安土桃山時代

宮本武蔵プロフ!身長・出身・妻・死因について!

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最強の剣豪と言われる宮本武蔵。

とかく、その強さや決闘にばかり関心が向かいがちですが、出身、身長、妻、死因、身の回りの情報や、後半生は意外と知られていません。

武蔵のプロフィールや、決闘をやめた後の半生について調べてみました。

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武蔵のプロフィール

はっきりした史料があるわけではないので、殆どが「諸説あり」の状態ですが、分かる範囲でまとめてみました。

身長はどれくらい?

身長は6尺と書かれてあるので、180㎝くらい。当時としては、かなり大きい方ですね。(当時の平均身長は現在よりも低く、有名武将とかでも140センチ代とか150センチ代だった)

人並外れた剛力の持ち主でもあり、片手で刀剣を使いこなすことができました。だから、二刀流が生まれたわけですね。

 

出身や生年月日は?

生年は、やはり『五輪書』の記述から1584年と推定されています。

出生地については「生国播磨」と記載がありますが、美作国宮本村とする説もあるようです。播磨の西隣が美作なので、その辺りであることは間違いないようです。

父は、播磨を支配していた赤松氏の支流・新免氏の一族・新免無二とされていますが、異説もあります。母は不詳。

 

妻は居たの?

女性の気配がほとんどありません。だから、不潔だったという噂が立つのかもしれません。

吉原の遊郭に通っていたという話もある(後述)ので、女性が嫌いだったわけではないようです

結婚はしなかったので実子はいませんが、養子は二人いました。いずれも、とても優秀でした(後述)。

 

死因は?

1645年に熊本の屋敷で亡くなりました。享年62歳。

病死のようです。畳の上で亡くなったのですね。

 

本当の名前は?

まずは名前から。彼の著書『五輪書』には新免武蔵守・藤原玄信と記されています。「しんめんむさしのかみ・ふじわらはるのぶ」と読むのでしょうね。

名字は宮本じゃなかったの?と思ってしまいますが、宮本とか新免を使い分けていたようです。

 

スーパー不潔!?宮本武蔵はお風呂嫌いだった

大のお風呂嫌いで、生涯一度も沐浴しなかったと言われています。足が汚れても拭くだけ。着物もそのまま。髪は伸び放題。

これが本当だったら、とんでもなく不潔な人ですね。

でも、若い頃の話じゃないかなと思います。熊本に住んでいた頃は山鹿温泉に行ったという記録が有りますから(後述)。温泉でお風呂に入らないというのは考えにくいですね。

 

 

宮本武蔵、人生の後半生

武蔵は二十代の日々、決闘に明け暮れています。60数回と『五輪書』冒頭に書いてあるので、年に7回くらいのペース。闘いのこと以外、何も考えられそうにないですね。

さて、その後ですが、30歳から62歳で亡くなるまでの後半生はどんな人生をおくっていたのでしょう。

 

大坂の陣に参加

武蔵は大阪の陣(1614年~1615年)に参加しています。三河刈谷藩主水野勝成の客将として徳川方に参陣。勝成の嫡子・勝重付で活躍したとする数々の資料が残っています。

これまで続けてきた決闘は、自分の評判を広めて大名に雇ってもらうのが目的です。武蔵の目的は達成されたということなのかもしれません。客将ですから正社員ではないようですが。勝成は徳川二十八神将の一人に数えられる猛将。就職先としては悪くありません。

大阪の陣の後、勝成・勝重の戦功は大きく評価されていますから、武蔵の寄与も大きかったはず。武蔵30歳の頃になります。

この時の縁で、水野勝成の武者奉行・中川志摩之助の三男、三木之助を養子として迎えています。

 

明石で都市計画

その後、剣術を好む姫路藩主・本多忠刻に迎えられました。忠刻は、家康の曾孫であり、しかも千姫(秀忠の娘)を室に迎えているので三代将軍家光の義兄、という大変なお方。

武蔵は忠刻と交流を保ちながら活動。明石では町割り(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)を行っています。この時期に、神道夢想流開祖・夢想権之助と明石で試合を行い勝利しています。

