鳴くよウグイス平安京(794年)。
いい国作ろう鎌倉幕府(1192年)、あるいは、いい箱つくろう鎌倉幕府(1185年)、遺産散々鎌倉滅亡(1333年)。
歴史の語呂合わせ、学生時代にさまざまのものを覚えました。
ただ、覚えているのが、なぜか鎌倉時代までなんです。
その後の南北朝時代、室町時代、戦国時代、江戸時代……。
ひとつも語呂合わせを覚えていないのです!
おかげでその時代になにがあったのかもさっぱりわかりません。
語呂合わせって本当に便利なものだったんだなあって、しみじみ思います。
そんなわけで覚えそこねた語呂合わせと共に、室町幕府の簡単な歴史と滅亡までをササッと見ていきたいと思います!
足利将軍家は非業の家系! 滅亡までのカウントダウン!
義昭は幕府ほろんで以後なみだ(1573年)
1573年、15代将軍・足利義昭が織田信長によって京都から追い出されてしまい、この年が幕府滅亡の時といわれています。
なぜ織田信長に追い落とされたかというと、少々、込み入っています。
義昭の一代前、足利義輝の時代には将軍職は名前だけ、政権は三好家が握っていたのです。
三好政権の重臣が相次いで亡くなり、政権の力が弱まったのを見て取った14代将軍・足利義輝が動きました。
将軍家に好意的な各地の戦国大名の力を借りて将軍の権威を回復しようとしていました。
ところが三好政権の実力者が御所を襲撃して足利義輝は大勢の幕臣と共に殺害されてしまいます。
永禄の変と言われる三好家の下剋上です。
義輝の死後、次の将軍は弟の足利義昭になるはずですが、京都には三好家が居座っていて単身出向こうものなら殺害されるのが目に見えています。
そこで有力大名に頼ることになりました。
足利義昭が将軍職に就いたのは織田信長の後押しがあったからなのです。
織田信長に守られて京都に赴き、三好家も従えることができ、無事に将軍に就任しました。
室町幕府の最後はどうなったのか?
無事に将軍になれたと言って、足利義昭は安心してはいられませんでした。
味方をしてくれたはずの織田信長が、将軍職に頼らない新秩序を目指して政治の世界に首を突っ込んできたのです。
室町幕府にも、あれやらこれやら様々な要求を突きつけます。
足利義昭にしてみたら、むかっ腹が収まらないというものです。
両者は対立しましたが織田信長の力に対抗できるはずもなく、義昭は京都から追い出されてしまいました。
この年が1573年。
義昭は幕府ほろんで以後なみだ(1573年)なのでした。
足利義昭はあきらめない!
室町幕府は京都から足利義昭が追い落とされた時に終わったとされていますが、足利義昭は終わるつもりはありませんでした。
中国地方の有力大名・毛利家に身を寄せます。
織田信長と敵対関係にあった毛利輝元が支配していた備後の鞆の浦に腰を据えて、そこから各地の大名に働きかけます。
征夷大将軍の地位を保ち続けていた足利義昭に従う大名は多く、織田信長征討活動は長い期間おこなわれていました。
織田信長が本能寺の変で討ち死にすると、その後の権威を豊臣秀吉が引き継いでしまい、関白という官位を勝ち取った秀吉には逆らわず、足利義昭は京都に戻り、将軍職を辞任しました。
滅亡したあとの将軍家の行く末は、とっても可哀そう!?
さて、一見、敵対していたのかとも見える豊臣秀吉と足利義昭ですが、じつはとても良い関係を築いていました。
足利義昭が京都に戻れたのも、豊臣秀吉の許可があったからです。
秀吉が関白、義昭が征夷大将軍と二人とも朝廷に出仕できる身分であった期間が二年間もありました。
足利義昭は島津家と親交があり、秀吉が九州平定するときには島津へ和睦を勧めてもいます。
島津家が秀吉に帰順してから足利義昭は京都へ戻り、将軍職を辞任しました。
その後、豊臣秀吉から少ないながら1万石の領地を与えられて前将軍として敬われました。
文禄慶長の役にも乞われて出陣したり、秀吉の御伽衆として仕えたりと、しっかりとした働きを続けたそうです。
たった1万石といえども、朝廷内では前将軍として大大名以上の扱いも受けていましたし、悪くない老後だったのではないでしょうか。
義昭の子孫はみんな僧籍に入ったため、足利家は断絶しているそうです。
そもそも室町幕府ってなんだっけ?
