ってそんなに安いものではないでしょうに、狩られる人にとってはかなりの痛手ではないでしょうか。
そもそも刀は武士の魂とも言われるのに狩るなんて鬼の所業ですよ。
そう思っていたのですが、刀を狩られた人は武士ではなかったのですよね。
では、刀狩が行われる以前には武士のほかの誰が刀を持っていたのでしょうか?
あわれ、刀を狩られた者たち
刀狩りはさまざまな統治者によって行われました。
一番古いものとしては、鎌倉時代に北条泰時が高野山の僧侶にたいして行った刀狩りがあります。
狩るとは言っても、僧侶とその従者が市中で帯刀することを禁じたのであって、この時には刀を取り上げたわけではありませんでした。
帯刀禁止に背いた場合に刀剣を取り上げ、大仏造営に寄付するという法令でした。
その後の北条時頼は庶民が刀剣を持つことを禁止しています。
戦国時代には諸大名によって様々な土地で刀狩りが行われていますが、もっとも有名なのが豊臣秀吉が行った刀狩り令です。
豊臣秀吉が刀を集めていた理由は?
豊臣秀吉が天下を統一してから布告した刀狩令は、農民の帯刀を禁止して兵農分離を行ったと言われています。
刀が好きだから集めていたわけではないようです。
武器としては、刀以外の弓矢や槍などをもつことも禁じられましたが、イノシシなどの駆除用や祭祀に使う祭礼具としてならば所持できることになっていて、完全な兵農分離とは言えなかったようです。
追いかけるのがイノシシでも人間でも、槍のするどさに変わりはありませんからね。
そもそもどうして、農業従事者の農民が武器など持っていたのでしょうか?
じつは、鎌倉時代から戦国時代には庶民も成人の時には「刀指」といって脇差を身につける風習があったのです。
戦国時代には百姓も戦に駆り出されていますし、落ち武者狩りも行われていました。
明智光秀や穴山梅雪などは農民の落ち武者狩りにあって亡くなったと言われています。
そんな時に武士が丸腰でいるというわけでもないでしょう。
鎧を着こんだ武士に勝てるだけの武器は持っていなければ向かっていくことも出来なかったでしょう。
間合いが狭い脇差は実践向きでないとしても、槍や弓矢は持っておきたいところです。
刀狩りの秘密の思惑?
刀は武士の魂などと言われますが、戦国時代には農民の魂でもあったようです。
その魂を取り上げることで農民には農業に専念して戦わないようにと意識改革を行ったのではないかとも思われます。
一向一揆、土一揆など農民が武器を手に向かってくることの多かった時代ですから、敵大名と同じくらいに自分の領地の庶民にも目を光らせなければならない状態を改善したかった思いもあるのではないでしょうか。
ただし百姓の中には武家奉公人として武士についていって戦にあたる人たちもいました。
この武家奉公人には武器の所持が認められていました。
農業従事者と戦闘者との区別が帯刀しているかどうかで区別できるようにもなりました。
これまでは刀を差して歩けていたのに、武器を取り上げられて丸腰で歩かなければならなくなった農民の意識はずいぶん変わったことでしょう。
自分は無力だと無理やり思わされたのではないでしょうか。
その意識の変化こそが兵農分離として、もっとも重要な部分だったように思えます。
狩られた刀は人を守った!?
豊臣秀吉が刀狩を行った際に、取り上げた武器は溶かして方広寺の大仏殿の部品にするという名目でした。
ですが、集められた武器は秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に使われたのではないかという話もあります。
どちらにしても無駄にはしなかったようです。
刀は良質な鉄でできていたでしょうから、捨てるのはもったいないですよね。
刀狩令と同時代の法令もひどいもの?
豊臣秀吉が刀狩令を出した前後に、兵農分離にかかわる法令が3つあげられます。
1.海賊停止令
2.喧嘩停止令
3.浪人停止令
海賊停止令などという法令が必要なほど、海賊が跳梁跋扈していたの!?
と驚いたのですが、戦国時代には「海賊衆」と呼ばれる領海を有する豪族がいたのだそうです。
いわゆる海賊行為・強盗などを生業とするわけではなく船舶の警護なども行っていたとか。
その海賊衆に、豊臣の軍勢になるか、豊臣の家臣である大名の元につくか、武装放棄して百姓になるかをせまるものでした。
海の刀狩令と言えます。
喧嘩停止令は、文字通りの喧嘩を罰することなのですが、江戸時代までの農村で起きた諍いは暴力行為に発展することが多く、武器を持ち出すことも普通にあったそうです。
それを禁止していました。
浪人停止令は武家奉公人以外に身分があやふやなまま武家に仕えているような雑兵農民たちを追い出すようにという法令です。
これは兵農分離をもとめた刀狩の一環と言えるようです。
刀鍛冶たちの仕事は激減!?
刀狩令で庶民が刀を持てなくなると、刀鍛冶の仕事はなくなってしまったのでしょうか?
そうとも思っていたのですが、日本の刀は外国に輸出されることもあり、相当な数の注文があったそうです。
質の悪い刀を濫造する刀工もいたとか。
武士の魂はどこに行ったのか……。
海外には武士がいないからいいや、ということだったのでしょうか。
それに、槍や弓矢は相変わらず鋳造されていたのですから、そういった武器の鋳造に携わっていく道もあったのかもしれませんね。
豊臣秀吉の刀狩の目的は? まとめ
・農民と武士を一目で見分けられるようにした。
・一揆の抑制。
・兵農分離の促進。
大人の男性ならみんな持っていた刀を取り上げる。
そこには武器を接収するという目的以外にも意識改革があったのではないかと思えました。
農民の無力化によって一揆を減らしたり、各国の大名の兵力の弱体化も期待できたでしょう。
天下統一を果たしたからこそできた広範囲にわたる刀狩は、庶民に時代が変わったことということも知らせる役割があったのではないかと思います。
刀一本のことですが、そこに込められていた思いがどれだけ大切か、農民から武士の頂点までのぼりつめた豊臣秀吉だからこそ理解できたことだったのではないでしょうか。
現代に生きる人で自分の魂と言えるものを持っている人はどれくらいいるでしょう。
魂と言えるものを見つけられたら、それだけで素晴らしい人生と言えるのかもしれません。
もし自分の魂が刀だとしたら、銃刀法は確実に守ってくださいね!