江戸時代

服部半蔵=松尾芭蕉!?子孫の忍者説や現在は?

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あなたはご存じでしょうか?

松尾芭蕉が実は、忍者として名高い服部半蔵だったのだ!……と言われていることを。

これは、ある種の都市伝説です。

私がこの話を聞いた時の第一印象としては「なんだそりゃ!?」というものでした。松尾芭蕉と服部半蔵という組み合わせに、あまりにも突拍子がないと思ったのです。

しかし、調べてみると、「都市伝説でしかない」とも言い切れないと思わせる類似点が、この二人には多いのです。

果たして、この二人は同一人物なのか?はたまた「服部半蔵=松尾芭蕉説」は完全にあり得ないのか?

検証してみたいと思います。

その前に、松尾芭蕉とは何もの?服部半蔵って誰?というところから、おさらいしておきましょう。

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松尾芭蕉とは

江戸時代前期の俳諧師

現在の三重県伊賀市出身。東北、北関東などを行脚した道中を句に詠んだ『奥の細道』で有名。

 

 

服部半蔵とは

戦国時代から江戸時代にかけて活躍した人物。

松平氏、徳川氏の麾下で働いた伊賀忍者と言われる。また、服部家では代々、当主が半蔵を名乗るため、歴代当主のことを指す場合もある。

この二人の接点は第一に、伊賀出身であること。第二に、各地を転々とする職業であったこと(芭蕉の場合、転々としたのは趣味の範囲と言えるのかもしれませんが……)。

そのあたりを踏まえて、二人が同一人物なのか考察していきましょう。

 

 

服部半蔵は松尾芭蕉なのか!?

松尾芭蕉と言われる理由

さてさて。先述のように、松尾芭蕉は俳句のために諸国を旅してまわるような人物でした。出身は伊賀で1644年生まれ。

1644年というのは江戸幕府の統治が始まって間もない、徳川将軍三代目・家光の時代です。

父は土豪の家、母の出身は百地氏であり、忍者として有名な百地丹波の娘だったという話で、芭蕉は忍者の家の血を継いでいるという話があるのです。

芭蕉は若いころは伊賀上野の武家、藤堂家で働いています。19歳の時にこの家に仕え始めて、役職は厨房役(調理人)だったのではないかと伝えられています。

その後、主人の藤堂主計良忠とともに北村季吟という俳諧師に弟子入りして俳諧の道に入ります。

 

俳諧について

当時は俳句という形ではなく、連歌と言われていました。

一人で詠むものではなく、5・7・5を一人目が詠み、7・7を二人目が詠んで、一首の短歌の形にしていき、それを引き継いで、また5・7・5から始めて何人かで一連の作品にするという文芸でした。

その連歌のなかでも、ユーモアを取り入れたものを「俳諧の連歌」と言って、江戸時代に流行するようになりました。

芭蕉が入門したのはその俳諧でしたが、その道を究めて連歌を俳句に初めて変化させます。松尾芭蕉は俳句の創始者ということになりますね。

 

消息不明になった松尾芭蕉

藤堂氏の元で仕えていた芭蕉が23歳の時、主君が亡くなり、その後6年間、芭蕉の消息は不明となります。

消息不明の6年間の間も俳諧では活躍していたようで、いくつかの俳諧集に名前が残ってはいます。ですが、どこで何をしていたのか全くわからないのです。

「松尾芭蕉=服部半蔵説」をとなえる人は、この空白の期間に、芭蕉が隠密行動をしていたのではないかと言っているのです。

次に芭蕉の姿が確認できるのは29歳、江戸に現れた時です。

江戸で俳諧の宗匠として弟子を多くとります。名高い俳諧師として活躍していました。

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松尾芭蕉の健脚ぶり

松尾芭蕉は俳諧のため、また帰郷のために旅をすることが数度ありました。

41歳から46歳までに5回。これは江戸時代の人としては、かなり多い方だそうです。1日や2日の旅ではありません。一度出発すると半年以上も、ずっと歩き詰めです。

しかも、当時は旅の安全は約束されたものではありません。現代のように整備された道ではなく、犯罪に巻き込まれる可能性も高かったでしょう。

体力が落ちてきている四十代になってから出発したにしては、芭蕉の移動スピードは異様な速さなのです。日によっては、一日で50キロも進んだ日もあるほど。

 

