安土桃山時代

森蘭丸の愛刀とその行方、また剣の腕前はどうだったのか?

投稿日:

歴史上に名を残す美少年、数多くいますよね。

源義経、天草四郎、沖田総司、そして森蘭丸。

とくに森蘭丸は歴史好きの間でもファンが多く(とくに女性ファン)、歴史ドラマでは必ずイケメン俳優が演じていますよね。

私も初めて森蘭丸の名前を知ったのは子供の頃に見たドラマだったので、森蘭丸=イケメンという刷り込みが出来上がっています。

そんな森蘭丸の愛刀には、歴史秘話があるそうなのです。

美少年の愛刀、ちょっと興味ありますよね。

どんな秘話なのか、調べてみました!

スポンサーリンク

 

 

森蘭丸の愛刀

実は森蘭丸の愛刀は残っていません。理由はもちろん、本能寺の変。本能寺と共に燃え散った蘭丸とともに、その愛刀も灰燼に帰してしまったのです。

惜しくも消えてしまったその刀は、なかなか有名なものだったようです。なんと、織田信長から褒美として下賜されたものだというのです。

その名は『不動行光』と言われています。不動明王が刀身に刻まれているから『不動』という名前だそうです。

「腰刀」と言われる短刀で、長さは一尺(約30cm)よりも短く、いつも腰に差して置ける程度のものだったようです。

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"]その姿がどのようなものだったのか、くわしく語られる文献は今のところ見つかってはいないようですよ [/voice]

 

 

森蘭丸の刀の秘密

森蘭丸の愛刀として知られる『不動行光』。

この名前は、行光という刀匠の作で、「不動」という銘が入っているということを端的に言い切った刀だということなのですが、実は『不動行光』は焼けていない、しかも現存するという説もあるのです。

この短刀の作刀者は、文永・元亨年間(1264年~1324年)、相州伝と言われる刀の打ち方を代表する名工、藤三郎 行光(とうざぶろう ゆきみつ)だということです。

ところが・・・この『不動行光』。実は織田信長から織田信雄へ、そこからさらに小笠原忠真へと贈られたという話もあるのです。

小倉藩の小笠原氏に受け継がれ、現在は個人所蔵になっているとか。

これは『不動』という銘の短刀が複数存在して、刀匠の名前が違っている(行光・貞宗・国行と三人)がそこをよく確認せず混同されている可能性があるということです。

[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r"]ええ?じゃあ森蘭丸の愛刀ではなかった可能性すらもあるってこと!?   [/voice]

 

『不動行光』は誰のもの?

そんな『不動行光』ですが、森蘭丸のものなのか、小笠原忠真のものなのか、はっきりさせたい!と思い、さらに調べてみると、信長が酔うと自分の持ち物を自慢したという話がありました。

「不動行光、つくも髪、人には五郎左(ごろうざ)御座候(ござそうろう)」

酔って機嫌が良くなると、そのように歌っていたそうです。なんだか信長の恐いイメージと違います。ずいぶんと陽気な人です。

不動行光はご存知の通り、信長が持っていた短刀。つくも髪とは、茶道具のうち茶入れの『九十九髪那須』のこと。五郎左とは丹羽長秀のことだそうです。丹羽長秀は織田四天王と言われた武将のうちの一人です。

「私・信長にはそれら自慢のものがございますよ~」と歌っていたということですね。

なんと、この信長のご機嫌歌のエピソードは『不動国行』のことを語る際にも出てくるというのです。

「不動国行、つくも髪、人には五郎左御座候」

そのように歌ったというのです。

信長が『行光』、『国行』どちらの『不動』も持っていたならば、『不動』が蘭丸と小笠原忠真と、二人とも持っていても問題はないように思われます。

それが『行光』か『国行』なのかというのは大問題なのですが。

 

『不動行光』は今は誰のもの?

