日本のいたるところで発見されている古墳。前方後円墳だけで、5000基前後発見されています。まだ、発見されていない古墳もある筈ですから、おそらく数十万基あるのではないかとも言われています。
古墳とは、一言でいえば昔の偉い人のお墓。とても大きな物もありますから、権力者のお墓であることは間違いないですね。
まずは古墳の意味について考え、内容や種類(形)について見ていくことにしましょう。
古墳の持つ意味ってなんなの?
結論から言うと、リーダーや王を尊敬の念を持って埋葬することですね。
またこれまで同様に、守ってほしいとか、体は滅んでも魂や心までは滅びずずっといてほしいという想いも込められています。
そもそも古墳が生まれた歴史的背景
農業が始まって、人々が共同生活するようになると、組織的な活動のためにリーダーを決める必要が出てきます。優れたリーダーが選ばれると、集落は繁栄し、リーダーは感謝と尊敬の念を一身に集めたことでしょう。
しかし、いくら優れたリーダーでも、いつかは亡くなります。リーダーへの敬意が大きいほど、弔いの方法も特別なものになっていったはずです。そこには、いつまでも死なないで欲しいとか、死んでからも今までと同じように守って欲しいという気持ちも込められていったはずです。
それは、洋の東西を問わず、どこでも同じではないかと思います。
海外でいうピラミッドに近い
大きな墳墓として世界で一番有名なのは、エジプトのピラミッドではないでしょうか。いつでも生き返られるように王の遺体をミイラとして残し、大きな墳墓の中に安置しました。
秦の始皇帝陵もとても大きな墳墓です。永遠の命を求め続けた秦の始皇帝は、自分の権威をいつまでも示すために、大きな陵墓を築かせたのかもしれません。
日本の古墳も少なからず同じような事情で造られたと考えて間違いないでしょう。
ただ、海外の場合はお墓だけではなく、城塞(軍事施設)や都市の発展の方にも注力しています。日本の場合は古墳造りにのみ注力し、その大きさや数の点では群を抜いています。
その国民性は現在まで引き継がれているような気がします。
中国文化が古墳を終わらせた
ヨーロッパも、もともとは日本と同じように墓づくりにのみ熱心な傾向があったようです。それを終わらせたのはローマ支配の拡大でした。
同様に、日本の古墳時代を終わらせたのは中国文化の影響です。646年に発布された改新の詔には薄葬令が含まれていました。大きな墓造りを制限するもので、これによって墳墓造りに傾けられていたエネルギーが、平城京のような都市建設や全国規模の律令体制構築に注がれるようになったのでした。
中国のような中央集権国家になるという目標は、古墳造りよりも意味のあることとなったわけですね。
古墳の種類はどんなのがある??
ここからは、古墳の種類を見ていきましょう。古墳には、いろんな形のものがあります。
- 円墳
- 方墳
- 前方後円墳
- 帆立貝形墳
- 八角墳
- 上円下方墳
古墳は大体6種類に分類することができます!(他にもあるんだけど、大体これらがメイン)
まずは円墳から見ていきましょう。
円墳
底面が円形のもの。最も多く築かれていて、北海道と沖縄を除く地域に見られます。埼玉丸墓山古墳(埼玉県行田市)が直径105mで最大とされてきましたが、近年の航空3次元測量調査の結果、富雄丸山古墳(奈良県奈良市)が直径110mで最大となっています。
方墳
底面が方形のもの。円墳の次に多く見られます。枡山古墳(奈良県橿原市)が辺長85m、高さ15mで最大。
前方後円墳
円墳の前方に方墳がくっついた形で、上空から見ると鍵穴のように見えます。北海道、青森県、秋田県、沖縄県以外の43都府県で発見されています。なんと、対馬、壱岐、隠岐などの離島や朝鮮南部にあるそうです。
大仙陵古墳(大阪府堺市)は最大の前方後円墳、箸墓古墳(奈良県桜井市)は最古の前方後円墳、角塚古墳(岩手県奥州市)は最北端の前方後円墳、光州月桂洞1号墳(韓国光州広域市)は朝鮮の前方後円墳、丸山古墳(奈良県橿原市)は大王墓として最後の前方後円墳として有名。
帆立貝形墳
前方後円墳の方墳が短くなった形で、上空から見ると帆立貝の形に見えます。関東地方から九州地方まで、広い範囲で発見されています。乙女山古墳(奈良県北葛城郡)が有名です。
前方後円墳が造れない中級クラスの首長の墓ではないかと考えられています。つまり、大和政権の造墓規制があったのでしょう。
八角墳
正八角形に造られた古墳。八角形は天下八方の支配者を示しており、道教など古代中国思想の影響が伺えます。古墳時代の終末期(7世紀中葉以降)に造られており、誰の陵墓か分かっているものが多くあります。
京都市の御廟野古墳(現・天智天皇陵)、奈良県高市郡明日香村の野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵)などが有名。
上円下方墳
方墳の上に円墳が乗っかっている形。
この形の古墳は、石のカラト古墳(奈良県と京都府の県境)、清水柳北1号墳(静岡県沼津市)、武蔵府中熊野神社古墳(東京都府中市)、天文台構内古墳(東京都三鷹市)、野地久保古墳(福島県白河市)、山王塚古墳(埼玉県川越市)の6例です。
実は、明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵、昭和天皇の武蔵野陵も上円下方墳の形になっています。これは八角墳の天智天皇陵や天武・持統合葬陵が以前は上円下方墳だと思われていたため、それにならったものです。近年の調査で古代の天皇陵は八角墳であることが分かりました。
その他
他に、前方後方墳、双円墳、双方墳、双方中円墳、双方中方墳などがあります。
そもそも古墳とはどんなもの?
