戦国時代

黒田官兵衛の子孫について。現在も子孫はいるの?

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V6の岡田准一さん主演で大河ドラマにもなった「黒田官兵衛」ですが、子孫については案外知らない方が多いのでは??今回は、黒田官兵衛の子孫についてご紹介!

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黒田官兵衛の子孫の現在

なんと、現在まで官兵衛の子孫が健在していました

官兵衛以降、黒田家は複数に分かれています。まずは長男・長政へと引き継がれた「黒田本家」、そして、分家として長政の三男・長興が祖となった「秋月黒田家」、長政の四男・高政が祖となった「高政流直方黒田家」、長政の孫・光之の四男・長清の「長清流直方黒田家」、最後は、黒田本家13代当主の長成(ながしげ)の異母弟・長和(ながとし)を祖とした「男爵家直方黒田家」になります。

華麗なる一族ですよね。笑 そして、平成の世まで続いているのは、黒田本家と、秋月黒田家、男爵家直方黒田家(戦後爵位は廃止されたので、黒田家分家)の三つと判明しました!

 

 

黒田官兵衛の息子~現在の子孫までのストーリー

初代黒田藩主!実は命拾いしていた?

まずは、官兵衛の長男・黒田長政から。長政は、永禄11年に誕生しており、幼名は松寿丸といいます。武士の間で演技がいいと流行ったらしいですね。確かに松と寿、1文字1文字、縁起がいいですよね。

そんな長政ですが、順風満々と思いきや、しょっぱなから苦難が訪れます。4歳頃、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の人質になってしまうのです。親元を離れ、人質になるって本当に心細かったと思います。

あの家康も幼少時に人質になっていますよね。2人に共通するのは「思慮深い」ところでしょうか。子供の頃から苦労を強いられると、子供らしい無邪気さはなく、大人の顔色を伺って、考える能力が自然と身につくのだろうと思いましたね。長政については、後年父の官兵衛から「お前はちと考え過ぎてチャンスを逃している」などと注意されるほどでした。苦笑

長政に最大のピンチが訪れます。父・官兵衛と仲が良かった荒木村重は、1回織田信長に降伏していたのですが、突如反旗をひるがえします!そこで、官兵衛が「村重考え直せよ」と説得へ向かうのですが、逆に村重に拘束されてしまいます。笑

当時、官兵衛は信長に仕える身でした。以前帰還しない官兵衛に、苛立ちを募らせ信長。「もしや、官兵衛!村重に寝返ったか!」と思うわけです。そこで、信長は暴挙に出ます!なんと、まだ子供だった長政に処刑命令を出すのです!しかし、官兵衛の盟友・竹中半兵衛が機転を利かせて、家臣の家に長政を匿わせ、信長には「速やかに処刑しました」と嘘の報告をしたのですよ!半兵衛できる男です。笑

半兵衛の機転が利かなかったら、黒田家の繁栄もなかったかもしれないので、黒田家半兵衛に頭が上がらないですね。まあ悪いのは村重ですが。苦笑

ともあれ、命拾いをした長政は、信長が明智光秀に本能寺の変で滅ぼされると、親子そろって秀吉に仕え始めます!成長した長政は、秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」に参加し、功績を上げると450石の領地与えられます!

官兵衛は父として感無量だったと思います。危うく死にかけた我が子が石高を与えられる武将に成長するとは!

立派な武将へと成長した長政。天正17年、21歳となった長政は、隠居した官兵衛から家督を譲り受けます。

その後、長政は秀吉が推し進めた朝鮮出兵に参加します。そこで「虎退治」の逸話が誕生します。日本軍と明軍(現在の中国)と戦闘繰り広げていましたが、後半休戦状態に入っていまいます。肝心の大将の秀吉は、側室淀殿が男子を出産(後の秀頼)したため我が子見たさにさっさと帰国。笑 朝鮮に残った長政も暇になったので、「虎狩り」でもしようかとなったわけです。笑

山中で虎を探していた長政に、一頭の虎が長政目がけて襲い掛かってきました!周りにいた家臣たちはおろおろするばかりで、「殿!早くお討ち下され」とかいうのですが、

長政一向に持っていた猟銃を討つことはなく、悠長に構えたままなのです。

ようやく、長政の目の前に迫ったとき、虎の眉間に銃が命中!無事虎狩りは成功したのです。無茶というかよほど自身があったのでしょうか長政。笑

虎は滋養強壮に効果があるとされ、討ち取った虎を塩漬けにして家康に献上していたのです。それが原因で家康が子だくさんだったり、長生きしたのかは定かではありませんが。笑

 

 

決戦の裏に隠された二人の女との出会いと別れ?

