日本人が誇る日本の宝、100名城。その中でも国宝5城(松本城のほかに姫路城・犬山城・彦根城・松江城があります)に指定されている松本城。
お城の外観・雰囲気を壊さないために、高い建物や家などをお城の近くに建てないよう、松本市で整備されています。北アルプスを背景にした5重6層の天守は見事なものですね。
そんな松本城の城主や歴史にも興味深いものがあるんですよ!!
また、お城には「別名」というのがあり、それぞれ由来があります。
日本のお城大好き「城ガール」の私が、その歴史と由来を紐解いていきます!
松本城の城主とその歴史に迫る
小笠原氏の時代
松本城の前身は「深志城」(ふかしじょう)というお城です。
この深志城については文献があまり残っていないことから、深志城が本当に松本城だったのかはっきりとした根拠はありません。
ただ、この土地周辺を治めていた信濃守護である小笠原氏は、松本盆地を囲む山々に山城をたくさん築いていました。そのひとつが「深志城」で、現在の松本城の場所にありました。
小笠原氏が支配していたこの土地に、1550年(19年)あの風林火山で有名な、武田信玄が侵攻してきます。
→ 武田信玄は城を持たなかった⁈合理的な男は考えることが違うねぇ
戦いによって小笠原氏を追い出した武田氏は、その後この土地を32年間支配していましたが、織田信長によって滅ぼされます。戦国時代のサバイバル、突入ですね…
その後、武田氏のライバルである上杉氏によって小笠原洞雪(どうせつ)が城主になったり、徳川家康の配下となった小笠原貞慶(さだよし/さだのり)が城主になったりしましたが、どちらも城主としてあまり長くは続きません。
この頃、深志城から「松本城」に名前が変わっています。
石川氏の時代
そして、豊臣秀吉が天下統一をしたことによって、時代が大きく変わります。
小笠原氏が関東に飛ばされ、豊臣秀吉の命によって石川数正が松本城の城主になるのです。ちなみに、この石川数正は元は徳川家の家臣で、他の武将と約束事を交渉したりする重要な役割を担っていました。
「おんな城主 景虎」など大河ドラマなどにも出てくる有名な武将の方です!徳川家の家臣だった石川数正がなぜ徳川家を裏切り豊臣方に寝返ったのか、はっきりとした理由は実はわかっていないそうです。
しかし、いきなり寝返った武将をいきなり信用することもできませんよね。そこで、豊臣は石川数正に「松本城の築城」を命じるのです。
松本は江戸から大阪への通過点です。
もし江戸にいる徳川が謀反を起こせば、ここでお前が命を張って阻止しろ!いうわけです。
戦国時代なんて、裏切りに裏切りに重ねて生きていかなければならないですから、誰を信用していいかわからないでしょうね…いろんなやり方で相手を試していたと思います。
こうして松本城城主になった石川数正でしたが、朝鮮出兵で九州に行きそこで病死してしまいます。
しかし、その後を継いだ息子の康長(やすなが)が天守・乾子天守(いぬいこてんしゅ)・渡櫓(わたりやぐら)の3棟を完成させます。
石川数正無念、息子よくやりました!すごいですね!
