戦国時代の武将・前田慶次。
近年、小説・マンガ・ゲームなどで有名になった人物です。
傾奇者(かぶきもの)として有名で、いつも変わった服装をしていて、いたずらもしょっちゅうだったとか。
加賀・前田家の出身で前田利家の甥にあたる人物です。
武勲だけでなく身長が190センチを超えていたとか、和歌や連歌に秀でていたとか様々な噂を持つ武将です。
そんな前田慶次、おもしろい逸話をたくさん残した人でもあるのです。
傾奇者と呼ばれた男はハンパなかった!
前田慶次が残した物語を歴史の中から掘り起こしてみます。
前田慶次の逸話(伝説)
冷水風呂事件
慶次がまだ加賀にいたころのこと。
主であり叔父である利家に、たびたび傾奇の姿勢を叱られ続けていた慶次。
ある日、「今までの態度を改めたいと思います。その気持ちを茶をもって申し述べたい」と自宅に利家を招きます。
おりしも厳寒の頃。
まずは風呂で暖まるように慶次が勧めると利家は喜んだそうです。
が、風呂へ行ってみると凍るような水風呂。
怒り心頭、慶次を連れてこいと怒りましたが、慶次はすでに逃げ去った後だったということです。
石山本願寺と織田の旗
織田信長の石山攻めの際、石山本願寺側からの猛攻に会い、退き続けている間に奇襲を受けて、織田軍は旗を奪われてしまいました。
この旗を奪い取った軍勢が「織田は降参した!」と呼ばわりながら石山へ向かっているところへ、一人の男がおどりかかり、旗を奪って大暴れして列を乱し、逃げ去ってしまいました。
跡を追おうとしている者たちを、指揮を執っていた栗津右近は
「甲冑を着た一団に平服で飛び込み、旗を奪い返すような曲者が、よもや人ではあるまい。放っておけ」
と、立ち去っていきました。
その一方、信長とはぐれ本隊を探していた佐久間信盛が平野へ向かっていたところ、道端で旗を押し頂いている男を見つけました。
「なにものか」
問うと男は「敵でも味方でもございません。ただの浪人です」と答えます。
やって来たのが佐久間信盛だと知った男が自分は前田慶次であると名乗ると、佐久間はたしかに慶次であることを見留めて、功労を信長に進言しようと言いました。
しかし慶次は国を捨てた浪人の身分を離れれば、国を継いだ利家と敵対することになる。利家と和睦する気はないので断ると、佐久間に背を向けて去っていったとか。
片方だけの鐙(あぶみ)
慶次が京の町を歩いている時、古物商の店先にいい鐙があったのですが、片方だけで使い物にならない。
鐙とは馬に乗った時に足をかけるもので、左右揃っていないと役に立ちません。
店主に聞いても片方しかないということです。
慶次があきらめてぶらぶら歩いていると、さきほどの鐙と同じデザインのものが別の古物商の店先にありました。これはさっきのものと対になるやつだ!
