明治時代

木戸孝允の死因や子孫は?イケメンだったって本当?

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木戸孝允と言えば、長州藩出身で明治維新を成功させたメンバーの一人。若い時は、桂小五郎と名乗っていました。

「小五郎」と言えば、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズに出ていた明智小五郎とか、名探偵コナンに出てくる探偵・毛利小五郎を思い出します。とってもミステリアスな印象を持ってしまうのは私だけでしょうか?

木戸孝允はイケメンだったという噂があります。また、明治の元勲は暗殺されている人が少なくないのですが、木戸の死因はどうだったのでしょう?また、子孫はいるのでしょうか?

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木戸孝允はイケメンだった?

それでは、まず最初の疑問。木戸孝允はイケメンだったのでしょうか?

写真を見てみると…

木戸孝允の場合、明治維新後に撮った肖像写真が多用されます。

ちょんまげを切って短髪にした姿は、確かにイケメン。ワルガキ時代に負った額の古傷も分かりません。

もっともこの時代は、額に傷があるくらいの方がカッコよかったかもしれませんね。

 

長身でモテモテだった?

ここで重要な証言を一つ。渋沢栄一が興味深い言葉を残しています。

「伊藤(博文)さんは私どもと同じく、あまり身體の大きい御方ではございませんでしたが、木戸さんはかなりお身體も大きく、立派な方でありました」

木戸孝允の身長は五尺八寸(174cm)あったそうで、今でも長身な方ですね。世界でも通用するイケメンだったようで、海外渡航先の州知事の娘からプロポーズされたと言われています

その海外渡航した時の岩倉使節団の写真を見てみましょう。

左端が木戸孝允、中央の椅子に座っているのが岩倉具視、右端が大久保利通(178cm)です。確かに、大久保と木戸は同じくらいの大きさに見えます。

一方、大久保の後ろに立っているが伊藤博文(159cm)と思われますが、とても小さく見えます。

 

 

木戸孝允の死因は?

次は、木戸孝允の死因についてです。病死したようですが、残念ながら正確な史料が残っていません。あくまでも推測ということになります。

胃を病んでいた!

見かけによらず神経質だった木戸。誠実なので周囲からの信頼は厚く、対立が多い新政府内で調整役に回っていました。ストレスは大きかったようです。こういう人は胃に来そうですね。ここで、伊藤博文の証言を見てみましょう。

「公は若い時にはそうでもなかったようだが、西洋から帰朝してから、終始胃病で苦しんで居られた。それに一度馬車で頭を打ってから一層病気が悪くなり、非常に物事に心配するようになった。余り憂慮に過ぎて夜も寝られぬと云う様になったが、是は余程病気を助けたろうと思う」

ということで、胃潰瘍とか胃癌など胃の病気説が有力です。

 

肝臓も病んでいた!

木戸は大変な酒好きだったようです。ストレスから逃れるために酒に走ったのかもしれません。肝臓が腫れていたとも言われています。ここから推測されるのはアルコール性肝硬変です。

 

最期は西郷を叱責して…

1877年(明治10年)に西南戦争が勃発すると、木戸は明治天皇とともに京都へ出張しました。ところが、かねてから重症化していた木戸の病気が悪化。

明治天皇の見舞いも受けますが、京都の別邸で朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」という言葉を最後に亡くなりました。享年45歳。

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木戸孝允の子孫は?

木戸孝允の子孫について。木戸には後継ぎとなる男児がいませんでした。そのため、2回養子をとっています。

そして、現在も活躍されている子孫を見つけました!

ひ孫の孫:木戸寛孝さん

来孫は曾孫の孫。途中に養子が2人入っているので、家系図的には「六代前の先祖が孝允」という表現が正確なようです。1969年9月22日生のB型。

現在SUN’s Actに勤務。NPO法人世界連邦21世紀フォーラム代表。一言では言い表せない幅広い活動をされています。Facebook等、是非ご覧ください!

 

 

そもそも木戸孝允ってどんな人?

長州藩出身。吉田松陰の教えを受け、藩内の尊王攘夷派の中心人物となりました。志士時代には、新選組などの幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず京都で活動。明治新政府では、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整え、自ら参議の一人となりました。岩倉使節団にも参加して欧米を視察。明治政府を立ち上げた中心メンバーの一人でした。

 

小さい時は病弱だった?

