戦国時代

前田慶次は実在した?妻・身長・子孫について!

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前田慶次という名前を聞いたことがある方も多いでしょう。

歴史の授業ではおそらく名前が出てこないこの人。

近年、小説やマンガ、ゲームで一躍有名になった戦国時代の武将です。

 

この人物、使っていた名乗りが、やけに多い人で「宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎、慶次」など読みがまだ通り名と近いものもあり。

正式に武将として名乗っていた「利益、利太、利大、利貞、利卓」など利しか共通していないものがあり。

高齢になってからの浪人時代には「穀蔵院飄戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)・龍砕軒不便斎(りゅうさいけん・ふべんさい)」などと「本気ですか?」と言いたくなるような号まで使っていたようです。

よっぽどの自由人とお見受けいたします。

 

ところが、この前田慶次。

実在したのかどうかを疑問視する声も多く、まだまだ研究途上の人物なのではと思えます。

はたして実在なのか、創作なのか?

戦国一の傾奇者(かぶきもの)を見習って、自由に、かーるく見ていきたいと思います。

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だいたい、前田慶次って誰?

マンガやらなんやらで名前は耳にするけれど、そもそも前田慶次って誰?ということを、ちょっとかるく見てみますと、

戦国時代の加賀・前田家の一員で、前田利家にとっては甥にあたります。

様々な功績もあるようですが、有名なのはほとんどイタズラの話。

利家にもひどいイタズラを仕掛けて前田家から出奔します。出奔と言えば聞こえがいいのですが、怒られる前にトンズラこいたのではないかと思われる記述がちらほら……。

 

前田家を離れてからは越後で上杉景勝に仕えて、上杉家が新潟から今の会津、その後山形県の米沢に転封されると、それに従って居を移し、米沢では庵を結んで隠居生活を送ります。

上杉景勝の家臣である直江兼続(兜の前立てが『愛』の一文字の人)とはずいぶん親しかったみたいですよ。

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前田慶次は実在した?

慶次って結局、なにもの?

戦国一の傾奇者とも言われる前田慶次。

傾奇者とは普通でない身なりを好んで、変なことをする人。

とまあ、よっぽど無頼の人のようですが、茶道や和歌を好む数寄者(すきしゃ)より、もっと風流を好んで好んで変な方向に行っちゃった感がある人たち。乱暴狼藉も行う困った人たちというような意味。

武将なのに、散々な言われよう。ですが、今も残る逸話によると、慶次は強きをくじき弱きを助けた町の人気者だったとか。

はたしてそんな面白い武将は実在したのでしょうか?

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前田慶次の名が載る資料

慶次の名前が見られる文献は多いのですが、書かれた時代が、彼が生きていたとされる戦国時代ではないことが多いようです。

慶次が実在しないと言う人は、後世の創作ではないかという意見なのですね。

 

前田慶次の名前が見られる文献は『上杉将士書上』、『常山紀談』、『可観小説』、『翁草』、『加賀藩史料』、『前田慶次道中日記』など、数多いようです。

 

前田慶次が実在しないとする意見には、『信長公記』という織田信長の一代記に名前が載っていない、『上杉将士書』という上杉家に在籍した武将の略伝によるねつ造だったのでは?といった理由を挙げる人もいるようです。

少し謎が残る武将。マンガのファンの方なら「だがそれがいい!!」と叫ばれるところかもしれませんね。

 

前田慶次が実在した資料

様々に残るたくさんの資料の中で『前田慶次道中日記』という資料は前田慶次が自ら記したものだそうです。

慶長6年(1601年)、慶次が50~60代のころ京都から米沢まで旅をしたときの道中日記です。

旅の途中に見聞きした庶民の日常生活や風習などが書き残されていて、歴史資料・民俗学資料として高く評価されています。

戦国時代の人の暮らしぶりがどんなものだったか、気になりますもんね。

山形県米沢市に文化財として登録されて残っているそうです。

写本を読むことも出来るそうですよ。崩し字と古文が得意な方には面白い資料なのかもしれません。私はとても読めませんが……。

 

この資料があるなら実在の人物と思って間違いないのではないでしょうか?

