[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]森蘭丸って美少年って言われるけど本当はどうだったんだろう?[/voice]
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"]ゲームでもマンガでもイラストでも美少年に描かれることが多いよね[/voice]
歴史に名を残すイケメン。その三大イケメンと言えばだれかと問われたら、私は答えます。
源義経、沖田総司、そして森蘭丸であると。
とくに森蘭丸は戦国時代好きな私にとって垂涎の的です。
あの織田信長に重用された有能さにくわえて見目も良いなんて、ずるい!と思うほど完璧超人ではないですか?
でも昔の人の美的センスは現在とは大違いと言いますし、どんな容姿だったのか知る方法はないものか。
ちょっと調べてみました。
森蘭丸の写真ってあるの?
容姿について知るために、写真があれば一目瞭然ですよね。ですが、戦国時代の日本に写真の技術はありません。写真が発明されたのは1827年のフランスです。
それ以前、16世紀ごろにはカメラ・オブスクラとかカメラ・ルシダなどと呼ばれる立体物を写実的にトレースするための機械が発明されていたそうですが、残念ながらそういった機械を日本に持ち込んだ南蛮の宣教師や証人はいなかったようです。
じゃあ絵や肖像画は残ってないの?
ずばり。森蘭丸の肖像画は残っていません。
戦国時代にはまだまだ紙も絵も高価なものだったわけです。
それをおしてまで武将が自分の小姓の絵を残すとなると、相当の熱の入れようだったということになるのではないでしょうか。
いくら優秀、いくら美少年といえども、お金があってもあっても足りない戦の時代に美術品となるほどの絵には出来なかったのではないでしょうか。
後年、江戸時代以降ですが、浮世絵だとか錦絵だとか、明治以降の時代絵だとかで描かれるものはすべて想像の産物。妄想とも言えるかもしれません。
「織田信長の愛した小姓なら美少年に違いない!」という期待から描かれたものなのですから。
そんななか、ネットで森蘭丸だとして出回っているその絵の中、その小姓さんは下ぶくれの顔で、あまりに残念過ぎます。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l fb"]森蘭丸のビジュアルがわかるようなモノは実は残っていないんです。美少年と描かれているのは全てイメージに過ぎません・・・という衝撃の事実[/voice]
森蘭丸が美少年だという逸話
調べてみて愕然としました。
森蘭丸が美少年であったという史料は無いそうなのです。
そもそも森蘭丸について書かれている史料自体が少ないのです。
信長の小姓としてどのように働いたかが『信長公記』という史料で見ることができるくらいで、容姿についてはさっぱりわかりません。
ただ、その行いはとっても優秀。有名な逸話があります。
森蘭丸・優秀なんだぜ1
信長が出したクイズの正解を知っていたので、ほかの小姓が答えていく中、じっと黙っていました。
黙っていた理由を知った信長から褒美に刀をもらっています。
森蘭丸・優秀なんだぜ2
ある時、信長が「障子を閉めてこい」と命じ、蘭丸が行ってみると障子は閉まっていました。
蘭丸は閉まっている障子を音をたてずに開け、音高く閉めました。
信長が閉め忘れたと思っていたこと(勘違いをしたこと)が他の人に知れないようにとの気遣いでした。
森蘭丸・優秀なんだぜ3
信長が切った爪を扇に乗せて捨ててくるようにと言いつけると、蘭丸は立ち止まり言いました。
「殿、あと一つはどこですか?」
爪が9つしかないことに気づき、室内を探したといいます。
森蘭丸・優秀なんだぜ4
蘭丸が台に乗せた大量のミカンを運んでいる時に信長が言いました。
「そなたには重いのではないか。たおれるぞ」
その言葉通り、蘭丸はすってんころりと転びました。
その後、みかんを信長に献上した人が信長の前で転んだ件について慰めようとすると蘭丸は言いました。
「殿がたおれるぞとおっしゃったのに、その通りにならないと殿のお眼鏡違いということになります。そのためわざと転びました」
わりと、あざとい蘭丸くんです。
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/1037518.jpg" name="天草 ゴロー" type="r fb"]森蘭丸、美少年かどうかは分かりませんが、非常に有能であったのは間違いないようです、信長に重宝されるくらいですから、かなりの有能ぶりです[/voice]