長政は、「関ケ原の戦い」に参加していました!秀吉が亡くなると、側近であった石田三成の官僚的な「文治派」と加藤清正、福島正則ら最前線で戦う「武闘派」で派閥争いが起こります。長政はどちらにも属さず、五大老の一人で虎の塩漬けを贈った家康に接近します。

秀吉亡き後、豊臣家に未来はないと悟ったのでしょうね。ここで、ちょっとした事件が!長政はもともと、秀吉の家臣であった蜂須賀小六の娘・糸姫と結婚していたのですが、突如離婚!すぐさま家康の養女・栄姫と再婚するのです!

この変わり身の早さは、女性陣からブーイングが起こるレベルですよね。というのも、長政は家康から「徳川に付くなら、わしの娘と結婚しないさい」といわば「命令」されたのですね。政略結婚といえるでしょう。もしかしたら、長政にとっては苦渋の離婚だったのかもしれません。

ここから127年に渡って、黒田家と蜂須賀家の遺恨が続き、江戸時代中頃、それぞれの子孫によって和解されたました。100年以上遺恨が続くとはなんとも悲しいですね。

 

切り込み隊長!暗躍する?

新たに、栄姫を妻とむかえた長政は、関ケ原の戦いに東軍の将として参加します。鉄砲隊を従え、西軍に勇猛果敢に挑んでいきました。その姿に「切り込み隊長」なるあだ名も。しかし長政、ただ武力があるだけではありません。父・官兵衛譲りの「知略」も備わっていました。

西軍で、自分がどちらについたらいいのか迷いあぐねていた、亡き秀吉の家臣だった「小早川秀秋」の寝返りに成功したのも、なんと長政の功績だったのです。まあ、その後の秀秋はかわいそうなもので「裏切り者」の汚名が一生つきまとうのでした。

その後、関ケ原の戦いの功績が認められ、筑前国(現在の福岡県)の国主となり、新しく城を築城。後の福岡城になるわけです。

そして、藩主となってから、博多人形や、焼き物などの伝統工芸と文化面に力を入れ、名産品として現在にまで語り継がれています!

 

祖父と父の功績が台無し!暗君ここに誕生?

ここからは、官兵衛の孫にあたる二代藩主・黒田忠之をご紹介!忠之は、祖父や父と違って「生まれながらの藩主」でした。よって、結構わがままに育つのですね。この「わがまま」さが後にとんでもない騒動を生むことに。

豊臣、徳川間の戦いである、大坂冬の陣にて、父・長政が江戸城留守居を命じられていたため、子である忠之が長政の代わりに出陣したのです。この時12歳でした!ここまでは、わがままなところもあるけど、立派な武将になりそうではって思いますよね?

しかし、忠之が21歳のとき病で長政はこの世を去ってしまいます。死期が近いと悟っていた長政は、粗暴な忠之ではなく、弟の長興(ながおき)に後を継がせようとしていました。それを、家臣の栗山大膳に「長男を差し置いてそれはなりませぬ!」と阻止されます。

長政の優しさという名の「甘さ」が出てしまったと思います。実は、徳川家でも後に同じようなことが起きていたのです。八代将軍・吉宗の後を継いだ九代将軍・家重は言語障害があり、家臣からも馬鹿にされる将軍でした。周囲からは「嫡男の家重よりも、文武両道の次男・宗武を次期将軍に」との声があがります。

だけれど、吉宗は「宗武を将軍にすることは理に反する」と、周囲の反対を押し切り、家重を将軍にしました。その後、家重は障害からか頻尿に苦しんでおり世間からは「小便公方」などと馬鹿にされ続けながら生涯を閉じます。

生まれ順が大事だということはわかりますが、私は能力があるほうを継がせるのがお互いの幸せにつながったのではと思いますね。

 

騒動勃発!家臣をも巻き込んだ対立に!

