室町時代

室町時代の出来事を年表形式で分かりやすく

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室町時代に起きた出来事を、年表形式でご紹介していきます!

室町時代って実は前半と後半で、それぞれ南北朝時代と戦国時代と被っているのです。

実質、正式な室町時代は、約80年余りで意外と短い。なので、最初は室町幕府誕生からご紹介!

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暦応元年 湊川の戦い

鎌倉幕府崩壊後、「建武の新政」がスタートするが、後醍醐天皇及び側近たち中心の政権だったため、地方武士を中心に不満が爆発。足利尊氏・直義兄弟vs後醍醐天皇を崇拝していた、新田義貞及び楠木正成らが、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区)で激突した権力争い。

 

暦応元年 戦いに勝利した足利尊氏が都に幕府を開く

戦いに勝利した足利尊氏が、京に入京して征夷大将軍に就任。京の都の「室町」に幕府を開く。敗れた後醍醐天皇は、京を追われ吉野に落ち延びた。

 

貞和4年 四條畷(しじょうなわて)の戦い

朝廷が南北に分かれ、南朝側の楠木正行と尊氏の家臣・高師直の戦い。正行の父・楠木正成は湊川の戦いで戦死し、息子の正行が仇を討とうとしたが、幕府軍の圧倒的な戦力に敗走し、最後は自害した。

 

観応元年 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)

湊川の戦いで一緒に戦った、尊氏の弟の足利直義・直冬親子が尊氏に反旗を翻した内乱。原因は、尊氏の側近であった師直と実弟である直義の政治的対立が原因であった。

 

観応元年 前期倭寇が起きる

北九州や瀬戸内海を中心とした農民や商人たちに、高麗(現在の韓国)の海賊が合体して、高麗の海沿いの町を荒らす事件が発生。鎌倉幕府の衰退と、南北朝時代の動乱の中突如発生した集団。

 

観応3年 観応の半済令

半済とは、荘園などの年貢の半分の徴収権を守護に認めることを意味しており、それを室町幕府が、認めさせた法令を観応3年に出した。半済令をきっかけに守護が力を蓄え守護大名になるきっかけとなった。

 

応安元年 足利義満三代将軍に就任

室町幕府を立ち上げ、初代将軍・足利尊氏の孫として誕生した義満が三代将軍に就任。このとき、まだ10歳の少年将軍でした。後に金閣寺を建立したり「北山文化」(公家文化と武家文化の融合)を確立したりと、室町幕府黄金期を築いた人物。

 

明徳2年 明徳の乱

11カ国の守護となっていた、家臣の山名氏清、満幸(叔父と甥)が室町幕府に起こした内乱。幕府は乱を治めようと、細川・大内・畠山らの守護大名を動員して応戦し、氏清は戦死し、それ以降山名氏は守護大名の地位が陥落してしまう。

 

明徳3年 南北朝統一

それまで、後醍醐天皇からの流れである南朝と、室町幕府が支持する北朝と、朝廷が2つ存在するという前代未聞の事態が続いていたが、幕府が義満の代になると安定し始め、義満が三種の神器を南朝から北朝へ渡すように要求。南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を返還。晴れて南北朝は1つに統一。

 

応永4年 金閣寺建立

もとは、鹿苑寺といって、代々公家の西園寺家の所有だったが、後醍醐天皇を寺へ招き暗殺計画は発覚!西園寺家当主だった公宗は処刑され、財産も没収し寺は荒れ果てるが、将軍の義満は、河内の所領と寺を交換し、修復改装させて「金閣寺」を建立させた。

 

応永6年 応永の乱

守護大名の大内義弘が幕府に起こした反乱。それまで、良好であった義満と義弘の関係だったが、義満が息子の義持に将軍職を譲り自分は太政大臣になり、出家すると「金閣寺」の造園に着手するが、各大名に応援を頼むが、義弘は「武士は弓矢持ってこそ武士」とこれを拒否。乱のきっかけとなった。

 