森蘭丸が美少年ではなかった可能性
どうやら森蘭丸が美少年だったというのは、後年作られたイメージだったのではないかという気がしてきました。
それどころか、筋骨隆々とした青年だったのではないかという気さえしてきたのです。
その理由が、森蘭丸の父・森可成と次兄の長可。
もともと蘭丸が信長の小姓になったのは、父の森可成が信長の重臣であり、戦で数々の功を挙げ戦死した可成の遺児であったためであろうとも言われています。
そんな森可成は槍の名手で「攻めの三左」という二つ名を持つほどの人物です。自分の息子たちにも武術の鍛錬はさせて当たり前。
その森可成の次男・森長可。
長可は「鉄面頬いらずの鬼武蔵」と言われるほどの凄い顔だったそうです。
面頬とは顔の下半分を覆う武具です。戦場で敵を威嚇するために恐い表情です。その面頬がいらないほど怖い顔だったのです。しかも、鬼武蔵と言われるほどの武勇がありました。
そんな兄と同じ遺伝子を持つ森蘭丸。信長の小姓になったのは12歳の時。当時の成人は15歳。すでにバッキバキに鍛えていたかもしれません。
実は”名前”も美少年感が無かったかもしれない・・・
それと蘭丸の美少年感を醸し出している『蘭』の文字。この文字、戦国時代には使われていなかったのです。当時の史料によると森蘭丸は『森成利・乱』と書かれているのです。
乱丸・・・・ぜんぜん美少年感がありません。
そもそも、信長に小姓として仕えていたのは蘭丸だけではなく、弟の坊丸、力丸もいたのです。
■1『蘭丸・坊丸・力丸』
■2『乱丸・坊丸・力丸』
どう見ても、2『乱丸・坊丸・力丸』の方が字面から見て兄弟らしさがあります。乱丸、美少年ではなく美丈夫だったのでは疑惑が浮かびました。
美丈夫とは、美しくりっぱな男子のこと。ただ、美しさの基準は時代によって変わります。さらに言えば、誰から見ての美しさなのかという問題もあります。もしかしたら、織田信長にとっては森蘭丸はとっておきの美少年だったのかもしれません。
森蘭丸が織田信長に重用された理由
織田信長は優秀な人間、変わったことができる人間が大好きでした。
森蘭丸はそれはそれは有能だったようです。
数々の知恵をきらりとのぞかせる逸話だけでなく、使者として各国に派遣されたりもしていましたし、そもそも小姓には身辺警護の親衛隊の役目もあります。腕もたったはず。
それだけではなく、夜伽の役目も大いに果たしたのではというのも、後世の妄想ですが、ちょっと気になる情報です。
戦国時代の衆道文化
戦国武将と美少年を語るうえではずせないのが『衆道』。
衆道とは男色、男性同士の恋愛のことですが、これが武将の間では一般的だったそうです。
男色に興味がなかった豊臣秀吉などはかえって珍しがられたそうです。
小姓とは主君のそばに付き従い続けるのですが、夜の床のなかにもご一緒していたんですね。
織田信長の小姓の中には、小姓仲間同士で嫉妬の末に死傷事件を起こすものまでいたそうです。
命がけの職業、小姓。腕が立たなければ重用されても命が危ない可能性があったのです。
細面の美少年は想像しない方がよさそうです。
余談ですが、最強と名高い上杉謙信も美少年好きとして有名です。
→ [kanren2 postid="105"]
森蘭丸の写真や肖像画はあるのか まとめ
[voice icon="https://rekisi-omosiroi.com/wp-content/uploads/2018/05/2018-05-27_21h45_18.png" name="万 利休" type="l"]美少年じゃない可能性が圧倒的に高そうですね^^;[/voice]
[aside]
・写真が発明されるのはずっとあとのこと。
・肖像画を残せるほど出世できるほど長生きできなかった。
・美少年だったか!?というと、どうも違うのではないかと思われる。
[/aside]
日本人は判官びいきが多いと言います。悲劇の主人公を愛する気質が昔からあったのですね。
歴史上の美少年とされる人たちはみんな薄幸。源義経、沖田総司、そして森蘭丸。みんな若くして亡くなっています。
生きていれば大人物になっただろうに、と惜しみたくなるような才能の持ち主であったことも間違いありません。
もし森蘭丸が長生きして立派な武将になっていたら、きっと肖像画も残っていたでしょう。そうすれば美少年だったかわかった……、かどうかはわかりませんね。
肖像画に描かれるのはおじさんになってからでしょうから。
美少年・森蘭丸。
実際にどうだったかは追求せずに、胸の中にそっと秘めておいた方がよさそうです。