結局、忠之が二代藩主となり、長興は筑前秋月に引っ越しし、初代秋月黒田藩藩主となりました。亡き長政から忠之の後見役に任命されたのが、「栗山大膳」という人でした。大膳は真面目なので、忠之に「お酒を控えて、早寝早起き」を推奨したのです!大膳は、忠之が真人間になることを信じて期待していたのですよ。

しかし、忠之はドラ息子のままで、「なにを言うか大膳!生意気な」と反発心を持ってしまうのです。忠之の暴走が加速し、徳川幕府が質素倹約を推し進める中、藩のお金を使って、豪華船を建造させたり、200人もの足軽を採用したりしたのです!戦国の世なら当たり前だったかもしれませんが、もはや戦いはなく、徳川の平和な時代には無駄なことだったのです。

思い悩んだ大膳は、幕府に直訴するのです!「うちの殿が幕府転覆を企てております」と。慌てた忠之。すぐに「大膳の言うことは嘘でござる。大膳は乱心者である」と主張します。

結果、大膳は陸奥国の南部藩(現在の岩手県盛岡市)に飛ばされてしまいます。肝心の忠之はおとがめなしなのですよ!いくら藩主だからって不公平ですよね?そこは、やはり祖父や父の築きあげた功績のおかげだと思うのですよ。とんだお騒がせな黒田騒動ですが、ここで九州における大名権力が黒田家ではなく、次第に熊本の細川家に移っていったそうです。

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人間歳を取ると丸くなる?

黒田騒動に懲りたのか、忠之は次第に丸くなっていきます。九州・島原でキリシタンたちと幕府との間に起きた「島原の乱」で忠之は、戦いに参戦し功績を上げます!やればできるじゃん忠之。笑 さらに乱の4年後には、鎖国の一環として、長崎の出島を幕府の直轄地に定め、今まで警護にあたっていた佐賀藩の鍋島家から交代し、新たに長崎の警備にあたることを任命されるのです。なんだかんだ幕府からは信頼されていたのですね忠之は。馬鹿な子ほどかわいい的な。笑

俄然張り切る忠之!出島を監視する警護屋敷や、港を作り、博多商人などを、長崎と博多を行き来できるようにしたのですね。こうした忠之の努力により、藩の江戸への参勤交代の回数が他藩より少なくなり、滞在期間の短くなるなどの優遇を受けます。黒田騒動があったのに、幕府は太っ腹だなと思いましたね。島原の乱で忠之ががんばったというもあるでしょうが。

それにしても忠之、以前も豪華船を作ったりしましたが、海に関することが好きみたいですね。笑 そんな忠之ですが、53歳で生涯を閉じます。あまり長きじゃありませんでしたね。でも波乱万丈というか、短くも濃い人生であることは間違いありません!

 

藩の財政難を立て直したのは、とんびから生まれた鷹だった?

二代藩主の忠之が亡くなると、嫡男の光之が三代藩主に就任します。しかしそのとき黒田藩は財政難でかなりひっ迫した状況でした。新たに新藩主となった子の光之は、厳しい倹約令を発令します。努力の結果、少しずつ財政が上向き始めます!あの世で、さぞ官兵衛及び長政は喜んだに違いありません。

財政だけじゃなく、珍しい物も光之の代で誕生しているのですよ!日本三代銘菓の1つといわれる「鶏卵素麺」なのです!もともとポルトガルから伝来された菓子「フィオス・デ・オーヴォスが由来の菓子で、またの名を「玉子素麺」ともいわれます。藩の御用商人の大番頭だった松屋利右衛門が考案した物でした。

利右衛門から鶏卵素麺を献上された光之はメロメロに。笑 「これは美味じゃ」と喜ぶのですね。さらに、徳川4代将軍・家綱に献上されたことで全国に広まったのです。

 

歴史は繰り返す?悲しき宿命!

