戦国時代

前田慶次の最期は?石田三成とはどんな関係だったのだろう?

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ご存知でしょうか?漫画・小説・ゲームなどで近年になって大注目の前田慶次のことを。

実は前田慶次の実情は、資料が少なく実在の人物ではないとする説も過去にはあったそうなんです。言い伝わっている逸話にも創作された部分が多いと言われています。

そんな曖昧な情報の中で、気になる噂を耳にしました。

それは「前田慶次は石田三成の息子を養子として育てた」というもの。んんん?前田慶次と石田三成に繋がりがあった?かたや浪人上がりの戦国の傾奇者。かたや19万石の大大名。身分では近しくもない二人。そこにどんな関りがあったのか気になるところです。

戦国一の傾奇者・機知と豪胆に優れていて、文化人としても名を知られた前田慶次。家康が恐れた男・世紀の奸臣・人望薄い大名などと悪評高い石田三成。もし石田三成の息子を前田慶次が養育していたとしたら、慶次の死後、その子どもはどうなったのでしょうか?

ちょっと気になるこの二人の関係、少しばかり調べてみることにしました。

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前田慶次の生きざまを見よ!

前田慶次のマジメ?な話

まずは、謎の多い前田慶次がどんな人生を歩んだのか、簡単に見ていきたいと思います。

名前は慶次・慶次郎が有名ですが他にも呼び名は多く、武将として語られる時には前田利益とされることが多いようです。

生年も実親もはっきりしていないのですが、加賀の前田家・前田利久の家に養子に入ったことは確かなようです。戦国武将として有名な前田利家は叔父にあたります。

武将としては、義父・利久のもとで働き、その後、前田利家に仕えましたが仲たがいして、加賀国を出て浪人生活を送っています。その時にどういった経緯があったか不明ですが、上杉景勝のもとで仕官しています。

関ケ原の戦いの折には「奥羽における東西合戦」と言われる長谷堂城の戦いにあたっており、西軍敗戦に伴って上杉領が米沢に減俸になり移る時にもついていったそうです。

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前田慶次は困ったちゃん

前田慶次と言えば有名なのは傾奇者だったということ。

派手な身なりと奇矯なふるまい、時には乱暴狼藉もやっちゃう鼻つまみ者。

それが傾奇者と言われる人たちでした。

ですが、前田慶次の場合、強きをくじき弱きを助ける人柄であったと伝わっています。

まあ、いたずらは多い困った人だったようではあるのですが。

友だちに一人いると楽しいけれど、家族は大変。そんな感じでしょうか。

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派手で知られた前田慶次の死にざま

前田慶次は晩年を米沢で過ごしました。上杉氏に従って米沢近郊の堂森という土地で隠遁生活を送り、そこで亡くなったそうです。

亡くなるまでは静かな暮らしの中で和歌や連歌を詠んだりと自由に過ごしていたと言います。武将としてではなく、文化人として最期を迎えたといった感じでしょうか。意外にも静かな晩年です。

「昔はワシもやんちゃじゃった」などと思っていたのだったりして。

死亡した年は資料によって諸説あるのですが、70代前半までは生きていたそうです。戦国時代の人としては長生きだったのではないでしょうか。

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奸臣と言われる石田三成の素顔は?

石田三成が歩んだ苦労道!

では、石田三成ってどんな人だったか、簡単におさらいします。

産まれは1560年、今の滋賀県にあたる近江の国です。

浅井家に仕える土豪の家の産まれで、浅井家滅亡後は豊臣秀吉に仕えています。豊臣関白時代の五奉行の一人として活躍しました。その豊臣秀吉の死後、徳川家康との確執から一時、隠居させられます。

ですがそのまま黙ってはいませんでした。

徳川家康が会津で戦をおこそうとしている隙に三成は奉行へ返り咲きます。豊臣家をないがしろにする家康を倒すため、豊臣家にゆかりのある武将と連携して兵を起こしたのです。

そこから数々の戦いを経て、最終的に関ケ原の合戦でとらえられ処刑されることになります。

享年41歳でした。

処刑された石田三成。なのにどうして家族は!?