喜んで買い上げ、先ほどの店に戻ると店主は「もう売れてしまった」と言ったのです。
ガッカリした慶次は片方だけの鐙をぶら下げて帰っていきました。
じつは慶次が鐙を買ったのは店主が出していた支店で、店主は先回りして同じ鐙を支店の店先に置いただけでした。
慶次は騙されて、もともと片方しかなかった鐙を買ってしまったのでした。
傾奇御免状
太閤・秀吉が前田慶次の評判を聞きつけ「傾奇の姿で参れ」と呼びつけました。
慶次は髷を頭の片方に寄せて結い、秀吉の前で平伏しました。髷を秀吉の方に向けるためには顔はそっぽを向きます。
秀吉が「その髷はなんだ」と聞くと「曲がっているので髷でございます」と答えました。
はっきり言って面白くない。
ですが、この答えに秀吉は懐が広いところを見せるため馬一頭を与えました。
慶次はその場を立ち去り、すぐに正装に改めて秀吉の前に出て平伏してみせました。
傾奇者としての生きざまと、武士としての生きざまを両立させた前田慶次に、秀吉は傾奇御免状を与え、これ以降は自由にかぶいてよしと許したと言われています。
前田慶次の名言
前田慶次の名言1
いたずらの逸話が多く残る前田慶次。
ですが、利家を氷風呂に案内したのと同じ時かどうかは分かりませんが、次のような言葉を残しているそうです。
『たとえ万戸候たりとも、心にまかせぬことあれば匹夫に同じ。出奔せん』
「たとえ自分が万の民を率いているとしても、自分の自由にならないことがあるならば身分の低いただの男と同じでしかない。国を出て行く」という意味です。
そう言って自分が自由に生きられる道を求めた前田慶次。根っからの傾奇者だったのでしょうね。
前田慶次の名言2
また、名文として『無苦庵記』という慶次が晩年に書いたとされる文章の中の一部分が有名です。
『そもそもこの無苦庵は……』とはじまるこの一説、簡単に訳すとこうなるようです。
「無苦庵と自称している私は心にかける親も子もなし。
出家までしたわけではないが髪を結う難しさから頭髪は剃った。
手も動くし足も達者で、人の手を煩わせることもない。
長いこと病気もせず、お灸をすえねばならない体の不調もない。
雲がぽかりと山の峰から出るような突然のことも面白くもある。
詩や和歌に通じていないから月の満ち欠けや花の枯れることも苦とは思わない。
寝たい時には昼でも寝るし、起きたい時には夜でも起きている。
極楽浄土に行きたいと思う心もなければ地獄に落ちる罪もおかしてはいない。
生きるだけ生きたら、まあ、死ぬのだろうかなあと思う」
この力の抜けた自由な感覚が傾奇者として世を貫いてきた前田慶次のたどり着いた境地だとすると、反骨精神と共に生きるのも悪くはないのかもしれないと思えました。
また、文中で「詩歌に通じていない」と謙遜しながら、じつは京で連歌や和歌で活躍していたという事実も、カッコいいと思います。
前田慶次ってなにもの?
戦国時代、1533年か、あるいは1541年、資料によって差がありますが、天文2年から天文10年の間に生まれたらしいということです。
亡くなったのは1612年(慶長17年)。おおよそ70年ほどの年齢まで生きた人です。
産まれは織田家家臣の滝川氏とされますが、そこから前田利久のもとへ養子に入ります。
その後、叔父にあたる前田利家のもとで働きます。
60歳ごろになって利家と仲たがいして加賀を出奔。浪人生活を送ります。
その後、どういう経緯があったのか判然としませんが、上杉景勝に仕官し、付き従って会津、そこから米沢へと移ります。
そのまま米沢で隠居生活を送り亡くなった……、とする資料もあるのですが、
他の資料では大和の国で70歳になる前に亡くなったとするものもあります。
かいつまむと、生涯がよくわかっていないために伝説化した武将です。
創作物に描かれたイメージが独り歩きしている感もありますね。
前田慶次は傾奇者(かぶきもの)
前田慶次といえば「傾奇者」として名高いです。
傾奇者とはなにかというと、戦国時代末期から江戸時代初期における社会風潮として現れた困ったちゃんです。
通常とは違うということを追及して派手な服装を好み、常識を超えた振る舞いをした人たち。なかには乱暴狼藉を働く者もいたそうですが、慶次はちょっと違ったようです。
茶華に通じて和歌・連歌にも秀でていて、強きをくじき弱きを助ける、なんだかヒーロー的な話が伝わっています。
その一方で、いたずらが度を越しているというちょっと困った話も残っています。
まとめ
- 前田慶次には面白い逸話が満載!
- 詩歌にすぐれていただけあって、明言は深い
- いたずらが過ぎても叱る人がいない……。
前田慶次の有り余る逸話の中から少しだけ紹介してみました。
戦国一の傾奇者。
その呼び名に恥じない変わりっぷりは、個性あふれる戦国武将の中でも突出しているようです。
ただ変な人ではなく愛される逸話を持つ前田慶次。
資料が少なく、若い頃にはどんな功績があるかはっきりしていないそうですから、
もし興味をもたれたら研究してみるのもいいかもしれませんよ。
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