美しさもさることながら、難攻不落ともされる固い守りの工夫が随所に見られるのも、このお城の魅力ではないでしょうか。
松山城と言えば、「日本100名城」「美しい日本の歴史的風土100選」などにも選定されている日本の中でも特に有名なお城のひとつです。
そんな松山城は松山市の中心にあり、市内を一望する勝山の頂に建っています。
また、江戸時代からの現存12天守のうちの一つで、天守をはじめ合計21棟もの重要文化財を有するお城です。
今回は、わが国最後の完全な城郭建築といわれる松山城を作った歴代城主や松山城の歴史について、城マニアの私がじっくり解説していきます!
松山城の歴代城主たちはどんな人たちだった?
このステキなお城を作った歴代城主たちを年表で一気にご紹介していきます!
松山城の歴代城主
歴代 |
西暦(和暦) |
城主 |
1603年(慶長8年) |
加藤嘉明(よしあきら・よしあき) |
豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将のひとり。足立重信を普請奉行に任じ、松山城を築城。20万石。享年69。 |
1627年(寛永4年) |
蒲生忠知(ただとも) |
蒲生氏郷の孫。出羽上山城より移封。24万石。1634年(寛永11年)8月、忠知が参勤交代の途中に死去し蒲生家が断絶したため、大洲藩主・加藤泰興が一時松山城を預かる。享年31。 |
1635年(寛永12年) |
松平定行(さだゆき) |
松平定勝の子で、於大の方は祖母、徳川家康は伯父にあたる。伊勢桑名より移封。15万石。郷土菓子になっているタルトを長崎から松山に伝えた。享年82。 |
1658年(万治元年) |
松平定頼(さだより) |
松平定行の長男。父の隠居により家督を継ぐ。ほとんどを江戸で過ごし、松山入りはわずか3回であった。享年56。 |
1662年(寛文2年) |
松平定長(さだなが) |
松平定頼の次男。松山入りは父・定頼と同じくわずか3回であった。1674年(延宝2年)、江戸において大病に陥り、今治藩主・松平定時の嫡男の鍋之助(のちの定直)を養嗣にむかえる。享年35。 |
1674年(延宝2年) |
松平定直(さだなお) |
今治藩主・松平定時の長男。又従兄にあたる定長の養嗣子となり、定長の死去に伴い家督を継ぐ。配流処分となった越後高田藩主・松平光長を預かり、城内に蟄居させる。1687年(貞享4年)、藩庁を松山城二ノ丸より三ノ丸に移し二ノ丸を藩庁別棟(隠居所)とする。1705年(宝永2年)にはじめて藩札を発行。赤穂事件に関して、赤穂浪士47名のうち大石主税、堀部安兵衛ら10名を預かった。享年61。 |
1720年(享保5年) |
松平定英(さだひで) |
松平定直の三男。家督継承に際し、父の遺言にしたがい内分1万石を弟の定章に分知(これにより松山藩内に松山新田藩1万石が誕生)。享保の大飢饉などの気象災害が多発する。享年38。 |
1733年(享保18年) |
松平定喬(さだたか) |
松平定英の長男。父の死去により家督を継承。弟の松平定功を養嗣とする。享年48。 |
1763年(宝暦13年) |
松平定功(さだかつ・さだなり) |
松平定英の次男。従兄の松山新田藩主・定静を養嗣子とする。享年33。松山入りはわずか2回であった。 |
1765年(明和2年) |
松平定静(さだきよ) |
松平定功の急病によって継嗣となり、翌日には本家を継承した(その際、新田藩1万石は松山藩に返還されることなく、幕府に返上されたため、松山新田藩は消滅)。1768年(明和5年)、幕命により田安宗武の六男・豊丸(のちの定国)を養子としてむかえる。享年51。 |
1779年(安永8年) |
松平定国(さだくに) |
田安宗武の六男で、徳川吉宗の孫にあたる。松平定信の兄だが、兄弟仲は悪かった。1784年(天明4年)の落雷で焼失した松山城の再建を幕府に願い上げ、許可される。享年48。 |
1804年(文化元年) |
松平定則(さだのり) |
松平定国の次男。正室は白河藩主・松平定信の娘。1805年(文化2年)に初の藩校「興徳館」を設立。享年20。 |
1809年(文化6年) |
松平定通(さだみち) |
松平定国の五男。兄の養嗣子となり家督を継ぐ。藩校三省堂を設立する。1820年(文政3年)より天守再建工事にかかる。文化面のみならず殖産興業や倹約厳行などをすすめ、松山藩中興の祖として仰がれた。享年32。 |
1835年(天保6年) |
松平勝善(かつよし) |
薩摩藩主・島津斉宣の十一男。1832年(天保3年)、松平定通の養嗣子となる。1854年(安政元年)に天守再建。享年40。 |
1856年(安政3年) |
松平勝成(かつしげ) |
高松藩主・松平頼恕の三男。徳川慶喜の従兄にあたる。 1864年(元治元年)の第一次長州征伐では一番手の出兵を命ぜられ勝利を収めた。 1867年(慶応3年)、隠居が許され、家督を養子定昭に譲る。 |
1867年(慶応3年) |
松平定昭(さだあき) |
伊勢津藩主・藤堂高猷の五男。松平勝成の養嗣となり、家督を継ぐ。史上最年少の22歳で老中に就任。 1868年(慶応4年)の「鳥羽・伏見の戦い」では前将軍・徳川慶喜に従ったとして朝敵の汚名を受け、蟄居謹慎を命ぜられる。 |
1868年(明治元年) |
松平勝成 |
定昭が蟄居を命ぜられたため、再任。松平姓を返上し旧姓の久松となる。 1869年(明治2年)、版籍奉還により藩知事に就任する。享年81。 |
1871年(明治4年) |
久松定昭 |
松平定昭が蟄居を免ぜられ再び家督相続し、松山藩知事となるが、半年後には廃藩置県により知藩事を免ぜられる。 |
本当に有名な武将たちが、松山城の城主をつとめていたんですね!