『不動行光』が現存している?それじゃ、蘭丸の方が『国行』だったのか?というと、そうでもなさそうなエピソードがあります。

信長が蘭丸に『不動』を下賜することになった時の話です。

[aside]

信長が刀に刻んである意匠の菊の花弁が何枚か当てられたら、その刀をやろうと小姓たちにクイズを出したそうなのです。小姓たちはみんな口々に思った数を言いましたが、どれもハズレました。

その中で蘭丸が一人だけ黙っているので、信長がどうかしたのかと聞いてみました。

蘭丸は「殿から刀を持っているように承った際に数えたことがあります。それを覚えていましたので申し上げませんでした」と正直に言ったそうです。

信長は正直の褒美に刀を与え、それが『不動行光』だったという話なのです。

 [/aside]

こんな具体的なエピソード込みで語られる刀の名ならば、信憑性があるような気もするのですが、真相はどんなものなのでしょうね。

スポンサーリンク

 

森蘭丸の剣の腕前は

森蘭丸の父親は森可成という武将です。森可成は「槍の三佐」と言われるほど、槍を持ったら無双の武人だったそうです。

その子どもたちも腕は立ったそうで、森蘭丸はじめ、坊丸・力丸も、数々いる小姓の中でも、信長の身辺警護としての役割をよく果たしたとも言われています。

森可成の長男、森可隆は手筒山城攻めの際には一番乗りを果たすほどの腕の持ち主です。生まれながらに武術を叩き込まれていたのでしょう。

森蘭丸は織田信長を守って討ち死にしています。

明智光秀方の安田作兵衛という槍使いに討ちとられたのですが、この安田作兵衛は信長にも槍傷を負わせたというから、相当な腕前だったのでしょう。

この時、蘭丸は十字槍をふるっていたそうですので、刀自体の腕前については謎のままです。

十代前半から織田信長の身辺にいたため、戦に出た経験はなかったのではないかと思われますし、『不動行光』は実践には使われなかったのかもしれません。

 

そもそも森蘭丸って何ものだったっけ……。

蘭丸についておさらいしておきますね。

森蘭丸といえば、織田信長の小姓として有名です。織田信長の小姓は何人もいました。有名どころでは前田利家・堀秀政なども信長の小姓でした。

その中でも森蘭丸が抜群に有名ですよね。それだけ有能だったということもあるのです。

『信長公記』という資料によると、様々な使者として大名の元へ派遣されたり、面会者の用事を信長に伝えるような仕事をこなしていたようです。

残っている史料によると、かなり有能だったようなのですが、それよりも本能寺の変で織田信長と共に亡くなったというところが悲劇の美少年として名が残った所以なのかもしれませんね。

→ 明智光秀と織田信長は不仲?本能寺の変はなぜ起きたのだろう?

この本能寺の変の時に、同じく信長の小姓だった森蘭丸の弟、坊丸、力丸もともに亡くなっているそうです。

 

 

森蘭丸の愛刀について まとめ

[aside] 

・森蘭丸の愛刀は織田信長からのくださりもの。

・愛刀の名前は『不動行光』と言われるが確証が見つからない。

・森蘭丸の刀の腕前は上々だったのではないかと思いたい。

[/aside]

調べてみると、文献に載っている森蘭丸情報が、とにかく織田信長の文官としての活躍ばかりなので、武門における活躍が分かりにくいのでした。

そのため、『不動行光』の活躍も不明のまま。はたして『不動行光』は本能寺で焼け落ちたのか?巡り巡って現代にまで伝わっているのか?もしかしたら、本能寺跡の発掘を進めたら出土することもあるのか?

興味は尽きません。

歴史関係のニュースに注目して、続報を待つのも楽しいかもしれませんよ。

[kanren2 postid="1283"]

-安土桃山時代
-

Copyright© 【歴ペディア】歴史の人物、城、戦、ミステリーを分かりやすく! , 2023 All Rights Reserved.