「鎌倉幕府」は鎌倉にありました。「江戸幕府」は江戸にありました。
では、「室町幕府」はどこにあったでしょうか?
「はい!室町だと思います」
「室町はどこにありますか?」
「えっと……、日本」
そんな残念な地理の認識しか持っていない私。
室町は、なんとなく、関東にあるような気がしているのですが……。
だって鎌倉も江戸も関東にあるじゃないですか!
でも、そんな曖昧な状況では、もしクイズを出されても答えられません。
未来のクイズ王目指して、「室町幕府」はどこにあったのか、はっきりさせましょう!
室町幕府の場所はココだ!
それでは、そんなわかりにくい歴史を刻んだ室町幕府はいったいどこだったのか?
というと、京都でした。めっちゃ関西!
京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅です。
上記の地図の赤いサインの場所にありました。
京都御所の北西です。
室町幕府3代・足利義満が建てた邸宅です。
その建物が室町通りに面してあったことから「室町殿」と呼ばれて、室町幕府の名前の由来になりました。
花がたくさん植えられた庭園の美しさから「花の御所」とも呼ばれました。
「御所」とは天皇・皇族・将軍など身分の高い人の住まいを指す言葉です。
また、その御所に住まう人そのものを指すこともあります。
たとえば、足利義満の息子・義嗣の子孫は鞍谷御所と呼ばれたそうです。
鞍谷氏というよりも鞍谷御所といった方が丁寧だったのでしょうね。
「大御所」という言葉が現代でも使われますが、もとは隠居した御所のことだったそうです.
おもに武家の隠居者に使われる言葉だったそうですが、時代が下ると、前将軍のことを指すようになったそうです。
東西1町、南北2町ほどの広さだったと言います。
1町は今でいうと約110メートル。かなり広い邸宅だったようです。
当時、天皇が住まっていた御所よりも広かったとか。
室町御所の現在はこんなことに!?
そんな室町御所、別名・花の御所ですが、現在も残っているのかというと残念ながら見ることは出来ません。
度重なる戦火で焼け落ちては再建し、再建しては焼け落ちるということを繰り返したそうです。
そのため、遺構は残っていないそうなのです。
江戸時代には花の御所跡地に公家の裏辻家と錦織家の邸宅が立ち、今出川通と室町通りに面しては商人の町家が立ち並んでいたそうです。
ですが、ただひとつ。
大聖寺というお寺が、花の御所内に建てられた岡松殿という建物だったそうです。
足利義満が、正室の姪にあたる大聖院無相定円尼という尼を岡松殿に住まわせたのですが、この女性の遺言によって、岡松殿はお寺となりました。
尼の法名からお寺の名前は大聖寺になったということです。
また、足利将軍室町第跡という石碑が、花の御所の東北角に立っているようです。
住所は、上京区室町通今出川上ル東側。
京都らしいわかりやすい住所ですね。この場所に立って、そこから東西に110メートル、南北に220メートル歩いてみると、花の御所の広さを体感することができますよ。
どうしても花の御所を見てみたい!
実際の建物は残っていませんが、美術品の中に描かれている花の御所が見つかっています。
狩野永徳筆 国宝「洛中洛外図屏風」。
この六曲一双の屏風には京都のきらびやかな屋敷がいくつも描かれています。
そのなかに花の御所も描かれているのですが、見える植物は松だけのようです。花は描かれていません。残念です。
米沢市上杉博物館所蔵だそうですので、山形県米沢市に行った際には足を運んでみるのもいいかもしれません。
そもそも幕府って何?
その前に、幕府ってなにか知りたいです。
「鎌倉」も「江戸」も地名で間違いないでしょう。
では、幕府ってなにものでしょうか?
Wikipediaによると、「幕府は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。」
「幕」は「陣幕・天幕」を意味し、「府」は王室等の文書や宝物を置くところだそうです。
中国の戦国時代、王に変わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことが由来だとか。
日本においては首長がいる場所・屋敷だけでなく、政権の名称という象徴的な使われ方をするようになっていますが、これは江戸時代中期以降のことだそうです。
それまでは、鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も場所を指していたようです。
「江戸幕府」は江戸城。「鎌倉幕府」は鎌倉そのものが城と言われています。
それならば「室町幕府」も室町にあったのでしょうか?
日本の歴史上の幕府は3つだけ?
今、3つ幕府の名前をあげましたが、これ以外に日本に幕府はあったのか?
と調べてみると、きちんとした政権をもったのは「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」だけだったようです。
ですが、一時的に将軍が移動して、そこが「幕府」と呼ばれることがありました。
「鞆幕府」と「堺幕府」がその臨時幕府です。
「鞆」というのは備後国、現在の広島県福山市の地名です。
室町幕府15代将軍・足利義昭が織田信長と険悪になり、京を追われて毛利氏の庇護下に入りました。
その時にも足利義昭は征夷大将軍としての政務を行っていたので、「鞆幕府」という呼び名があったようです。
「堺幕府」は室町幕府11代将軍・足利義澄の長男・足利義維がいた堺で幕府同様に文書を発給していたことから生まれた呼び名だそうです。
足利義維は室町幕府12代将軍・足利義晴と敵対しており、室町幕府に対抗するための施策だったのかもしれません。
室町幕府って授業で習ったっけ……?
はるか昔、歴史の授業では室町時代というと、なぜか武家社会におけるなんだかんだよりも、文化や建築物、商業にスポットライトが当たっていたように思います。
南北朝時代についてはなんとなく教わった記憶があるのですが、室町幕府については初代と最後の15代将軍の戦いくらいしか覚えていません。
どうしてだろう、と年表を見てみたのですが、どうやら室町時代は室町幕府と諸国で力をつけている守護大名達との抗争が相次いだようなのです。
しかも、その守護大名家の大部分が歴史の第一線から退いています。
足利将軍家もお家騒動の山ですし、戦いにスポットを当てると、なにがなにやらわからなくなってしまうのではないでしょうか。
この期間には文化的な要素が、より重要だったということなのでしょう。
まとめ
- 「室町幕府」とは、京都の室町通りに面した足利家が住まった邸宅を指す。そこから派生して、室町時代の足利政権のことも「室町幕府」と呼ぶようになった。
- 室町幕府の住所は上京区室町通今出川上ル東側から南西に向かって、東西110メートル、南北220メートルという広大な敷地。
- 現在、室町幕府の建物・室町御所の遺構は見られないが、大聖寺は室町幕府時代の創建の寺。また、足利将軍室町第跡の石碑から歩くことで花の御所の広さを体感できる。
「室町幕府」が建物そのものを指すということを初めて知って驚きました。
また、花の御所というきらびやかな名前と武家政権のアンバランスさに、公家社会から武家社会への本格的な移行も感じられるように思います。
「室町幕府」つまり「花の御所」は戦火の中に消えてしまいましたが、その土地にはさまざまな歴史が刻まれて、屋敷の姿は見られなくても、今でもここが花の御所だったと言い伝える人がたくさんいるんですね。
室町幕府の勃興を思いながら室町散歩するのも楽しいかもしれません。