木戸孝允は、1833年8月11日、長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に藩医・和田昌景の長男として生まれました。

長男であるにもかかわらず、病弱で長生きしないと決めつけられて、長姉に婿養子を取っています。予想が外れて長姉が早く死んでしまい、次姉がその婿養子の後添えとなりました。

父親は医者なのに長男の命に見切りをつけたり、長姉を助けられなかったりで、余り腕は良くなかったようですね…。

7歳の時に、向かいの桂家(家禄150石)の養子となり、長州藩の武士の身分と禄を得ました。養子に出されるのはかわいそうな気もしますが、武士になれたのは幸せだったかもしれません。

ところが翌年、桂家の養母も亡くなったため、結局は生家の和田家に戻って、実父母・次姉と共に育ちました。

「木戸」姓は、第2次長州征討前(1866年:33歳の時)に藩主・毛利敬親から賜ったものなので、それまでは「桂小五郎」を名乗っていました。

 

ワルガキだった?

病弱なはずの桂小五郎ですが、他方で悪戯好きの悪童でもありました。

萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉を叫ぶという悪戯に熱中していた。悪戯というより立派な犯罪ですけど。

ある時、怒った船頭に櫂で頭を叩かれました。小五郎は想定内だったらしく、岸に上がり額から血を流しながらもニコニコ笑っていたそうです。このときの三日月形の傷跡が、額に古傷として残りました。

 

剣豪だった?

近藤勇でさえ手も足も出なかったと言うほどの剣の腕前だったようですが、真剣を用いることは余りありませんでした。

長州藩の中心人物と言うことで、刺客や捕吏には常に狙われていましたが、いつも剣を抜かず闘いを避けてひたすら逃走。でも、これは臆病だったわけではなくて、神道無念流の教えを忠実に守っていたからでした。

そのため「逃げの小五郎」というあだ名を付けられたりしています。毛利小五郎が「眠りの小五郎」と呼ばれているのと似てますね。

 

実は真面目な人だった!

前出のワルガキ時代のエピソードからすると酷い奴だったという印象を持ってしまうのですが、そうでもなかったようです。ちょっと、元勲たちの証言を聞いてみましょう。

大隈重信:「木戸は正直真面目な人であって、雄弁滔々、奇才縦横であるが、併しなかなか誠実な人であった。」

勝海舟:「木戸松菊は西郷などに比べると非常に小さい。しかし綿密な男サ。使い所によりては、随分使える奴だった。あまり用心しすぎるので、とても大きな事には向かないがノー」

板垣退助:「私が一言で先輩を評しては、甚だ憚であるが、公は知恵があまり多すぎて少し過慮といふところがあつて、それが短所と思ふのである」

まとめると、真面目で誠実であるのは良いが綿密で用心深いところはむしろ短所、ということになりそうです。

 

 

まとめ

  • 木戸孝允は長州藩出身で、明治政府を立ち上げた中心的メンバーの一人。
  • 幼少時は病弱で、長男なのに生家(和田家)を継げなかった。
  • とんでもないワルガキで、船を転覆させて遊んでいたので、怒った船頭さんに櫂で殴られ、額に三日月型の傷がある。
  • 剣はとても強かったが、神道無念流の教えに従い刀を抜かずに逃げてばかりいたので、「逃げの小五郎」と呼ばれるようになった。
  • 肖像写真を見ると、短髪もよく似合うイケメン。
  • 長身だったので、渡航先でもモテモテだった。
  • 性格は真面目で誠実だった。綿密で用心深いところもあった。
  • 伊藤博文の言によれば、胃の病気で苦しんでいた。
  • 酒好きで肝臓が腫れていたとも言われている。
  • 死因としては、胃潰瘍、胃癌、肝硬変などが考えられる。
  • 西南戦争の最中、西郷を叱責しながら亡くなった。享年45歳。
  • 現在活躍されている子孫は、来孫の木戸寛孝さん。幅広い活動をされている。

明治10年という年は、西郷隆盛と木戸孝允の二人が亡くなったのですね。意見は真逆で、対立することが多かった二人ですが、当時は周囲からの信望が厚く、現在もファンが多いところは共通しています。この二人が明治政府内でもう少し長く活躍していたら、その後の歴史はどうなっていたんでしょう。

明治維新から150年。日本史をふり返る大きな節目になるかと思います。

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