安土桃山時代

宮本武蔵は最強?伝説や逸話から武蔵の強さをチェックしてみよう

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剣術で歴史上最強の人物は誰?と聞かれれば、宮本武蔵の名前は必ず挙がるでしょう。

武蔵に関する史料はいくつかありますが、内容に食い違いが多く、事実かどうかという点では信憑性がかなり低いと言われています。ゆえに尚更、語り継がれる伝説や逸話は多く、私たちの興味を惹きつけて離しません。

1番とか2番とか決めるのはなかなか難しいですが、まずは武蔵にまつわる伝説やエピソードの数々を見て、その後で武蔵の強さについて考えてみることにしましょう。

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宮本武蔵が最強?伝説や逸話について

「五輪書」に書かれた対戦成績

武蔵の著書「五輪書」の序文に書かれてあることを整理すると、次のようになります。

  • 13歳から28~29歳までの間に六十数回勝負を行い、負けたことは無かった。
  • 最初の対戦者は新當流有馬喜兵衛という兵法者で、13歳の時。
  • 次は但馬国の秋山という兵法者で16歳の時。
  • 21歳に都で天下有数の兵法者と何度も決闘した。

21歳から29歳までの9年間は、年7回くらいのペースで命懸けの闘いをしていたことになりますね。

60回以上の勝負を行い無敗であったとは凄まじいの一言!

 

 

対決ばっかり!数々のSTORY!

有馬喜兵衛と塚原卜伝

最初の対戦相手とされる有馬喜兵衛と二人目の秋山ですが、「五輪書」以外には記録が残っていないようです。で、唯一の手掛かりとなるのが新當流。これは塚原卜伝が開いた鹿島新当流のこと。

武蔵と卜伝との間には、結構有名な逸話があります。

若い頃の武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、卜伝はとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして刀を受けたというもの。

「手元にある物は何でも使って身を守るのが肝要」という教訓付きで語られることが多いこの逸話ですが、残念ながら武蔵と卜伝は同時代の人ではないので事実ではないようです。

有馬喜兵衛→新當流→塚原卜伝というつながりで、後世に作られた話なのでしょう。

 

槍の宝蔵院と対決

『五輪書』には書かれていませんが、『二天記』には21歳の時に奈良を訪れて宝蔵院流槍術の使い手、奥蔵院日栄と対決したことが書かれています。

宝蔵院流槍術は、興福寺の僧「宝蔵院覚禅房胤栄」が創始した十文字槍を使った槍術。十文字槍は文字通り十文字の形をした槍で、突けば槍、振れば薙刀、引けば鎌になるという武器。

どんな闘いだったか、見てみたい気がします。

 

鎖鎌の宍戸梅軒と対決

同じく『二天記』に、伊賀国の鎖鎌の使い手「宍戸某」と対決したことも書かれています。

吉川英治の小説での名前は「宍戸梅軒」。なんと、宍戸梅軒さんは大正初めに活動していた実在の俳人の名前で、吉川英治と旅先で意気投合した仲だそうです。同じ「宍戸」だから拝借したようです。

鎖鎌は草刈り鎌と分銅が鎖でつながっている武具で、主に護身用の隠し武器として使われていました。右手で分銅を振り回して相手の刀や手に巻き付けて動きを封じた後、鎌で切りつけるという使い方。

これに対抗するために、武蔵は二刀流を発案したのではないか、とも言われています。

漫画とかでもこの武器出てくるよね!るろうに剣心でも出てきた気がする
万利休

 

吉岡一門と三度対決

再び『五輪書』に戻りますが、都で決闘した天下有数の兵法者と書かれているのは、吉岡一門のことだろうと思われます。

吉岡流は、吉岡直元を祖とする足利将軍家の剣術師範を務めた剣術流派でした。武蔵は、その道場に対決を挑み、三度対決することになります。

第一戦:吉岡清十郎と対決

武蔵の養子・宮本伊織が書いた『小倉碑文』によれば、武蔵の父親の新免無二が吉岡と三度試合をしていて、無二が二勝一敗だったため「日下無双兵法術者」の称号を賜っています。その因縁もあり、武蔵は吉岡家当主の吉岡清十郎と闘うことになりました。

『兵法大祖武州玄信公伝来』によると、試合当日、武蔵は病気を理由に断りましたが、何度も催促が来るので、竹輿に乗って試合場に向かいました。

病気の具合を聞こうと覗き込んだ清十郎を武蔵は木刀で殴打。清十郎は板に載せられて弟子に運ばれました。治療後、清十郎は回復はしましたが、兵術をやめて出家。

完全に卑怯モノやん!
天草ゴロー

武蔵が騙し討ちしたような感じなので出家まですることもないような気がするのですが、現代とは考え方が違うようですね。

第二戦:吉岡伝七郎と対決(三十三間堂にて)

その後、清十郎の弟の伝七郎と対決しました。場所は、『小倉碑文』では洛外とありますが、吉川英治の小説では三十三間堂になっています。

伝七郎の五尺の木刀を武蔵がその場で奪い、伝七郎を打ち倒しました。伝七郎は死亡

第三戦:吉岡亦七郎と対決(一乗寺下り松にて)