また、養子の宮本三木之助を忠刻の小姓として出仕させました。それが1617年~1618年頃です。武蔵は34歳くらい。

 

尾張で円明流を指導

1624年、武蔵40歳の頃、尾張国に立ち寄った際、円明流(武蔵の兵法。後に二天一流)を指導しています。尾張藩と言えば徳川御三家ですね!この尾張藩家老・寺尾直政の要請で弟子の竹村与右衛門を推挙し、尾張藩に円明流が伝えられました。以後、近隣の美濃高須藩を含めた地域で複数の円明流が派生し隆盛。

 

養子の三木之助と伊織

養子の三木之助が小姓として仕えていた本多忠刻が、1626年に31歳で病死。三木之助は初七日に忠刻墓前で切腹して殉死しました。享年23歳。

この年に、播磨の地侍・田原久光の次男・伊織(15歳)を新たに養子としました。武蔵の推挙で播州明石藩主・小笠原忠真(当時忠政)の近習に出仕。5年後には弱冠20歳で執政職(家老)となりました。

翌1632年に小笠原忠真が豊前小倉藩に入封された時に伊織は2500石となり、1638年の島原の乱では父武蔵と共に出陣して戦功を挙げ4000石に加増。筆頭家老となりました。

三木之助が仕えた本多忠刻は家康の曾孫でしたが、伊織が仕えた小笠原忠真も家康の外曾孫。小倉小笠原氏は西国譜代大名の筆頭で、言わば九州の玄関番。

養子を二人とも幕府の信任厚い藩に仕官させていることから、武蔵の評判が非常に高かったことが分かります。

 

吉原遊郭がお気に入りだった?

島原の乱には養子伊織と一緒に参戦したと書きましたが、この頃、武蔵は吉原遊郭に入り浸っていたようです。遊女雲井が馴染みで、彼女に指物の袋を依頼し、これを受け取って騎馬で島原へと出陣したそうです。武蔵は54歳くらいです。

 

熊本藩に招かれる

1640年、熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ、熊本に移りました。熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩りが許されるなど客分としては破格の待遇。同じく客分だった足利道鑑(室町幕府第13代将軍・足利義輝の遺児)と共に、忠利に従い山鹿温泉に招かれたりもしています。

1641年に忠利が急死しましたが、賓客待遇に変わりはありませんでした。余暇を使って、水墨画や工芸品の制作も行っています

戦いしか考えられない筋肉脳だと思っていましたが、そういうワケではなかったのですね。

 

晩年に『五輪書』執筆

1643年から、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始めました。

1645年、千葉城の屋敷で逝去。享年62歳。亡くなる七日前に、兵法の高弟・寺尾孫之允に『五輪書』を伝授しており、寺尾が二天一流兵法第二代師範として、武蔵の兵法を後に伝えました。

 

 

まとめ

  • 名前は新免武蔵守・藤原玄信。
  • 生年は1584年。生国は播磨か美作。父親は新免無二。母親は不詳。
  • 身長は180㎝くらい。人並外れた剛力の持ち主。
  • お風呂嫌いで、生涯一度も沐浴をしなかったと言われている。
  • 妻はいなかったが、吉原の遊郭に通っているので女嫌いではない。養子は2人いた。
  • 1645年、62歳で病死。

武蔵は決闘には勝ち続けたけれども、世渡り下手で、悲惨な後半生を送ったとばかり思っていました。しかし実際は、譜代大名に次々と招かれ、客人として丁重に扱われていました。

養子にも恵まれています。しかし、武蔵自身が高い評価と信頼を得ていなければ、優秀な子どもを養子として託されることはなかったでしょう。また、武蔵の推挙で、三木之助や伊織が藩主の小姓や近習に決まっていることからも、武蔵への信頼の強さがうかがえます。

武蔵は、もちろん剣も強かったのでしょうが、それだけではない人間的な魅力を持った人だったに違いありません。

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