明治時代

北里柴三郎の業績がスゴすぎる!エピソードはカミナリ先生!

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北里柴三郎は「日本の細菌学の父」と呼ばれていますが、具体的な業績はどんなものがあるのでしょう。また、どんなエピソードがあるのでしょうか?調べてみました。

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北里柴三郎の業績

北里柴三郎が本格的に医学に目覚めたのは熊本の古城医学所病院に入学して、オランダの軍医マンスフェルトに出会ってからでした。1871年(明治4年)、北里は18歳でした。一年後には通訳を務めているというのですから、凄いですね。

1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学。在学中「医者の使命は病気を予防することにある」と確信。予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書きました。

1885年(明治18年)よりドイツベルリン大学へ留学。「近代細菌学の開祖」と言われるコッホに師事しました。それからというもの、北里は世界が驚嘆するような業績を次々と上げていきます。その業績の数々を見ていくことにしましょう。

 

業績1:破傷風の血清療法の開発

当時、破傷風はとても恐ろしい病気でした。その原因となる破傷風菌は嫌気性の細菌で、世界中の土壌や汚泥に生息しています。これが、傷口などから体内に入ってしまうと、破傷風菌が出した毒素によって全身の筋肉が拘縮状態に。

背中は反り返り、ひどい場合は背骨が折れるほどです。ところが、この神経毒は筋肉以外には影響を及ぼさないため、明瞭な意識のまま激痛に耐えなければいけません。破傷風は古来より世界中で大変恐れられていたのです。

1889年(明治22年)に北里は、世界で初めて破傷風菌だけを取りだす破傷風菌純粋培養法に成功しました。さらに翌1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見。菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発しました。これが血清療法です。

 

業績2:ジフテリアへの応用とノーベル賞

さらに、血清療法をジフテリアに応用しました。ジフテリアもジフテリア菌が出した毒素によっておこる病気。ジフテリア菌は1883年に既に発見されています。応用しない手はないですよね。

1890年(明治23年)、結果はすぐに出ました。北里は同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表。ところが、記念すべき第1回ノーベル生理学・医学賞(1901年)を受賞したのは、研究を主導していた北里ではなく、ベーリングの方でした。

北里が受賞できなかったのは、①ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、②ノーベル委員会や選考に当たったカロリンスカ研究所が北里は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したと見なしたこと、③賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因としてあげられてはいます。

人種差別を理由とする明確な証拠は無いとされていますが、それは黄色人種を別に考えるのが当たり前で、差別している感覚すら無かったから見つからないのでしょう。「黄色人種も同じ人間なのかも」と世界が気づいたのは、日露戦争での日本の勝利(1905年)がきっかけだと思われます。

 

業績3:ペスト菌の発見

北里は1892年(明治25年)にドイツから帰国。福澤諭吉の援助により、私立伝染病研究所が設立され、北里は初代所長に就任。研究所はすぐに国に寄付され、内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となりました。

1894年(明治27年)ペストが蔓延していた香港に、政府より派遣されました。ここで、ペストの病原菌であるペスト菌を発見しました。ペストは人類の歴史を通じて最も致死率の高かった伝染病ですから、これまた大変な快挙です。

ですが、ちょうど同時期に同じ香港で、パスツール研究所の細菌学者イェルサンがペスト菌を全く独立に発見していました。残念ながら、ペストとペスト菌を結び付けて考えたのはイェルサンが先でした。

 

業績4:北里研究所の設立

1914年(大正3年)に、国立伝染病研究所に対する政府の措置に反発した北里は所長を辞職。私費を投じて私立北里研究所(現・社団法人北里研究所。北里大学の母体)を設立。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組みました。

 

業績5:慶應義塾大学医学部を創設

1917年(大正6年)、福澤諭吉による長年の多大な恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設。

北里は初代医学部長、付属病院長に就任。医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力しました。

偉業の数が多すぎてヤバイね
天草ゴロー
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北里柴三郎のエピソード

北里柴三郎は病気の研究と医学の発展にしか興味が無かった人なのかもしれません。常に、真面目に、誠実に、そして猛烈に医学に取り組んでいたことが分かるエピソードをご紹介します。

 

エピソード1:門下生からカミナリ先生と呼ばれる

緒方正規は北里とは同郷で、東京医学校の同期生でした。しかしながら、北里は教授の論文に口出しばかりしていたので、何度も留年。その間に緒方は順調にキャリアを積み、東大教授兼衛生局試験所所長となっていました。北里がドイツベルリン大学へ留学できたのは緒方の計らいによるものです。

ドイツ留学は7年間。その間に、緒方は「脚気の原因は脚気菌によるもの」とする説を主張していました。帰国した北里はこれを批判したため、東大医学部と対立。日本での活躍の場が無くなってしまいました。

脚気は今ではビタミンB1欠乏が原因であることが分かっています。最悪の場合、心不全で亡くなる可能性もありますから、緒方の説の間違いを指摘せずにはいられなかったのでしょう。おそらく、やんわりと話を持って行けば、こじれることは無かったのでしょうが、ストレートに言ってしまったんでしょうね。

門下生からは「ドンネル(かみなり)先生」と呼ばれていました。

 

エピソード2:大恩人の福澤諭吉

東大医学部との対立で行き場を失った北里に救いの手を差し伸べたのが福澤諭吉でした。彼の援助で私立伝染病研究所が設立され、北里が初代所長に就任したのは前述のとおりです。

この伝染病研究所が移転した時、病気の伝染を危惧した移転先の住民から反対運動が起こりました。この時、諭吉は次男・捨次郎の新居を研究所の隣に作って、危険でないことを示しました。

 

 

まとめ

  • 北里柴三郎は、熊本の古城医学所病院でオランダの軍医マンスフェルトと出会い、医学を志す。
  • その後、東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学し「医者の使命は病気を予防することにある」と確信。予防医学を生涯の仕事とすることを決意。「医道論」を執筆。
  • さらに、ドイツベルリン大学に留学。コッホに師事し、ここで目覚ましい業績を上げることになる。
  • 北里は破傷風菌純粋培養法に世界で初めて成功。破傷風菌抗毒素を発見。そして血清療法を開発。
  • 血清療法をジフテリア菌にも応用。成果を論文で発表するが、第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞したのは協力者のベーリングだけだった。
  • ドイツから帰国した北里は、ペストが蔓延していた香港に政府より派遣された。ここで、ペスト菌を発見した。
  • 政府と意見が合わず、それまで所属していた国立伝染病研究所の所長職を辞し、私立北里研究所を設立。
  • 福澤諭吉による長年の多大な恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設。
  • 緒方正規は同郷で、東京医学校の同期生だった。緒方の口添えでドイツへ留学することができた北里だったが、帰国後、緒方が主張していた脚気菌説を批判。東大医学部と対立。
  • 門下生には「ドンネル(かみなり)先生」と呼ばれた北里の、真っすぐで激しい性格が災いした。
  • 東大医学部との対立で行き場を失った北里に福澤諭吉は資金援助し、私立伝染病研究所を設立した。
  • 伝染病研究所が移転した時、住民運動が起こったが、福澤諭吉は次男を研究所の隣に住まわせ、危険でないことを示した。

江戸時代の生まれなのに、開国して余り経たないうちに歴史的快挙を実現。北里柴三郎は、ひょっとしたら明治になって初めて世界が注目した日本人かもしれません。

援助を惜しまない福澤諭吉も素敵ですね。ますます一万円札が欲しくなりました(笑)。

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