吉岡はこのままでは治まらないので、吉岡亦七郎と武蔵が対決することになりました。名門の吉岡はもう負けることができないので、門弟たちが秘かに謀り、数百人が弓矢まで準備して対峙

『小倉碑文』では、武蔵は一人で打ち勝ったことになっています。一方『兵法大祖武州玄信公伝来』では、武蔵側にも十数人の門人がいたことになっていて、武蔵が殿となって退却しました。

この二つの文献では吉岡家は断絶したことになっていますが、存続したとする文献もあります。

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めっちゃ有名!佐々木小次郎との対決(巌流島にて)

武蔵と対決した相手として最も有名なのは佐々木小次郎でしょう。巌流島の決闘です。対決した時の武蔵の推定年齢は28歳、数え年で29歳。『五輪書』に28~29歳まで盛んに勝負をしていたという記述があるので、最後の方の対戦相手ということになります。

小次郎は、「物干し竿」の異名を持つ長い太刀を目にも止まらぬ速さで振るう秘剣「燕返し」の技を持っています。その小次郎と、関門海峡に浮かぶ巌流島で対決しました。武蔵は、櫂を削って作った木刀で、小次郎を一撃で倒しました。

これほど有名な対決なのに、一撃では倒していなかったとする文献や、武蔵が門人を連れていたとする文献もあります。二人の年の差が有り過ぎる!と疑問視する声も。

▶ 宮本武蔵と佐々木小次郎の関係やエピソードは?

 

 

武蔵の強さはどれくらい?やっぱり最強なのか?

さて最後に、これまでの数々のエピソードを総合して武蔵の強さについて考えてみたいと思います。

時代背景はというと、武蔵が盛んに決闘をしていた9年間は、関ヶ原合戦と大阪冬の陣の間の時期。西軍側の下っ端で働いていた侍たちは浪人として巷に溢れました。日本の大企業の半分が一度に倒産したような状況ではないでしょうか。

徳川幕府が戦乱は終わったと宣伝する中、腕っぷしだけが取り柄の浪人たちの求人なんて殆どゼロ。決闘は必死のリクルート活動だったわけです。「あの強い〇〇に勝った」という評判を勝ち取ることで、大名に雇ってもらおうということですね。

天草ゴロー
脳みそが筋肉でできている格闘バカだったのではなく、宮本武蔵も対決をすることで自分の名前を売りたかったワケだね。良いところに雇ってもらえるようにリクルート活動をしていたとも言えます

ですから、「強い」と評判の兵法者には次々と挑戦者が現れて、試合が申し込まれました。そこはボクシングのチャンピオンと似たシステムといえるかもしれません。違うのは、相手が、十文字槍とか鎖鎌とか、自分が使ったことのない武器を持ってきたりすることです。

それに、審判がいません。立会人が居る場合もあるようですが、必ずしもいないようです。しかも昨日まで戦国時代ですから、殺すことは何とも思っていません。何でもありの戦争と同じです。

卑怯でもなんでも倒してしまえばコッチのもの!今みたいに正々堂々の試合じゃないから倒して自分の勇名を轟かさればよかったんだね
万利休

最強と思いきや!?実は弱小ばかり狙って戦ってた説もある‥

柳生家のように徳川方に召し抱えられていた兵法家は、こんなリクルート活動をする必要はありませんでしたから、決闘もしていません。この点から、武蔵は無名の弱い奴らとばかり闘っていたのだという指摘もあります。

でも、そうでしょうか。

こんな過酷な闘いを60回以上もやり続けて、生き延びたというのは並大抵のことではないと思います。多少話を盛って、60回もやってなかったとしても凄いことではないでしょうか。

無名の奴らとは言え、命懸け。窮鼠猫を嚙むとも言います。簡単に勝てるとは思えません。

今みたいにボクシンググローブとかじゃなくて、刀とか鎌とかを武器に使うワケですからね。何かの拍子にカスったり、当たっちゃったりしたら、普通に一撃で致命傷ですからやっぱり勝ち続けるのは並大抵のことではないかと。

そんなわけで1番とか2番とかはなかなか決められませんが、武蔵は「最強の兵法者のひとり」と言っていいと思います。

 

 

まとめ

  • 武蔵の最初の対戦者は、新當流の有馬喜兵衛という兵法者。
  • 新當流の開祖塚原卜伝と武蔵が闘ったという逸話もある。
  • 十文字槍を使う宝蔵院槍術の使い手奥蔵院日栄と対決したとも言われている。
  • 鎖鎌を使う宍戸某という兵法者と対決したという逸話もある。
  • 足利将軍家の剣術師範を務めた吉岡流の一門と三度に渡り対決し、勝利した。
  • 巌流島で佐々木小次郎と対決したとも言われている。
  • この過酷な闘いを60回以上も続けて生き延びた武蔵は、最強と言っていいと筆者は考える。

武蔵の生きた時代は、とてつもなく過酷な時代でした。野生の動物たちがいるジャングルの中に住むようなものだったかもしれません。それに比べたら、私たちは本当に幸せです。ストレスなんて言ってられないですね。

武蔵の最強伝説は、私たちの励みになります。事実かどうかなんて、どうでもいいような気がしてきました。

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