戦国時代

川中島の戦いの場所・戦の結果・勝者は?一騎打ちは本当にあったの!?

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戦国時代最強のライバル同士であった上杉謙信と武田信玄。

2人の有名な戦いといえば「川中島の戦い」ですね。

「川中島の戦い」はなんと5回も行われ、謙信と信玄は激しい戦いを繰り広げました。

そこではいったいどんな戦いが繰り広げられ、軍配はどちらに上がったのでしょうか?

また、2人の直接対決はあったのでしょうか?

今回は歴史マニアの私が、川中島の戦いについて解説していきたいと思います!

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川中島の戦いとなった場所「川中島」って?

長野盆地の南に犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)が合流する地点があり、そこから広がる土地を川中島と呼んでいました。

その土地は越後と信濃を結ぶ交通の要所で、そのうえ土地が豊かで米や麦の収穫高が多く、経済的にも重要な拠点でした。

武将たちがこの土地を欲しいのは必然ですね。

そのため、信玄と謙信はこの地を巡って長い間争ってきたというわけなのです。

元々は村上義清という豪族がこの地をまとめていたそうですが、信玄の侵攻を受けてこの地を追い出されてしまいました。

困り果てた村上義清は、謙信に助けを求めます。

というのも、謙信は北信濃の豪族・高梨氏と縁戚関係にあったため、こちらを救援する目的もあって、義清を助け、この争いに介入します。

またもう一つはこの戦いをおさめて、余った土地をいただこうというもくろみもあったのではないかと思われます。

京に近い交通の要塞を手に入れれば、将軍のところにも行きやすい。

天下統一への第一歩、というわけです。

こうして、北信濃の完全制圧をもくろむ信玄と謙信は戦うことになりました。

ではいったいどんな戦いが行われたのでしょうか?

 

 

川中島で2人はどんな戦いを繰り広げたのか?

第一回目の戦い

1552年9月1日、謙信の軍は武田軍配下の城を次々に攻め落としていきました。

これに黙っていない武田軍もただちに兵を繰り出し、謙信がいる城に放火させ反撃を示しました。

熱戦が繰り広げられるかと思いきや、謙信は急に兵を引き上げました。

これは謙信が弾正少弼(だんじょうしょうひつ)という役職に任ぜられ、従五位に序せられたので、朝廷や将軍にお礼をするため京へ上る期日が迫っていたからです。

こうして戦いは長引いていきます。

 

第二回目の戦い

1555年7月、信玄は謙信が京に上洛している隙を狙って、総力をあげて川中島に乗り出します。

兵3000、弓800、鉄炮300の兵を送り、上杉軍を牽制しました。

謙信も川中島に戻ってきたのち武田軍の城を攻めますが、落としきることはできませんでした。

長期間の滞在で両軍は疲れ、今川義元が講和を成立させます。

その内容は武田方が旭山城を元の状態に戻し、信玄と謙信で領地を分けるということでした。

しかし・・信玄は謙信との講和を破ってしまうのです・・・!

犀川を渡って北への進出をはかり、更級郡の香坂筑前守、高井郡の井上左衛門尉、市川信房を味方に引き入れ、着々と北信侵攻の準備をすすめてしまいます。

戦国時代では、裏切りは当たり前だったんですかね…

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第三回目の戦い

1557年2月、雪の降る時期で身動きのできない上杉軍の不利をついて、武田軍は善光寺の西北にある葛山城を攻めます。

続いて信玄は北に進み、長沼城(長野市)・大倉城(長野市)を攻め、さらに戦線を伸ばして飯山城に迫りました。

葛山城落城の知らせを聞いた謙信は雪の消えるのを待って、善光寺平に入り旭山城を再建し、信玄の来襲に備えました。

武田軍が建築を始めていた埴科郡香坂城(後の海津城)を攻め、坂城の岩鼻(南条)まで迫りますが、信玄が兵を引き上げたため戦うことはできませんでした。

この年の7月、北安曇郡の小谷おたりで甲越両軍が激しく戦い、さらに8月に入って上野原(長野市若槻)で激しい合戦をしました。

→ 【最強?!】上杉謙信の家臣(四天王)について!

永禄元年に将軍足利義輝はこの戦いに和談を勧め、信玄と謙信に内書を送りました。

二人はこれを承諾し、兵を引き上げました。

この間信玄は将軍義輝から信濃国守護に任ぜられ、1559年2月に出家、信玄(出家する前は晴信)と名を改めました。

一方謙信は京へ上り約半年間滞在したのち、将軍足利義輝から関東管領職に任じられ、同年10月に帰国しました。

将軍の仲裁で戦いが終わるかと思いきや、まだ戦いは続くのです…

 

第四回目の戦い

1561年4月、信玄の兵が碓氷峠から国境を越え上野の松井田や長野原に侵入してきました。

その裏をねらい謙信は春日山城を出て北信濃に入り、村上・井上・高梨・須田・島津などの信濃衆を先陣とし川中島に出陣しました。

謙信出陣の知らせを受けた信玄も、多くの将士を従えて川中島に向かいました。

謙信は、千曲川を越えて海津城を眼下に見下ろす妻女山に本陣をすえました。

信玄はこの知らせを聞き、一手を妻女山の攻撃に向かわせ、信玄と他の一手は謙信とは逆に千曲川を渡り、篠ノ井の界隈に陣を取りました。

このとき、川中島の戦いで最も烈しい戦闘が行われました。

一般に川中島の戦いは、この4回目の戦いをさしているそうです。

この戦いで、謙信とその旗本が信玄の本陣に襲いかかり、謙信が信玄に太刀をあびせ、信玄も太刀を抜いて防いだと伝えられていますが、その真偽の程はわかりません。

 

第五回目の戦いの結果・・・勝者は・・!!

