みなさん、室町時代ってどんなイメージがありますか?私は「地味だけど品があって、なぜか心惹かれる」って感じですね。おそらく今から20年以上前に放送された大河ドラマ「花の乱」の影響でしょうか。笑
大河ドラマらしからぬ、フィクションとノンフィクションを混ぜたような妖しく幻想的なドラマで、一般受けはしなかったようで低視聴率を記録してしまうほどでした。苦笑 知らないという方は、DVDやyou tubeにも上がっているので、ぜひご覧いただきたいですね。必ずハマリます。笑
さて、今回はそんな地味だけど独特な室町時代を「文化」「生活」「特徴」に3つのキーワードに分けてご紹介してまいります!
室町時代の文化
武士と公家の融合文化がここに誕生!
室町時代の文化は、一言でいうと「武士」と「公家」の文化や、明(現在の中国)などの大陸文化などが融合された文化でした。室町時代以前は、鎌倉で執権独裁政治をやっていた北条氏に不満を持つ武士たちを束ねた足利尊氏らによって、北条氏が滅ぼされ、新たに、「天皇が二人いる」という前代未聞の南北朝時代に突入。
南北朝時代も、時の後醍醐(ごだいご)天皇が、武士をそっちのけにして、「公家」中心の政権を作ってしまったため、足利尊氏および地方の武士たちは激おこに。笑 それで、「武士中心の俺たちの時代を作ろう」と足利尊氏を筆頭に天皇に反旗をひるがえし、天皇政権を倒した尊氏は、征夷大将軍に任命され、京都の室町通に居を構えたことから、「室町幕府」と呼ばれるようになりました。
ようやく平和な時代が訪れ、乱世ではなくなったので、文化が華開いた時期でもありました。それまで、身分が低かった農民や商人たちの交流も盛んになりました。武士も公家も、農民も商人も同じ人間であると、それぞれの立場はあるものの、差別することなく平等となった「奇跡の時代」だと私は思いますね。
北と東の2つ文化?
室町文化は大きく2つに分けられます!最初は、室町幕府3代将軍・足利義満が築いた「北山文化」からご紹介!あらゆるジャンルがあるので、まずは「建築物」から。なんといっても、「金閣寺」!みなさん旅行などで一度はご覧になった方も多いのではないでしょうか。
前面金ぱくが散りばめられた豪華な建築物!寺っていうので、お坊さんがお経をあげたり禅をやったりするのではないかと思いきや、なんと義満の「別荘」だったのです。笑
「どうせ別荘なら豪華にしゃちゃえ!」と義満思ったのでしょうか?
実は、金ぱくをつけたのは義満ですが、もともとは西園寺公経という公家から譲りうけた寺でした。西園寺が所有していたときもどうやら別荘として利用されていたみたいですね。
金閣寺は、「寝殿造」と「禅宗様」が融合された建築物でした。寝殿造は、平安時代からの古い造りの建築様式で、禅宗様は、「禅宗」との言葉の通りに、寺院建築で用いられた建築様式。鎌倉時代の初め頃から禅宗の寺で用いられたのが、始めだったので、古い文化と新しい文化の融合が、北山文化でした。
絵画に関しても、特徴があります!いわゆる「水墨画」が最盛期をむかえた時代でもありました。水墨画は、読んで字の如く墨をぼかして、色の明暗や濃淡を表現した画法でした。
室町幕府将軍の足利家が、禅宗を庇護したことによって、禅宗文化が栄えたのですね。すると、多くの画僧(お坊さん兼画家)が現れます。その中の一人が、有名な「雪舟」でした!もしかすると、幕府が禅宗を庇護していなかったら、画家・雪舟は誕生していなかったので、人生ってわからないなあと思いますね。
現代の「能」の誕生
次は、「芸能」です。現在の「芸能界」という言葉も「芸能」から由来します。芸能の意味の発症は、古代の古墳時代、朝廷が京の都ではなく、大和朝廷といわれた時代の祭りの際に踊られた「舞踊」が芸能のもととなりました。
その後、この儀式が神殿で行われる神楽(かぐら)と呼ばれる、神に祈りを捧げる歌舞へと変化して、平安時代には「猿楽」「田楽」という踊りが誕生するきっかけともなりました。
この猿楽から発展したものが、現在も続いている「能」なのですね。能の原型を作ったのが、「観阿弥」・「世阿弥」親子です!父の観阿弥は、いわば「革命児」でした。それまで京の都では、猿楽より田植えの豊作を祈るための踊りから発展した「田楽」のほうが人気だったのです。
室町幕府初代将軍・足利尊氏も田楽を後援していて、猿楽の人気はイマイチでした。しかし、三代将軍・足利義満の代になって、観阿弥、世阿弥親子が踊った猿楽能を義満が見物したことによって、猿楽の人気が高まるのです。
その後、将軍のみならず、京の公家たちや武士たちの間にも広まり、観阿弥が率いた「観世一座」は幕府お抱え一座となっていくのです。そもそもなぜそこまで人気が出たのでしょうか?
