戦国時代

お椀モチーフ?黒田官兵衛の兜ってなんであんな形してるの?

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戦国時代、武士の必需品ともいえる「兜」ですが、それぞれ個性的ですよね!加藤清正の骸骨風味な兜とか。笑 変わったところだと、藤堂高虎のまるで「とんぼ」のような兜とか。

今回は、お椀型の黒田官兵衛の「兜」の謎を解明してまいりたいと思います!

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黒田官兵衛の兜はお椀モチーフ?

まるで「お椀」をひっくり返したような形ですよね?でもなぜお椀なのでしょうか?

この珍しい兜は、「銀白檀塗合子形兜」と言って、実は妻の父親、つまり岳父からの婚約祝いとして贈られた兜だったのです!内ばちは、六枚張(はり)で、外ばちは上に薄い鉄板で伏せた腕状のものでした。さらに、白塗り技法という外ばちに銀はくを施し、その上に透きうるしというものをかけることで、艶のある赤褐色の兜を表現しました。

そもそも、銀白檀塗合子形兜の「合子」とは、ふた付きのお椀という意味があり、さらに、「合」の字には、連れ沿うという意味もあるので、岳父である櫛橋伊定は、夫婦一対となり添い遂げてほしいとの願いを込めて贈ったのだと思います。

贈り物で圧力をかけたわけではありませんが 笑 官兵衛は、戦国武将には珍しく側室を持たず、正室の光姫ただ一人を妻としたのです。戦いに強いだけじゃなく、愛妻家でもあった官兵衛でした。

岳父・伊定がどこまで知っていたかはしりませんが、お椀には「敵を飲み干す」と意味もあるのです!その後、秀吉の右腕として、敵を飲み干すほどの活躍をした官兵衛。様々な戦略で戦に勝利した、知将・官兵衛にふさわしい形の兜だと思います。

お椀をひっくり返した形だから、帽子みたく片手でポンと着けたりできたのではと思いますね。見た目のおしゃれさだけでなく、実用性もあったのではと推測します。

 

 

兜の現在の行方はどこへ?

突然ですがみなさん、現在の銀白檀塗合子形兜の行方って気になりませんか?黒田藩は、現在の福岡県あたりを統治していました。なのに保存されているのは、なんと岩手県盛岡市の「もりおか歴史文化館」なのです。

背景には、「黒田騒動」という、江戸時代初期の「加賀騒動」、「伊達騒動」ともに、三大お家騒動があったのです!でも、兜とお家騒動。全然関係ないじゃんと思うかもしれませんが、大いに関係があるのですよ。

三代目ともなると、必ずお家断絶だったり、曲者が跡取りだったり、なぜかこじれますよね。笑 ここからの登場人物は、官兵衛の孫・忠之です。

忠之は、官兵衛の長男・長政の長男として生まれますが、嫡男としての器ではなく、粗暴な性格だったため、長政は三男の長興を嫡男にしようとします。忠之に対しては、一万両与える代わりに関西で商人になるか、僧侶になるか、究極の二者択一を迫ります。忠之の性格に難があるにしても、長政厳しいですね。苦笑

そこで、栗山大膳という男が登場!この大膳が「兜」の行方の鍵を握っていました!栗山家は黒田藩の家臣の家系で、大膳の父・備後が、死に際の官兵衛から「長政をくれぐれも頼む」と遺言をいい渡され、さらに兜を託されたのです。

時は流れ、備後の死後、息子の大膳が家督を継いでおり、大切に兜を保管していたのです。そのような時、長政が嫡男を三男・長興にすると言い出します。嫡男である長男の忠之は商人か僧侶。家臣から見てもいたたまれなく、名のある家の嫡男が廃嫡され、身を落とすなど、武士にとって屈辱のなにものでもありません。

そこで、大胆な提案をする大膳!「屈辱を受けるくらいなら、若殿切腹を!」となんと切腹を勧めます!さらには、600石以上2000万石以上の藩士の嫡子たちに、忠之の廃嫡を遂行するならば、全員切腹するまでの「血判状」まで集めます。大膳の行動力恐るべしです。

ここまでやられては、長政も「わかった。嫡男は忠之のままで。だからみんな切腹は止めて」となったわけです。苦笑

まもなく、黒田家の行く末を憂いで、長政は大膳を忠之の後見役に任命し、この世を去ります。まもなく、大膳は私生活が緩んでいた忠之に「深酒はダメ」とか「早寝早起きをしなさい」など、まるで親が子供を注意するような「諌書」を送ります。笑

精神的に大人だったら、笑ってすませて「口うるさいけどいい奴だな大膳」となるところですが、忠之は子供のまま大人になってしまったようで、「おのれ、大膳!わしを馬鹿にしおって!」ってムキになるのですね。これが、黒田騒動の発端となりました。

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怒りの大膳!大切な宝を奪還する!