1564年年3月、信玄は信越国境に兵を出して、野尻城(信濃町)を落としました。

しかし、謙信も5月には城を取り返し、善光寺に陣を進め信玄を牽制します。

謙信は一挙に勝負をつけようと盛んに信玄に挑戦しますが、信玄は塩崎まで出陣したものの合戦は行われなかったため、60日に近いにらみ合いの末、謙信は10月には越後春日山に帰らざるを得ませんでした。

5回にわたる川中島の戦いの結果は、甲州の勝ちか越後の勝ちか、あるいは互角かと話題になりますが、川中島で食い止めることができず、信玄に北上を許したということは謙信の劣勢を認めざるを得ません

謙信は、飯山城を核に高井郡と水内郡の一部を確保したにとどまり、信玄は北信濃のほぼ全域を手中に納めました。

最終的には信玄の死によってこの戦いは終わるのですが、結果から見ると信玄に軍配が上がったといってもいいかもしれません。

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戦いの中でライバル同士の一騎打ちはあったのか?

激しく長い戦いを繰り広げた謙信と信玄。

果たして、両者の一騎打ちはあったのでしょうか。

『甲陽軍鑑』という資料に、2人の一騎打ちの場面が記載されていると思われる部分があります。

最も激しかったと言われる川中島の戦い4回目の時です。

上杉勢の突撃をくらい信玄の本陣が乱れたまさにそのとき、

「萌黄(もえぎ)の胴肩衣(どうかたぎぬ)きたる武者が白手巾(しろてぬぐい)にて、つふり(頭)をつつみ月毛(つきげ)の馬に乗って参上した」

というのです。

その武者は、太刀を鞘から抜いて信玄の床几にむかって真一文字に進むと、太刀を振り上げ、

「三刀伐(きり)奉る。信玄公たつて(立って)、軍配団扇にてうけ(受け)なさる。(信玄が)後(のち)みれば、うちは(団扇)に八刀(かたな)瑕(きず)あり」

と言ったそうです。

つまり、白頭巾で頭をおおった謙信らしき武者が信玄に3太刀浴びせ、信玄は床几から立って、そのつど軍扇(ぐんせん)で受けたものの、その軍扇には刀傷が8つもできていたということです。

 

一騎打ちの有力な証拠があった!

『甲陽軍鑑』はこの戦いの後に、「其(その)武者、輝虎(謙信のこと)なりと申候」と言っており、あとになって謙信だとわかったと記しています。

ただ謙信らしき武者であって、謙信だという証拠がどこにも記載されていないので、はっきりとした事実ではなさそうです。

しかし、ある”信頼できる人物”がこの両雄一騎打ちについて、有力な手がかりを残してくれています。

両雄一騎打ちの有力な手がかりを残してくれた人物。それは、公卿の関白近衛前久でした。

前久と謙信は前々から交流があり、前久の娘と謙信は“恋仲”の関係にあったといわれています。

川中島の合戦後、前久が謙信に「自身太刀討に及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉」と言っており、自身で太刀討ちなさるとは比類なき武勇であり、天下の名誉だと、称賛の手紙を書き送っています。

謙信は自慢話のつもりで、「自身太刀討」したという手紙を前久に出していたのでしょう。この文面はその返書にあたります。

したがって、この手紙がしばしば、“両雄太刀討ち説”の証拠として使われているようです。

 

え?証拠はあるけど違う?!

しかし忘れてならないのは、「太刀討」の相手が信玄だとひと言も書かかれていないということです。

文面からは、謙信の「太刀討」の相手が誰かはわかりません。

いかに戦国時代といえども、大将どうしの一騎打ちはそうある話ではありません。

相手が本当に敵将の信玄だったのなら、返書であっても、前久は“信玄と太刀討に及ばるる段”と記し、省略しないはずです。

そうしなかったのは、謙信の手紙に、そんな事実は記されていなかったからだと思います。

大将の謙信自ら太刀をとり、武田の将兵と戦っていたのは事実だと思いますが、その中に信玄が含まれていたかどうかはやはりわからないということです。

謙信と信玄が一騎打ちをしたというエピソードがあった方が両者が強かったエピソードが後世に残りますし、誰かが試行錯誤してそのように伝わるよう仕向けたのかもしれません。

川中島には2人が一騎打ちをしている銅像が立っていますし、ありえない話ではなさそうです。

 

 

まとめ

  • 川中島は交通的にも経済的にも重要な場所であり、2人はこの地を巡って激しい戦いを繰り広げた。
  • 2人とも一進一退を繰り返し、最終的には信玄が川中島の領地をほぼおさめていることから、信玄に戦いの軍配が上がると言える。
  • 両者の強さを後世に伝えるため2人の一騎打ちエピソードが持ち上がったが、実際には謙信と信玄の直接対決はなかった。

というのが今回のまとめです!

2人は後世に残る戦国最強の武将であることは間違いないかと思います。

今回は「川中島」の戦いについて解説させていただきました!

→ 上杉謙信と武田信玄、2人の仲や関係は結局どうだったの?

→ 上杉謙信の死因は?年表で謙信の歴史を振り返る!

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