座長だった観阿弥は、物まねを得意としており、プラス、ライバルである田楽の優雅な舞を取り入れてしまったのです!自分の得意な物とライバルの持ち味を融合させてしまったのです!観客たちは「今までこのような舞台は見たことない!」って食いつくわけです。
その後、継いだ息子の世阿弥は、義満から寵愛を受けるのです!一説によると、世阿弥は絶世の美少年だったらしく、世阿弥に義満は一目ぼれするのですよ。世阿弥からした気の毒ですよね。まだ12歳の少年だったので。苦笑 このようなシチュエーションだと、義満はさぞおじさんなのではと思いきや、義満もまだ17歳の青年将軍でした。つまり、BL顔負けな世界が、すでに室町時代に展開されていたのです。苦笑
当時、猿楽師というは「乞食」のやる仕事と差別を受けていました。教養もなにもなかったわけです。そこで、世阿弥の庇護者となった義満は「愛」だけではなく、「学問」も身につけさせるのですね。
そこで、義満の世阿弥の寵愛ぶりに、側近たちが嫉妬するわけですよ。「なぜ乞食の子供なんてかわいがるのか!」って。周りの嫉妬もなんのその、自身の芸に精進するのです。
21歳の時に、父の観阿弥が旅先で急逝し、世阿弥が観世流2代目を継ぎます!父が亡くなり、一層世阿弥は芸を磨き、それまでの大衆演劇的な猿楽ではなく、幽玄な世界を取り入れた舞台に変化させていき、隆盛を極めます!
しかし、最大の理解者である義満の嫡男・義持が4代将軍に就任すると、立場は急転します。義持は父の義満とは反対に田楽の方を好む人でした。義満時代ほどの利益を得ることはできなくなったのです。
しかも、義持の弟・義教が6代将軍なると、弾圧されるようになり、世阿弥は失意の中、長男・観世元雅に後を譲ります。しかし、義教は世阿弥のいとこ・音阿弥に寵愛を注ぐようになり、ますます、世阿弥・元雅親子の立場はなくなります。
さらに、世阿弥は悲劇が見舞われます。息子の元雅が公演先で客死してしまうのです。悲しみにふけるのも束の間、世阿弥自身が、義教の命で佐渡島へ流罪されてしまうのです。
その後、世阿弥も流転の人生を閉じるのですが、能楽に関する書物をまとめていたので、今日まで「能」が語り継がれたわけです。観阿弥・世阿弥親子の波乱の人生を知ってから能に対する見方が私は変わりましたね。
ここからは、もう1つの「東山文化」についてご紹介!
東山文化
北山文化に対して、東山文化が代表的な室町時代の文化になります。東山文化の中心人物となったのが、8代将軍の足利義政でした。
義政は、将軍だけど政治に全く興味なく 笑 芸術大好き人間だったのです。その上、将軍家の後継ぎ問題を発端とした「応仁の乱」を引き起こしてしまいますが、本人は我関せずで、あらゆる芸術に没頭します。それこそ、文化人の家に生まれたら最高な人だったと思います。
そんな混沌とした時代に誕生したのが、有名な「銀閣寺」です。東山文化全体にいえることは「地味」なのです。その地味さが「わび」「さび」が生み出したのです。義満が追及した「北山文化」の派手さとは対照的なのですね。
本当は、銀閣寺も金閣寺みたいに、「銀ぱく」を塗る予定だったのですが、応仁の乱がありとても銀ぱくを調達するお金が幕府にはありませんでした。なので、銀閣寺といいながら「銀」には見えないのです。
しかし、義政は裏技を考えついたのですね。日光の加減によって漆黒の外壁が「銀」が見えるように造設したのです!そこは、所説ありますが、義政の芸術にかける執念を感じましたね。
応仁の乱が長きに渡ったため、京の都は荒廃してしまうのですね。それで、続々と文化人は地方の守護大名に避難したことによって、京の室町文化が地方へも広まります。内乱によって、地方に芸術文化が広まる。なんとも皮肉ですね。
この時期広まった芸術文化の中で、代表的なのは、絵画の狩野派です。「狩野正信」という人が狩野派の始祖なのですね。正信は、6代将軍・義教に仕えていた人物で、幕府お抱えの「御用絵師」でした。義教に愛された正信と嫌われた世阿弥。ジャンルは違えど、明暗分かれた二人の芸術家。人生って不思議ですよね。
画風としては、日本古来の大和絵って感じではなく、漢画(中国的な画)な水墨画が特徴で、なんとこの狩野派は、室町時代から明治時代まで続いたのです!大したものです正信。笑
私は、正信のほうが生き方上手だった気がします。判官びいきの日本人として世阿弥のほうが受けそうですね。会社でもそうですよね。先代社長の側近たちが、新社長になって一新されてしまったとか。新社長の側近たちがいきなり重要ポストにつく。室町時代にも、そのような構図があったのではと思いますね。
建築物だけではなく、「茶道」にも力を入れていた義政。「村田珠光」という人に師事していたのです。珠光って人聞きなれない人ですよね?僧侶であり、茶人である珠光は、一休さんでおなじみの「一休宗純」の弟子でした。
現在では考えられないですが、室町時代以前は茶の湯の席で飲酒や博打が行われていたのです!それを、珠光は禁止して、主人と客との心の交流を重視する世界を作りあげました。これが「わび茶」の始まりだったのです。イメージ的に酒とお茶は合わないし、博打しながらお茶を飲むってなんとなく嫌ですよね?珠光様様です。笑
続いて、室町時代の人々はどのような生活をしていたのかをご紹介!まずは、庶民である農民などはどう暮らしていたのか迫ってまいります!