実際に道を歩いていた気分になれるような道中日記をねつ造するのは難しい、というか、ねつ造するとしたら、とんだ慶次フリークですよね。

 

さらに『前田慶次道中日記』のほかにも、慶次は和歌や連歌にすぐれた人だったそうで、文学に関する資料にもいろいろと名前が残っているそうです。

それって、架空の人物だったとする方が難しいのでは……?

 

 

前田慶次の身長は?

 

前田慶次を描いた小説や漫画の中で、慶次は190センチを超える大男だという記述があるのですが、これは本当でしょうか?

 

190センチというと、現代でもかなりの高身長。ドアを通るときに身を屈めないと頭をぶつけてしまう大きさです。

戦国時代の平均身長が157センチだそうですから、町を歩いていたら首一つ飛びぬけるどころか、肩から上が遠くからでも見えたことでしょう。

 

ですが、慶次が使用していたと言われる鎧兜は他の武将のものと比べても、それほど大きくはないそうです。

→ 前田慶次の家紋や兜はどんなの?肖像画ってあるの?

そのように身長は高くはなかったようですが、横幅はなかなか立派なようで、ずんぐりむっくり体形だったと思われます。

横幅だけでも大きければ、大男と言えなくもないのでしょうか。

 

ちなみに、戦国武将でとくに高身長だったのは、豊臣秀頼・斎藤義龍で二人とも195センチほどもあったそうです。

背伸びをしたら電車の天井に頭がつくかもしれないですね。

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前田慶次の妻ってだれ?

前田慶次の妻は前田安勝の娘と言われています。

慶次は前田利久(前田利家の兄)の養子です。

利久の弟である前田安勝は、慶次にとって義理の叔父にあたります。

ですので、慶次は義理の従妹と結婚したことになります。

この奥さんの名前は残念ながら伝わっていません。

 

ただ、傾奇者として有名だった慶次を支えて一男四女を儲けた女性です。我慢強さや、やりくり上手だった可能性があるのでは?

ちなみに女児の数には諸説あり、女子2人~5人とも言われ、正確なところはわかっていません。

 

 

前田慶次の子孫って?

前田慶次には一男四女(推定)がいました。長男の名前は正虎と言います。女児の名前は知られていません。

正虎は加賀で前田利家に仕えました。

慶次が利家と仲たがいして加賀を出奔したときにも、母と共に加賀に残り、前田家に貢献し続けたそうです。

この当時、慶次はすでに50代。息子・正虎は前田家の一員として働いていたわけで、慶次も安心して気楽に出ていったのかもしれませんね。

 

この正虎には子供はなく、前田家の家系図では慶次の子孫は正虎までしか書き残されていないようです。

ですが、娘たちが今の岐阜県に嫁ぎ子孫がいたという伝承があるそうです。

 

ちなみに岐阜のお隣、名古屋県で現在も活動している「名古屋おもてなし武将隊」という、名古屋PR部隊にも前田慶次キャラは入っていますよ。

慶次は名古屋城の城守として活躍したとかしなかったとか。その逸話から抜擢されたんでしょうね。

そのあたりのことは史実では、はっきりしていないのですが。

 

 

まとめ

  • 前田慶次は実在する!
  • 前田慶次は思っていたより小柄
  • 奥さんは苦労人かも
  • 子孫がいたら名乗り出て欲しい

 

謎の戦国武将・前田慶次。

いろいろ調べてみましたが、なんだか自由人過ぎて調べれば調べるほど煙に巻かれると言いますか、雲をつかむようで、実在したはずなのに今一つ、現実感がありませんでした。

それは武将としての地位を捨てて歌人・俳人・茶人として余生を送った傾奇者としての生き方を追求した結果の、つかみどころのないイメージなのかもしれません。

まだまだ研究が続けられそうな人気者。今後も前田慶次のことから目が離せませんね。

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