宮本武蔵と佐々木小次郎、といえば巌流島の決闘が有名。武者修行を続けて腕を磨き上げた二人が、雌雄を決する闘い。誰もが興味を引かれる筋書きです。そのため、小説、映画、テレビドラマという形で、何度も二人の対決が描かれてきました。
この二人は、どんな関係から対決することになったのでしょう。また、ドラマ化されていないエピソードはないでしょうか。詳しく調べてみました。
まずは、決闘の様子から見ていきましょう。
佐々木小次郎と宮本武蔵のエピソード
超有名!巌流島の決闘
慶長17年(1612年)4月13日、関門海峡に浮かぶ船島という小さな島(後に巌流島と呼ばれる)で、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われました。
佐々木小次郎は、通称「物干し竿」と呼ばれる刃長3尺余(約1メートル)の長い太刀の使い手。それを目にも止まらぬ速さで振るう秘剣「燕返し」の技を持っています。
対する武蔵ですが、試合当日は遅くまでグッスリ。ブランチを摂った後に舟を出してくれる人から艪をもらい、それを削って木刀を作りました。
大遅刻の宮本武蔵 勝利
会場には余裕で大遅刻。しびれを切らした小次郎は、ゆっくり舟に揺られて現れた武蔵に「来るのが遅い!」と叫びました。武蔵が木刀を持って舟から飛び降りると、小次郎は刀を抜いて鞘を海に捨てました。それを見た武蔵が「小次郎敗れたり!勝つつもりなら鞘は捨てないはずだ!」と挑発。
小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、鉢巻がはらりと落ちました。同時に武蔵の木刀は小次郎の頭を打っていました。小次郎は倒れます。武蔵が近づくと小次郎が切りかかり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切りました。武蔵の木刀が小次郎の脇の下を一撃。骨が折れて小次郎は気絶。
武蔵は立ち合いの検使に一礼し、舟に乗って帰っていきましたとさ。
以上が小説などでおなじみの巌流島の決闘の様子。主に『武公伝』という文献の記述をもとにしています。後世では、小次郎をイラつかせるためにわざと遅刻したのだろうという心理分析やら、小次郎が間合いを測れないように長さが分からない艪を使ったのだろうという戦術論やら、いろんな分析もなされています。
でも、本当のところはどうなのでしょう。
そもそもなぜ2人は決闘をしたのか?
宮本武蔵と佐々木小次郎、二人はどうして決闘をすることになったのでしょう。
武蔵が豊前国(福岡県東部と大分県北部の辺り)で二刀兵法の師になった時、小次郎は岩流兵法の師を既にやっていました。門人同士が諍いを起こし、二人が試合をすることになったと『沼田家記』には書かれています。
また、武蔵の父である無二と小次郎には因縁があって、何度か立ち会ったが決着しなかったと書いている文献もあります。
2人の年の差がヤバイ
武蔵の年齢は、武蔵の著書『五輪書』の冒頭に「歳つもりて六十」という記述があることから、1643年に数え年で宮本武蔵は60歳、生年は1584年と推定されています。巌流島の決闘が1612年だったとすると、佐々木小次郎は28歳くらい。
一方、小次郎の方はよくわかっていません。師と言われる中条流富田勢源や鐘捲自斎との関係から推定すると、決闘時の年齢は最低でも50歳以上、もしかしたら70歳を超えていたとも言われています。
親と子、下手すると爺ちゃんと孫くらいに年が離れていたことになりますね。
佐々木小次郎にトドメを刺したのは誰?
武蔵の養子・宮本伊織が書いた『小倉碑文』には「岩流(小次郎のこと)は三尺の真剣を使い生命を賭け技術を尽くしたが、武蔵は電光より早い木刀の一撃で相手を殺した」とあります。即死のようです。
刑事になった気分で文献の記述を比べてみると、微妙な食い違いが見られます。さきほど冒頭で紹介した『武公伝』の記述によれば、即死ではありませんでした。
だとすれば、小次郎にトドメを刺したのは誰なのでしょう?