古墳について具体的な内容を見てみましょう。
どの地方に多いの?
古墳は日本中で発見されていますが、都道府県別で多いのは兵庫県が1万7647基と最多。次に鳥取(1万2546基)、京都(1万1556基)、岡山(1万1038基)、千葉(1万494基)と続いています(2018/5/21:朝日新聞)。
北は北海道(江別市の江別古墳群)から南は沖縄(宜野湾市の宇地泊西原丘陵古墳群)まで全ての都道府県で発見されていて、日本全体では16万基発見されています。これは既に発見された古墳の数ですから、未発見の物も加えると、数十万基に上るのではないかと言われています。
いつ頃、造られたの?
3世紀半ばから7世紀頃までということになっています。放射性炭素年代測定のような科学的手法も用いられていますが、その解釈は意見が分かれるようで確定ではありません。
東北地方北部や北海道には7世紀~10世紀に造られたものもあり、末期古墳とか蝦夷塚と呼ばれています。
誰のお墓なの?
天皇、貴族、地方豪族など、身分の高い人を葬ったものと考えられます。一部、天智天皇陵(御廟野古墳)や天武・持統合葬陵(野口王墓古墳)など、誰のお墓か分かっているものもありますが、ほとんどが分かっていません。
土盛りをしたり堀を巡らしたりという土木技術を駆使していること、長さ数百メートル高さ数十メートルという規模の物もあることから、多くの人を駆り出せるだけの権力を持っていなければなりません。また、鏡,玉,剣,武具,馬具などの副葬品が見つかる場合があること、多くの埴輪も一緒に出土することがあることなどから、それなりの財力というか富の蓄積が無ければできません。
大和政権の組織がしっかりしてくると、おそらく造墓規制のようなものができて、身分ごとに大きさなどが決められたのではないかとも考えられます。
まとめ
- 人々が集落で共同生活をするようになって、その優れたリーダーが亡くなった時に、敬意や感謝を込めて特別な埋葬法を行った。それが古墳の始まりと考えられる。
- 海外でもピラミッドや始皇帝陵のように大きな墳墓は造られた。日本との大きな違いは、墳墓造りだけではなく、城塞や都市の発展にも力を注いだということ。
- 大化の改新で、日本も中国のような中央主権国家を目指すことになった。大きな古墳の建設は禁止され、平城京のような都市づくりや全国規模の律令体制構築に注力するようになった。
- 都道府県別で古墳が多いのは兵庫県が最多。次に鳥取、京都、岡山、千葉の順。47都道府県全てで発見されている。日本全体で16万基ある。
- 3世紀半ばから7世紀頃まで造られた。東北地方北部や北海道では7世紀~10世紀に造られたものもある。
- 天皇、貴族、地方豪族など、身分の高い人を葬ったものと考えられる。天智天皇陵や天武・持統合葬陵など、誰のお墓か分かっているものもあるが、ほとんどが分かっていない。
- 古墳の種類は、その形から円墳、方墳、前方後方墳、帆立貝形古墳、八角墳、上円下方墳、前方後方墳、双円墳、双方墳、双方中円墳、双方中方墳などがある。
古墳が日本中にこんなにたくさんあるとは知りませんでした。大阪府堺市や奈良県桜井市など有名な古墳がある所には、大きな古墳がゴロゴロしています。グーグルマップの航空写真で見ることができますが、町全体が墓地のようです。
狭い国土で大きな墳墓をあちこちに造り続けたら、住むところが無くなりそうです。薄葬令発布の裏側には、そんな実情もあったのではないかと思ったりしました。
現代でも、お墓を守る人がいなくなるとかで、一人一人のスペースが小さな共同墓地が売り出され始めています。お墓をどうするかは、古くて新しい問題ですね。
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