応永8年 明(中国)との国交樹立

義満は、博多の商人から明との貿易が多額の利益を生むことを聞きつけ、明に国書を送り、日本と明との間に国交が樹立した。また、横行していた倭寇や密貿易と区別するため、明の貿易船に勘合(正式な通交船であることを証明する割符)を用いたことから「勘合貿易」ともいわれた。

 

応永23年 上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱

関東管領(鎌倉公方という幕府が関東を監視管理するため、設置した庁の長官を補佐するために設置された役職)の上杉氏憲(出家後に禅秀と名乗る)が、上司あたる鎌倉公方の足利持氏に対して起こした反乱。

 

正長2年 くじ引きで足利義教が六代将軍になる

義満の孫にあたる、5代将軍・足利義量が早死にして、義満の息子にあたる4代将軍だった義持が再び政権の座につきますが、ほどなく後継者を指名しないまま、病でこの世を去ったため、くじ引きによって義持の弟であり、義満の五男になる僧侶の義円が6代将軍に就任。還俗して、名前の「義教」と改めた。

 

永享4年 上杉憲実が足利学校の再興させる

越後の守護・上杉房方の三男として憲実は誕生するが、上杉禅秀の乱で関東管領職についていた山内上杉家が途絶えてしまったため、越後上杉家から養子に入る。憲実は、すでに衰退していた足利学校を再興。鎌倉の僧侶を校長として呼び寄せたり、本を寄贈したりと、武士たちの学び舎に尽力した。

 

永享10年 永享の乱

鎌倉公方の足利持氏と関東管領で足利学校などの功績を上げた上杉憲実との戦い。劣勢になった憲実は、幕府に助けを求め、将軍の義教は持氏討伐を命じた。原因は幕府に反感を持っていた持氏が、義教が6代将軍になると、独裁色を強めたためであった。

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嘉吉元年 嘉吉の乱

播磨や山陰三国の守護であった赤松満祐が、6代将軍・足利義教を暗殺した一連の騒動。くじ引きで決まった将軍であったため、馬鹿にされがちだった義教は、次第に恐怖政治に手を染め始める。家臣の長老格となった満祐は、義教から邪険に扱われるようになり、「将軍から満祐は粛清される」というデマが発生。発狂した満祐が、自身が所有する邸宅に義教を招いて宴を開き、逆に、油断した義教の首を討ち取ってしまう。

 

応仁元年 応仁の乱

9代将軍の座をめぐる、将軍家後継者争いに端を発する。8代将軍・足利義政に、なかなか後継ぎが生まれないため、僧侶で弟の義尋を還俗させ、後継者に指名するものの、正室の日野富子が男子を出産したため、再び後継者争いが勃発。次第に守護大名たちの権力争いに様相をていしていった。還俗して義視と名を改めた義尋を担ぐ、管領・細川勝元と、富子及び息子の義尚派の侍所所司の山名宗全が、婿と舅という間ながら対立し、結局10年もの間戦いは続いた。幕府の権力は地に落ちて「戦国時代」へ突入するきっかけとなった戦い。

 

長享元年 長享の乱

管領職にあった山内上杉家の上杉顕定と扇谷上杉家の上杉定正との約30年に渡る戦い。この戦いによって、上杉家は衰退し、混乱を期に駿河今川氏の親戚だった北条早雲が伊豆や相模を支配するきっかけを作る原因となった。

 

延徳2年 銀閣寺建立

8代将軍・足利義政が、隠居生活を送っているとき、金閣寺を真似して造営した建築物。応仁の乱が収まり、幕府は多大な財政難に陥っていたため、銀箔を張るお金がなかったため、普通の寺な外観だが、予定通り「銀閣寺」と呼ばれている。

 

明応2年 明応の政変

細川勝元の息子で、このとき管領職にあった、細川政元が10代将軍の足利義材(よしき)を廃位させ、新たに足利義澄を11代将軍に擁立したお家騒動。これ以降将軍家は、南北朝時代の南朝と北朝のように、義材(後に義植に改名)派と、義澄派の二派は分かれることとなる。

 