まさか試合会場に武蔵の弟子が隠れていた?
『沼田家記』という文献によると…
武蔵と小次郎は試合をすることになった際に、双方とも弟子は連れてこないと定めました。試合の結果、小次郎は勝負に敗れ気絶。小次郎の弟子は約束通り一人も来てはいませんでしたが、武蔵の弟子は島に来て隠れていました。気がついた小次郎を、武蔵の弟子達が皆で打ち殺しました。
…ということですが、小次郎が勝負に負けて気絶したところまでは『武公伝』と同じですね。弟子たちがいたとしたら約束違反。瀕死の小次郎を皆で撃ち殺すなんて、酷い弟子達です。
武蔵の弟子が加勢した?
『西遊雑記』という文献によると…
小次郎が船島に渡ろうとすると、「武蔵は弟子を大勢引き連れて先ほど船島に渡りました。多勢に無勢、一人ではとても敵いません。お帰り下さい」と止められました。
しかし小次郎は「武士に二言はない。堅く約束した以上、今日渡らないのは武士の恥。もし多勢にて私を討つなら恥じるべきは武蔵」と言って強引に船島に渡りました。
果たして、武蔵の弟子4人が加勢して小次郎は討たれました。
…ということですが、5対1で対決したのなら武蔵は卑怯者ということになります。
もしかして、そもそも決闘は無かった?
ここまで書いて、いまさら何だよ!と言われそうですが、そもそも決闘など無かった!という説もあります。巌流島の決闘について書いている文献は、決闘から百年以上経ってから書かれたものが殆どで、しかも内容に違いがあるので信憑性が乏しいのです。
それに、後世これほど有名になった決闘なのに、武蔵自身が『五輪書』の中で全く触れていないのもおかしい気がします。
60歳になって自分の人生を振り返った時、30歳頃に行った巌流島の決闘は特にどうということのない闘いだったのでしょうか?年寄りを相手に可哀そうなことをしたと悔やまれる思い出だったのでしょうか?卑怯なことをしたので思い出したくないことだったのでしょうか?
今となっては、誰にも分かりません。
まとめ
- 宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘は、慶長17年(1612年)4月13日、関門海峡に浮かぶ船島という小さな島で行われた。
- 武蔵と小次郎、それぞれの門人たちが諍いを起こしたため、二人は決闘することとなった。
- 一説には、武蔵の父無二と小次郎との因縁から決闘をすることになったとも言われている。
- 武蔵と小次郎の年齢差は、20歳~40歳。決闘当時、武蔵は二十代だったが、小次郎は50~70歳と推定される。
- 誰が小次郎のトドメを刺したかについては、文献によって違う。
- 『小倉碑文』では、武蔵の素早い一撃で小次郎が絶命したことになっている。
- 『沼田家記』では、武蔵の弟子たちが島に隠れていて、武蔵に負けた小次郎を弟子たちが打ち殺した、となっている。
- 『西遊雑記』では、武蔵に4人の弟子が加勢し、5対1で対決して討ち取った、となっている。
- そもそも決闘は無かったという説も有力である。
何度も映画化やテレビドラマ化されているのに、真相はこんなにハッキリしていないものだったとは正直驚きですよね。
江戸時代にも、歌舞伎『敵討巌流島』という形で、いわばドラマ化されています。小次郎(役名は佐々木巌流)は親の仇で、武蔵(役名は武蔵之助)が仇討をするという筋書きです。
最近の物は吉川英治の小説『宮本武蔵』がベースになっているようです。吉川英治の小説が大変面白いので、今回調べてみて最初は大変残念な思いがしました。
でも見方を変えれば、種々の文献に一貫性がなく信憑性に乏しいということは、作家の腕の見せ所であるとも言えます。時代に合わせて、大衆が喜ぶような解釈を加え、話を盛ることで、武蔵と小次郎の伝説は生き続けてきました。
伝説はフィクションでしかないわけですが、武蔵の時代の事実よりも、伝説が生き続けてきたことの方が歴史的な価値があるように感じました。歴史の魅力はロマンではないでしょうか!
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