松山城の歴史に迫る!
今度は松山城の歴史をじっくり紐解いていくことにします。名だたる武将たちが松山城を支配してきましたが、お城自体はいったいどんな歴史を辿ってきたのでしょうか?
江戸時代
1602年(慶長7年):伊予国正木城(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明は、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する平山城の築城に着手しました。
1603年(慶長8年)10月:嘉明がこの地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生しました。
1642年(寛永19年):創建当初5重であったという天守を定行が3重に改築します。
1784年(天明4年):天守を含む本壇の主な建物が落雷により焼失してしまいます。
しかしながら1854年(安政元年)2月8日、第12代藩主勝善が大天守、本丸本壇を再建しました。幾度となく天守が焼失していたのですね。建て直されて一安心でした。
明治・大正時代
1868年(明治元年)、土佐藩が松山城を受領・保護します。(藩主定昭は常信寺にて謹慎したが、翌年には赦免される。)
1870年(明治3年)、失火により三之丸が焼失。
1871年(明治4年)、廃藩置県により松山藩から松山県となります。この時失火により今度は二之丸が焼失してしまいます。
1873年(明治6年)、廃城令による処分により松山城は、大蔵省・内務省所管となり、主に麓の城門・櫓・御殿など城外に払い下げられます。
建物の解体は行われましたが、入札はありませんでした。同年、愛媛県が成立します。
1874年(明治7年)、本丸一帯が聚楽園という公園になります。
1886年(明治19年)より1945年(昭和20年)にかけて、二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、松山歩兵第22連隊の駐屯地が三之丸(堀之内)に築かれました。
1891年(明治24年)、俳聖正岡子規が、「松山や 秋より高き 天主閣」の俳句を発表。また、1895年(明治28年)には、「春や昔 十五万石の 城下哉」の句を詠んでいます。(JR松山駅前に句碑があるの有名です)
1923年(大正12年)、松山城(本丸)が旧藩主家の久松家へ払下となり、そのまま松山市に寄贈され、以降松山市の所有となりました。
松山城はいろんな人の手に渡り、いろんな使われ方をしてきたんですね。
昭和・平成時代
1933年(昭和8年)、松山城放火事件により大天守を除く本壇の現存建築が焼失。
1935年(昭和10年)、天守など35棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定されます。
1945年(昭和20年)松山空襲で天神櫓など11棟が焼失。
1949年(昭和24年)放火により筒井門とその東続櫓、西続櫓の3棟を焼失。松山城はどれだけ燃やされれば気がすむのだろうって感じですね。
1950年(昭和25年)大天守以下21棟の建造物について、重要文化財保護法により国の重要文化財に指定されます。
そして1952年(昭和27年)には、二之丸と三之丸を含む松山城山公園が国の史跡に指定されます。
1955年(昭和30年)にはロープウェイが、1966年(昭和41年)には平行してリフトが登城客の利便を図るため設置されました。
360度開けた大天守からの眺望のよさもあり、松山城は松山市を代表する観光地となりました。
1968年(昭和43年)、1933年に焼失した本壇の建造物群を木造により復元。
1989年(平成元年)には、松山城山公園が日本さくら名所100選に選定されます。
松山城は桜の名所でもあるんですね!
2004年(平成16年)10月より行われていた大天守ほか6棟の改修工事は、2006年(平成18年)11月末に終了しました。
2006年(平成18年)、松山城山公園が日本の歴史公園100選に選定されます。また同年4月6日(お城の日)、日本100名城(81番)にも選定されます。
2007年(平成19年)、情緒ある佇まいが残されていることが評価され、美しい日本の歴史的風土100選に道後温泉と共に選定されました。
素晴らしいお城ですから、いろんなものに選ばれるのも納得できますね。
まとめ
- 松山城は名だたる武将たちが支配していたお城だった。
- 幾度となく遺構が焼失されていたが、復元を繰り返し今もなお世界中の人から松山城は愛されていた。
と言うのが今回のまとめです。
松山城は古き良き風景が残っている本当に素晴らしいお城です。皆さまもぜひ一度お城へ足を運び、実物をご覧になってみてください!
今回は松山城の歴代城主と、その歴史について解説させていただきました!