江戸時代の旅に必要なもの

さらに、費用と関所の問題もあります。

江戸時代には、国境には関所が設けられていて、自由に往来することは出来ませんでした。

諸藩が発行する往来手形を手に入れる必要があります。半年にも及ぶ旅にかかる費用、諸国の関所を通るための手形。

それらは、一般人にはなかなか準備できるものでなく、町人などは一生に一度、伊勢参りに行けるかどうかというような時代です。

もしも、芭蕉が忍者として密偵活動のために旅をしたのなら、仕えていた大名家が準備してくれたでしょう。

忍者でありさえすれば、これらの謎が一気に解決するというのですが……。

 

いつの時代の人?

ここで、大きな問題が一つ。

松尾芭蕉の生年は1644年。時代は三代将軍・家光のころ。

忍者として活躍した服部半蔵保長は戦国時代、足利義春(1521-1546)、続いて松平清康(1511-1535)に仕えました。没年は1558年。

松尾芭蕉と、初代・服部半蔵は生きた時代が全く違うのです

では、松尾芭蕉の忍者説で取りざたされる服部半蔵は、誰なんでしょう?

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服部半蔵の子孫は誰?忍者だったのか?

先にも述べましたが、服部半蔵という名前は代々、親から子へと受け継がれたものです。

初代の半蔵が忍者であったのは間違いないのですが、二代目からは武士に転向しているのです。

「忍者ではいくら活躍しても身分があがることはない」

と、初代が二代目半蔵に助言したという話も都市伝説の一部として耳に入ることがあります。なかなか面白い説ですよね。

二代目から武士として徳川家に仕えた半蔵。江戸城修築の際にも働いていて、半蔵門に名前を残しています。

年代的に、活躍した時期が芭蕉とかぶるのは、五代目・半蔵正吉からです。

半蔵正吉は、今の三重県にある桑名で足軽を束ねていました。押しも押されもせぬ立派な武士です。五代目もやはり残念ながら、忍者は廃業していました。家来も抱えています。

もし、半蔵が密偵として働くとしても、江戸で俳諧師として暮らしていくのは無理があるでしょう。

「服部半蔵=松尾芭蕉説」は、やはり都市伝説と言うしかないようです。

もし万が一、芭蕉が忍者であったとしても、それは服部半蔵ではなかったようです。

 

服部半蔵の子孫の現在は?

服部家は分家も多く、四国の今治で家老職を継ぐ系譜もあり、桑名で家老を務める系譜もあり。どちらにしても、家老職ではあり、かなりの出世を果たしていますね。

歴史上には十二代・服部半蔵正義の活躍までが伝えられています。

明治時代の戊辰戦争や西南戦争でも軍を率いていて、廃藩置県後には三重県の要職についていました。

子孫については伝わっていませんが、今もどこかに服部半蔵の名前を継いでいる人がいるのかもしれませんね。

 

 

まとめ

[aside type="boader"]

「服部半蔵は松尾芭蕉」というのは現実的に難しい。

・服部半蔵の子孫は忍者ではなく武士だった。

・服部半蔵の子孫の明治以降から現在は不明。

 [/aside]

数々の名句を残し、旅に生き、旅に死んだ松尾芭蕉。

現在まで語り継がれる名高い忍者だった服部半蔵。

二人のイメージが相まって生まれた「松尾芭蕉=服部半蔵」説。

どうやら、そのまま鵜呑みにすることは出来ないようですが、とってもロマンのある伝説ですよね。

忍者であり、俳諧師でもあるなんて、まさに多芸多才。

実在したとしたら、日本が誇るスーパーヒーローであると言っても過言ではないでしょう。

もしかしたら、長い日本の歴史の中に、そんな人物もいたのかもしれませんね。

そして、今も生きて活躍していたりして……?

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