永正7年 三浦(さんぽ)の乱

決して「みうら」ではありません。笑 李氏朝鮮の三浦という場所で起きた、対馬守護の宗氏と恒居倭人(朝鮮遺留日本人)による反乱。発端は、朝鮮にとって貿易の通交は多大な負担であったため、次第に制限を設けるように。これを不満に思った、宗氏たちは、反乱を起こすが朝鮮軍にあっけなく鎮圧される。

 

大永3年 寧波(ねいは)の乱

明の寧波というところで起きた、大内氏と細川氏による勘合貿易の争い。応仁の乱の混乱をきっかけに、大内氏と細川氏はそれぞれ独自に明と交易していたが、大内氏が勘合船を独占してしまったことから、焦りを感じた細川氏は明の役人に賄賂を送り、憤慨した大内氏が、明の役人までも殺害する事件へと発展してしまう。この乱をきっかけに、再度密貿易が盛んになる。

 

天文元年 天文法華の乱

延暦寺と法華宗(日蓮宗)の宗教争い。京の都で、法華宗の信仰が人々に浸透し、法華宗は強い権力をほこるようになる。戦いは、当初法華宗有利であったが、拠点であった21か所の寺を延暦寺の門徒に焼かれ、京から逃れた。延暦寺の門徒は武力で法華宗門徒を追放。

 

天文12年 種子島にて鉄砲伝来

種子島に、一艘の船が漂着した。ポルトガル人が乗っていた船で、彼らは火縄銃を持っており、種子島の領主・種子島時尭が、ポルトガル人たちから銃を買い求めたのがきっかけだった。

 

 

天文15年 足利義輝が13代将軍に就任

室町幕府きっての武闘派であり頭脳派の将軍。幕府の権力復権に尽力したが、最期、松永久通や三好義継などの大名たちに攻め入れられ自害。

 

天文18年 フランシスコ・ザビエルによるキリスト教の伝来

キリスト教宣教師のフランシスコ・ザビエルが、薩摩に上陸。背景には、ヨーロッパにて宗教改革が起き、プロテスタントが主流となり、危機感を募らせたカトリック教徒たちは、カトリック保護と布教を国外へと求めた。

 

天文22年 川中島の戦い

武田信玄と上杉謙信の有名な戦い。北信濃の支配をめぐって行われた戦いで、11年という長い年月戦ったが、決着がつかず伝説となった。

 

天文24年 厳島の戦い

安芸国(現在の広島県)の厳島で行われた、毛利元就と陶晴賢による戦い。守護大名であった大内義隆は、家臣である陶晴賢に襲撃され自害。今度は、晴賢が元就に襲撃され自害。因果応報な戦い。これによって、元就は中国地方をほぼ全部統一した。

 

永禄3年 桶狭間の戦い

尾張国(現在の愛知県)桶狭間で行われた合戦。2万5千余りの大軍を率いた今川義元が、少数精鋭の尾張の大名だった、若干25歳の織田信長に、討ち取られた歴史的戦い。日本三大奇襲の1つともいわれる。

 

元亀4年 15代将軍・足利義昭が織田信長によって京から追放。室町幕府の終焉

15代続いた室町幕府も、時代の波に逆らえず、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長に、将軍・足利義昭が追放され、幕を閉じた。

 

 

まとめ

  • 室町時代は、前半が南北朝時代、後半が戦国時代と被っていて、事実上室町時代が単独であったのは、約80年と短い。
  • 平和と言われながら、内乱の数が結構多く、上杉家が問題を起こした確率が高い。
  • 6代将軍がくじ引きで決まるという、前代未聞の事態が発生。
  • 最後は、将軍が織田信長に追放され、室町幕府に幕が閉じられた。

以外と、平和じゃないというか 笑 結構乱が多いなあというのが印象ですね。幕府がもう少ししっかりしていたら、戦国時代もなかっただろうし、武田信玄や毛利元就、織田信長などの戦国の覇者が生まれなかったかもしれないので、それはそれでなんとなくさみしい気もしますね。将軍としては、ダメ将軍といわれる8代将軍の足利義政は、混乱の中、銀閣寺を建てるなど、結構マイペースというか肝が据わっているなあと感じました。笑

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