室町時代の生活
平安時代は、貴族中心の時代でしたが、近代の明治時代以前で一番庶民が中心となった時代が「室町時代」なのです!田んぼには神様が宿るとされ、子供から大人まで一丸となって、田植えをしていました。単なる仕事って感じではなく、夏祭りのような一大イベントだったようです。
食事に関しても、1日2食の食事が室町時代から3食に変わったのです。応仁の乱などの乱世が続き、「腹は減っては、戦はできぬ」の言葉のように1日2食ではお腹が空いてしまうため、3食へ変わったそうです。
さらに、米に欠かせない味噌汁も室町時代に誕生しています。それまで、おかずとして食べられていた味噌ですが、同時期に誕生した「だし」によって、「汁にしてみたら美味しそう」となったわけです。私も味噌汁がないと物足りなさを感じるので、考えた人天才って感じですね。笑
続々と「村」が誕生したのも室町時代なのです。みなみな自主的に行動して、どのように村を運営していくか、日々話し合いを行って村を存続していったのです。それが、「惣寄合」と呼ばれるものでした。京の都は戦いで荒れていたけれど、地方に関してはけっこうみんな生き生き暮らしていた感じがしますね。
武士たちは暮らしは?
続いて、武士のほうはどうなのでしょうか?鎌倉時代までは、地方で暮らしていた武士たちも、室町時代になり、京の都を守るための守護職の関係上、地方に住んでいた武士たちが一斉に京に住み始めました。応仁の乱までは、優雅なもので、自宅に文化人を招いて、茶道や歌会などに親しんだりしていました。武士が公家化していきました。
最後に、室町時代の特徴についてご紹介します!
室町時代の特徴
応仁の乱を境にガラッと変わった?
幕府の後継ぎ問題に端を発して「応仁の乱」が勃発。急速に幕府の権力が弱まり、京の都や各地の治安維持を担っていた、守護が力をつけ「守護大名に」に新化していったのです。
室町幕府は幕府でありながら、ほとんど機能していなかったのです。6代将軍の義教は、暗殺、その息子である義勝は幼くして赤痢により病死、義勝の弟である義政が、8代将軍に就任しますが、当初は少年将軍だったため、権力などありません。次第に、守護たちは「将軍なんて名ばかりだ!あーやってられない」となったわけです。
室町幕府は15代まで続くわけですが、実質権力があったのは、3代将軍の義満ぐらいまででした。戦乱で京の都が衰退してしまったのは、残念ですが、その変わり文化面が華開いたのは不幸中の幸いでしょうか?
まとめ
- 室町時代の文化は、武士と公家が融合した文化で主に3代将軍・義満の頃に生まれ、能や水墨画などが誕生した「北山文化」、8代将軍・義政の頃に生まれ、わび茶などの東山文化が代表的。
- 生活模様に関しては、農民たちは子供まで田植えをするのが当たり前となり、現在の「村」が出来上がったのもこの時代。それぞれ話合いが持たれ、村を運営するなど自治的な集団と化していた。食事も1日3食へ変化し、味噌汁が作られるようになった。
- 室町時代の特徴は、応仁の乱を境として、守護が権力を持ち始め守護大名と変化していき、後の戦国乱世のきっかけとなった。
ちょっと地味でとっつきにくい「室町時代」ですが、よくよく調べてみると、実に奥が深いのですよ。もう一度宣伝します。大河ドラマ「花の乱」は、そんな地味な室町時代を幻想的、耽美的に描いた隠れた名作なので観る価値ありです!