大膳及び、祖父や父の代からいる家老たちを遠ざけ始める忠之。そんなある日、忠之は大膳に「祖父や父の法事の時に、霊前に飾って故人を忍びたいので、黒田家の家宝の兜を返してほしい」と言ってきました。

大事な法事ならしょうがないと、大膳は快く忠之に兜を返却したのです。ここが問題でした。なんと、忠之は法事に使うどころか、兜を自分が寵愛する仕置家老の倉八十太夫に与えてしまったのです!

大膳激おこです。笑 「話が違うじゃないか!」と。フットワークが軽い大膳は、すぐさま倉八家を襲撃して、兜の奪還に成功します!

同じ家老でも、大膳は家柄家老といって「家」に仕える家老に対して、十太夫は仕置家老という藩主「個人」に仕える家老でした。忠之にとっては、重々しい家柄家老より、身の回りの世話をする仕置家老の方が親しみやすかったのです。

忠之は、段々手の付けられない藩主になっていきます。世の中は、徳川三代将軍・家光の治世。とにかく節約と、軍事面も軍縮を強いられていました。にもかかわらず、忠之は、十太夫を側近任命し、豪華な鳳凰丸という船を建造させ、足軽を200人新しく召し抱える行動に出ます。

大膳の忠告も聞き入れず、大膳暗殺を考える始末の忠之。藩の行く末を心配した大膳は、苦渋の決断で大胆な行動に出ます。苦笑 「このままでは、黒田藩の失政が幕府や他藩に知られてしまう。なんとかして未然に防ぎたい」そこで大膳、幕府に「我が主君は幕府に対して謀反の動きあり」と、こともあろうに、密告したのです!

これに慌てた、十太夫及び側近たち。「大膳の言っていることは嘘だ!大膳は乱心者である」と藩側は主張。

直々に将軍・家光が裁きに入ります!結果、忠之に謀反の疑いはない。家光も忠之が謀反を企てるほどの器ではないことはわかっていたと思いますね。一方、大膳は騒動の責任ととって、南部藩(現在の岩手県盛岡市)預かりとなり、大膳の敵ともいえる十太夫も、高野山へ追放となります。

南部藩預かりとなった大膳ですが、ちゃっかり兜を持ち込んでいました。笑 人が憎しみ合うのは良くないですが、唯一血を流さなかった騒動が黒田騒動なのです。もう奇跡ですよね。その後、大膳は盛岡の地で亡くなり、そのまま南部藩へ兜は寄贈されました。

遠く離れた土地での、流人の生活でさぞ辛く肩身の狭い思いをしているのではと思いきや、結構地元の人々から慕われ、大膳穏やかな晩年を過ごしたそうです。笑

大膳の嫡男の利周は、黒田藩から「もうそろそろ戻って来て」言われますが、「栗山家が遠く南部藩に流されて、今さら戻れってなにをいっているのだ!」と断固拒否。以後、子孫たちはずっと盛岡で暮らし続けたそうです。かっこいいです利周。笑 まったくです。手のひら返しもいいところですよね。

現代では、争いどころか、平和な時代となりゆるキャラも誕生!大分県のゆるキャラで「あ!官兵衛」というお椀の形をモチーフにしていて、官兵衛の「兵衛」を舌に例え、ベロを出しています。笑 なんともかわいいです。

 

 

まとめ

  • お椀の形をした兜は正式名を「銀白檀塗合子形兜」といった。
  • 兜は、妻の父から婚約祝いで貰った物で、「夫婦一対となり末永く暮らしてほしい」との親心がこめられていた。
  • 黒田騒動という、お家騒動によって、兜は黒田藩から栗山大膳という南部藩に流罪された家老が、持ち込んでそのまま南部藩へ寄贈されていた。
  • お椀モチーフの「あ!官兵衛」というゆるキャラが誕生していた。

たかが兜されど兜。官兵衛の兜がこのようなドラマチックな運命をたどっていたとは、私自身も思いもしませんでした。博物館などの展示品には隠された歴史があるかもしれません。いにしえに思いをめぐらせながら鑑賞すると違った面白さが見えてくるかもしれません!

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