戦国時代、攻め落とされた武将は一族すべて命を絶たれることが多かったようです。復讐されることがないように、先手を打ったのですね。

では石田三成の家族はどうなったのか、見てみました。

石田三成の妻・皎月院は、関ケ原の合戦で三成の身内とともに死亡したとする説と、逃げ延びて会津に下ったという説もあるようで確実な話は分かっていません。

三成の子どもたち、3男3女は全員生き延びています。

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  • 長男・徳川家康に助命され出家しています。
  • 次男・津軽氏に匿われ、後に家老職にまでなりました。
  • 三男・徳川家康に助命され出家しています。
  • 長女・石田家家臣だった夫・山田勝重が松平忠輝のもとへ仕えるのに同行。
  • 次女・蒲生家家臣の岡重政の妻であり、孫娘は徳川家光の正室になっています。
  • 三女・津軽に逃れて津軽第2代藩主・津軽信枚に嫁いでいます。

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父である三成が刑死しても無事だった子どもたちは、出家して長生きしたり、徳川家に仕えたりと名前が残るような生き方をしていたようです。戦国の常識からはずれ生き延びることが出来た子供たち。

徳川家康が寛大であることを示すための処置だったのではと言われています。

石田三成の悪評は本当?

石田三成には奸臣という悪評がありました。

秀吉の朝鮮出兵の際には虚偽の報告をしたり、惣無事令に違反したなどの理由で奸臣であるとされたのが処刑された理由だったとか。

しかし昨今では豊臣家に人生を捧げ、忠義のうちに散っていった武将という見方が出てきています。

勝てば官軍。三成に関ケ原の戦いの責任を負わせて自分を正当化しようとした徳川方が流した悪評に過ぎないという説があったりもします。

なかなか判断に困るところですが、三成の子孫が生きているということから、奸臣として扱われていたというのは何か違うのかもしれないという感想を持ちました。

私の判官びいきなのかもしれませんが。

 

 

気になる前田慶次と石田三成の関係は?

前田慶次と石田三成、運命の出会いはあった!?

前田慶次と石田三成について見てきましたが、二人の間に直接関連する資料は今のところ見つかっていないようです。

前田慶次が石田三成の息子を養子として育てたという話は、どうやらドラマの設定だったようで、三成の息子は津軽で出家しています。

また、前田慶次が書き残した『前田慶次道中日記』の中で、立派な塚を見つけて由来を聞くと「石田治部少とかいう人のものだ」と地元の人が三成のものだと言ったということが書かれています。

石田三成が祟るなどという話になっており、慶次は「死んでからも噂の種になるとは只人ではない」と感想を締めくくっています。

前田慶次と石田三成は知り合いだった?

二人が出会っていたことがあったかどうか、はっきりとはわかりませんが、三つほどはっきりした関連性が見えています。

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  • 石田三成が豊臣政権で五奉行で会った時に、前田慶次の叔父・前田利家は五大老だった。
  • 慶次が、大名が居並ぶ秀吉の宴席に忍び込んだという逸話がある。
  • 石田三成も前田慶次も上杉景勝とその家臣・直江兼続との親交がある。

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この三つの接点から、直接に顔を合わせていた可能性はかなり高いと思われます。

特に前田慶次が浪人であった時代には京都で文人との交流が盛んだったそうで、大名家への出入りもあったと言いますから、知り合いであったとしてもおかしくはないようです。

今後、歴史の研究が進めば二人が知己の関係であったという資料が出てくるかもしれませんね。

 

 

前田慶次の最期と、石田三成との関係まとめ

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・前田慶次は米沢藩で穏やかな生活の後に最期を向かえた。

・前田慶次と石田三成との関係は共通の知人は多いが、直接の交流ははっきりしていない。

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戦国時代とは綺羅、星のごとしと言われるように、英雄豪傑が居並ぶ時代でした。その中を生きた人々の中で、名前が残り、どのような生き方だったかを知られている人はごく少数です。

伝わっている逸話も実際にあったことなのかどうかさえ分からない文献もいくつもあり、まだ見つかっていない文献も多数あることでしょう。

今は小説やドラマなどのフィクションの中でしか描かれない面白いエピソードを生む人間関係も、今後の研究で新しい交流録が見つかって事実だと分かるかもしれません。

まだまだ盛り上がっていきそうな戦国時代フィーバー。

私もこれから追いかけて、新しい事実を知ることが出来るように勉強してみようかな、と思います。

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