再び小笠原氏の時代へ
石川数正・康長によって23年間治められていた松本城でしたが、大久保長安事件によって康長は九州へ島流しとなり、小笠原秀政が城主になります。
深志城の時に城主だった小笠原氏の子孫ですね。
秀政は城下町の整備などに尽力しますが、大阪夏の陣で長男の忠脩(ただなが)とともに戦死してしまいます。
こちらも無念…
戸田〜松平氏の時代
その後、次男の忠真(ただざね)に引き継がれますが、播磨明石(今の兵庫県)に移動となり、戸田康長という人が松本城に入城します。
戸田康長は徳川家康の義妹である松姫と結婚し、松平性を名乗りました。その後息子の康直が城主に。次の城主、松平直政は徳川家康の孫に当たります。
1代だけの城主でしたが、人物・器量ともに非常に優れた人物であり、辰巳附櫓(たつみつけやぐら)と月見櫓(つきみやぐら)を増設しています。
これができたことによって、今の連結複合式の立派な天守が出来上がりました。
堀田から水野〜戸田氏の時代
その後、城主は堀田正盛に引き継がれます。
堀田正盛は幼少より3代将軍家光の近習(きんじゅ)となり、家光の身辺警護などをしていました。
家光からの信頼が厚かったため、1代で700石から15万石の大名に出世します。
松本城城主になってからも、家光から直々の命令で幕府の政治に参加していたそうです。
数十年にも満たず城主が変わっていましたが、その次の水野氏は80年、戸田氏は140年続きます。
最後の戸田氏は明治維新が始まる年まで続きました。
明治以降の時代
徳川幕府が大政奉還し、明治時代になると廃藩置県により「藩」は「県」に。城主はいなくなり、藩知事・県知事と呼ばれるようになります。また、廃城令によって各地の城は次々と壊されてしまいます。
松本城も天守以外の櫓や門が次々に壊されました。
そして、天守が235両(約440万円)で落札され取り壊されそうになったとき、松本市民は売られた天守を買い戻すため、松本城の天守を使って博覧会を開きます。
その利益を使って天守は買い戻され、今もなおこの世に松本城は残っています。こうした努力によって天守は残されているのですね。素敵です。
このときの努力がなければ、こうやって松本城を普段見ることはできなくなっていたでしょうから、松本市民の方には感謝しかありません!
松本城の別名とは?
烏城と言われる由来
松本城は別名「烏城」と呼ばれています。
あの漆黒の外壁を見れば納得できますね。黒を基調とした外壁は、豊臣秀吉の大阪城が由来です。大阪城は築城当時、金箔の瓦がよく映えるように壁が黒漆で統一されていました。
そのため豊臣のお城は「黒」というイメージが定着しています。
しかし、「黒」の城にしたのには理由があります。城が作られたのは戦国時代であり、敵の目を隠す戦闘用の城として収縮色である黒い壁の城を築いたのです。
また、黒漆は防腐剤の役割もあったようです。きちんと考えられているんですね。
あれ?徳川の城は白だぞ?
一方徳川のお城は「白」のお城です。
姫路城が有名ですね。姫路城は別名「白鷺城」(しらさぎじょう)と呼ばれています。
徳川が関ヶ原の戦いで徳川幕府を開き太平の世が訪れると、城をより大きく威厳があるように見せるため、膨張色である「白」の壁のお城を作りました。
城の壁に塗られている白漆喰は、火災に強い石灰を使って作られています。
漆喰の最新技術が、江戸時代になり取り込まれたことによって、「白」のお城が誕生したとも言えます。
諸大名たちは従順な姿勢を示すため、自分のお城の色を黒くしたり、白くしたりしていたというわけですね。
松本城を築城した石川数正も、豊臣への忠誠を尽くすために漆黒の外壁の松本城を作り上げた、といえます。
烏城は1つじゃなかった!
ちなみに、烏城は他に2つあるんですよ。岡山の烏城(うじょう)と、黒石陣屋(うじょう)です。これらと分けるために、松本城の烏城の読み方は「からすじょう」と言います。
ただ、松本城の別名は正確には「深志城」が正しいのではないのかなと思います。
しかし、「松本城 別名」とインターネットで検索すると「烏城」と出てくることが多く、外壁も黒いのでこちらの方がポピュラーであるといえます。
「姫路の白鷺城」「松本の烏城」と比較されることも多いようですね。
松本城も、岡山の烏城も黒漆のカッコいいお城なので、ぜひ行ってみてくださいね!百聞は一見にしかずです!
【まとめ】
①松本城は6家23代の城主が築いた歴史ある素敵なお城である。
②松本城の別名は「深志城」。また、壁の色から烏城(からすじょう)と呼ばれ、戦闘使用の黒漆の壁で築かれたカッコいいお城である。
お城の歴史を知ると親近感が湧いてきて、お城に行きたくなりますね!
少しでもお城のことを知る人が増えて、いつまでも素敵なお城たちが未来に残っていくことを願います!