江戸幕府は徳川家ですよね。
鎌倉幕府は源家と北条家。
じゃあ、室町幕府は? ぜんぜんわかりません。
そこからもうダメなので、歴史をおさらいしてみます。
◆1333年、鎌倉幕府の滅亡・遺産さんざん鎌倉幕府。
蒙古襲来のあと、活躍した武士に対する恩賞が足りず、武家から鎌倉幕府への不満がつのりました。
そんな時に後醍醐天皇が倒幕運動を開始。
挙兵した足利尊氏たちによって鎌倉幕府はたおれました。
◆1334年、南北朝時代の始まり・後醍醐が、いざ見よ建武の新政治。
後醍醐天皇が無事に鎌倉幕府をたおして天皇政治に戻したのですが、武家から不満続出。
足利氏が武家中心の政治を目指して光明天皇を擁立しました。
◆1336年天皇が二人いるという異常事態に。・いざ見ろ分裂南北朝。
◆1338年、室町幕府成立・尊氏が、いざ見渡せば将軍に。
足利氏が室町に幕府を開きます。
相変わらず天皇は二人いますが、政治は足利氏が中心になって動かしていました。
◆1573年、室町幕府滅亡・義昭は幕府ほろんで以後なみだ。
大名がしのぎを削る戦国時代。
織田信長が上洛して足利氏を京都から追い出したことで室町幕府は滅亡したということです。
室町幕府の将軍家はココだった!
さらっと歴史をおさらいしてみましたが、そう言えば、足利氏っていう名前には聞き覚えがありました。
足利尊氏。この人物が征夷大将軍に任命されたのが室町幕府の始まりだそうです。
以降、室町幕府が滅亡するまで、代々、足利家が征夷大将軍を務めています。
室町幕府の成立はいつだっけ?
では室町時代は室町幕府が成立した1338年なのかというと、違うという説もあるそうです。
足利尊氏が光明天皇を擁立した1336年。この年に「建武式目」という室町幕府の施政方針を記した文書を残しています。
その文書がすでに室町幕府としての権威をもっていたとして成立年とする考え方だそうです。
とりあえず室町幕府の成立は、いざ見ろ分裂南北朝(1336年)、尊氏が、いざ見渡せば将軍に(1338年)のどちらかですから、二つとも覚えちゃえばいいですよね!
室町幕府滅亡の理由はなんだったのか まとめ
- 永禄の変で三好家からボロボロにされたこと。
- 織田信長と対立したこと。
- 豊臣秀吉が将軍職より上級の関白になったこと。
おもに3つの理由で足利家は室町幕府を閉じることになったのでした。
大名の台頭によって時代が変わっていったために権勢を維持することができなかったんですね。
鎌倉幕府を倒した時のような軍事力を手放していたことが要因の一つだったような気もします。
征夷大将軍という職掌を有名無実なものとせず、武士の頭領として目を光らせていれば、もう少し室町幕府も長く続いたのではないでしょうか。
歴史に「たられば」はありませんが、室町時代に文化活動・商業活動が活発になったことを見ると、もう少し室町時代が続いていれば、日本の美術界や外国との交流による文明の進歩が速かったのではないかと思います。
それがいいのか悪いのかは、誰にもわからないのですが。
覚えていなかった室町幕府のことを少しは理解することができました。
歴史はくりかえすと言います。
室町幕府滅亡の理由を覚えておくことで、日々の生活が崩れていくことを食い止められる日が来る……!?
かもしれません。