3代光之の代で盤石となったかに見えた黒田藩ですが、またも悲劇が!「第二の黒田騒動」が起きてしまいます!もはや呪われているとしか思えません。

以前の黒田騒動とはちょっと違うのです。第二の黒田騒動は「嫡男が廃嫡」されてしまったのです!光之の嫡男・綱之という人がいました。この綱之はかなり放蕩息子で、酒が好きで家臣たちと毎夜宴会三昧で、粗暴な性格でした。父である光之は、「このままでは、黒田家はダメになってしまう」と危惧するのですね。

光之は考えます。「父のときも後継ぎ問題が起こった。祖父の長政は父を廃嫡しなかったから大騒動になった。ここは大きな決断を下さねば」と。光之は決断します。綱之を廃嫡して、三男の綱政を新たな嫡男とします。

廃嫡され、剃髪とちっ居を命じられた綱之は、仏門に入り寺で30年余りを過ごすことになります。なんだがかわいそうな気もしますね。

一方、光之の隠居に伴い、綱政が4代藩主になります。けれども綱政は、父を支えてきた側近たちを全部排除して、独裁政治を始めてしまうのです。綱之を廃嫡したものの、綱政も曲者だったようです。ここは、綱政の誤算でしたね。

今度は、ご隠居となった光之と藩主・綱政との戦いになりました。綱政は、父の聞く耳を持たないので、勝手に財政改革を始め、藩札を発行しますが、かえって米の値段が高騰。結局失敗に終わってしまうのです。

その後、父の光之は80歳まで生きて結構長生きだったのに対して、綱政はストレスからか53歳で亡くなってしまいます。みなさん、「53」という字に見覚えはありませんか?そうです。2代藩主の忠之が亡くなったのが「53歳」!奇しくも、同じ年齢で亡くなっているのです。呪われた「黒田騒動」といえますね。

 

最後の直系藩主?

綱政の死後、次男の宣政が後を継ぎ、5代藩主となります。宣政には兄の吉之がいましたが、29歳という若さで父より先に亡くなってしまい、宣政が藩主となったのでした。宣政も兄同様病弱で、とうとう子宝に恵まれませんでした。ここに、直系の黒田家は途絶えてしまうのです。養子がむかえられ、従弟の継高という人が6代藩主になりました。

 

現在の子孫は?なんと東京生まれの会社社長だった!

直系が途絶えた後、黒田本家は何人か養子をむかえたりしました。現在は、16代目の当主の黒田長高さんという方。長高さん実は不動産会社を立ち上げ社長をされているのです!やはり名門は違いますね。お家は、江戸時代に参勤交代の際に使用していた、黒田家中屋敷にあるそうです。よって長高さんは福岡出身ではなく、東京出身なのです。

会社の名前も先祖にちなんで「如水興産株式会社」なのですね。「如水」は官兵衛が主家してから名乗った名前ですね。先祖を大切に姿がうかがえます!

 

 

まとめ

  • 官兵衛の子・長政は初代藩主になり、関ケ原の戦いで功績を上げる一方で、政略結婚で、家康の養女と再婚していた。
  • 2代藩主・忠之は暗君だったが、後年は島原の乱で活躍するなど、ちょっとマシになっていた。
  • 代藩主・光之は、父・忠之に比べ優秀で、財政難の藩を立て直した。
  • 4代藩主・綱政は「第二の黒田騒動」で兄が廃嫡となり藩主になったので、父との関係は良好と思いきや不仲で、父からの時代の家臣を一新。独自の政策をとるも失敗に終わり、再び藩は窮地になる。
  • 5代藩主・宣政は、病弱で子宝に恵まれかったため、従弟にあたる継高を養子にむかえたことで、官兵衛からの直系の子孫は途絶えてしまう。
  • 現在は、16代目の当主で、東京在住不動産会社を経営し社長に就任しており、会社名も「如水興産株式会社」と官兵衛の出家後の名前を用いていた。

それぞれ個性がある子孫たちですが、2度のお家騒動を乗り切れたのは官兵衛や長政の功績が大きいといえますね。ちなみに、私の先祖は伊達政宗の槍持ちをしていたらしく、昭和の始めまで地主だったみたいですが、曽祖父が友人の借金の保証人などになって、土地などを全部売ってしまって一文無しに。今は子孫みんなこぢんまりと生きております。笑

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