室町時代の将軍と、有名人物はどんな人たちがいたのかをご紹介していきます!
室町時代の将軍は15人
まず将軍一覧
- 足利尊氏
- 足利義詮
- 足利義満
- 足利義持
- 足利義量
- 足利義教
- 足利義勝
- 足利義政
- 足利義尚
- 足利義植
- 足利義植
- 足利義晴
- 足利義輝
- 足利義栄
- 足利義昭
室町時代の有名人物
- 後醍醐天皇
- 楠木正成
- 新田義貞
- 世阿弥
- 雪舟
- 日野富子
それぞれひとりずつどんな人物だったのかを見ていきましょう
足利尊氏
最初にご紹介するのは、室町幕府の祖・足利尊氏です!尊氏は当初、執権・北条高時から一字もらい「高氏」と名乗っています。実は尊氏、正室の子供ではなく側室の子供だったのです。
もともとは、正室の子供である異母兄・高義がいましたが、21歳の若さで亡くなりました。次男である尊氏はわずか10歳。しばらくの間、父・貞氏が再度家督を継いでいました。
世間的には、尊氏に兄がいたとか知られていないですよね?生死も定かではなく謎な人物なのです。幕府を開いた祖が長男ではなく、次男だったというのがまずいのでしょうか?高義かわいそうです。存在を消されるとは。
血筋の上では足利家の方が上なのに、執権という立場を利用してなにかと北条家は、あ足利家を虐げていました。尊氏の祖父・家時は自害しているのですね。「霜月(しもつき)騒動」という鎌倉幕府の内乱に巻き込まれて、責任を取ったのです。その際に、家時は「子孫三代のうちに天下を取らしめたまえ」と無茶な遺言を残し自害したのですよ。苦笑
というのも、足利家の先祖である「源義家」が「我7代の孫に生まれ代わりて天下を取るべし」という遺言を残しています。それから7代目にあたるのが家時だったのです。プレッシャーに感じた家時。自分の代で天下を取れなかったので、代わりに自分から3代のうちに、天下を取ってくれと遺言を残したわけです。笑無理過ぎる遺言ですが、尊氏の天下取りへの原動力になったことは確かだと思いますね。「おじいさんみたく自害したくないよ」とも思ったかもしれません。
尊氏不満を募らせる?
京の置笠という場所で挙兵した後醍醐天皇!世にいう「元弘の乱」です。理不尽な幕府に不満を持っていたのです。鎌倉幕府の執権であった北条高時は、尊氏に天皇を倒すべく挙兵を命じます。父が亡くなって喪中だった尊氏。命令なので辞退することは許されず、朝廷側の楠木正成と大坂の「下赤坂城」で激突します!
本当は、喪中なので戦いどころではない。現代社会でもありますよね?這ってでも出で来いっていうブラック企業。
この時の鎌倉幕府は、「ご恩と奉公」の関係性は崩壊し、ブラック企業化していました。後に、尊氏が鎌倉幕府に反旗をひるがえすきっかけになりました。
結局、朝廷側の反乱は失敗に終わり、後醍醐天皇は廃位され、代わって光巌天皇が即位します。尊氏要する幕府軍が勝利を収めます。しかし尊氏は喪中の戦いが不満だったらしく、あっさりと鎌倉へ帰還するのです。時の花園上皇から「あまりに無礼ではないか!」とひんしゅくを買ってしまいます。
ほどなくして、隠岐に島流しにされた後醍醐天皇は、島を脱出して3度目の倒幕を計画。一方の尊氏は、自身が病に伏せっていたのに、執権の高時から「尊氏またよろしく」って挙兵を命令されます。笑 上司の命令であれば断れません。しかたなく尊氏は、幕府側の司令官として一旦は京へ上洛しますが、もう一人の司令官・名越高家が戦死。
尊氏の中でなにかがふっきれます。後醍醐天皇からの誘いもあり、「これ以上幕府に従うのはごめん!」となるわけです。笑 すぐさま後醍醐天皇側についた尊氏には、日本各地の武士たちに、「共に鎌倉幕府に挙兵しよう」と手紙を送ります。
北条氏の長期執権政治による鎌倉幕府は倒れ、代わって後醍醐天皇による「建武の新政」がスタートします。これで奴隷扱いされないと尊氏は喜んだと思います。
ところがです!後醍醐天皇は、朝廷のことが第一で、自分のために戦ってくれた武士たちはどうでもよかったのです。徐々に独裁色を強めていきます。尊氏は「話が違う!」となるわけです。
高時の遺児・時行が「中先代の乱」という乱を起こし、一時鎌倉を占拠します。尊氏の弟・直義は、なんとか脱出して京から鎌倉へ向かった尊氏軍と合流し、時行軍を制圧します。その際に、尊氏は「時行を討つから征夷大将軍に任命してください」と頼み込むのですが、天皇はあっさりと拒否。
「こうなったら鎌倉に自分たちの幕府を作っちゃえ」と、室町幕府樹立の原因となります。そして、後醍醐天皇を比叡山へ追いやり、尊氏は湊川の戦いで勝利を収め、京の都を制圧すると、三種の神器がない状態で、光明天皇を擁立し即位させます。光明天皇から征夷大将軍に任命され、ついに「室町幕府」を樹立!
尊氏の風見鶏っぷりがすごいですね。後世まで天皇に刃向かったとして、足利尊氏といえば「逆賊」の代名詞でした。しかし、平成に入ると逆賊の汚名は薄れ大河ドラマにもなりました。昭和時代ずっとNGだったみたいで、平成になってあっさりgoサインが出たとのことです。笑 研究家の間では、後醍醐天皇にとどめをささなかったとこ、くよくよ思い悩み、人間くさいところもある。後に徳川幕府を開く徳川家康と比べると、戦争は強いけど、政治には疎いといわれるようになりました。
ただ、弟を毒殺しているのはいただけないですね。この時代は肉親で戦うのは普通ですが、兄の右腕となって戦ったり、兄の庶子を養子にして大事に育てたりした直義を殺害したのは納得できません!すべては、家臣であった高師直が裏で牛耳っていたと思いますね。師直と直義は対立していました。
尊氏は師直の罠にはまったと思いますね。その後、尊氏は庶子であり弟の養子となった直冬との戦いにて、矢が刺さって、その傷がもとで54歳という若さでこの世を去ります。せっかく将軍の座に就いたのに、悲しい最期でした。
後醍醐天皇
後醍醐天皇は、後宇多天皇の第2皇子として生まれます。鎌倉時代末期には、朝廷は、「大覚寺統」と「持明院統」という2つの系統から交互に天皇を擁立するようになっていました。大覚寺統である異母兄の後二条天皇が急死し、持明院統ではとこにあたる、花園天皇が即位します。けれど12歳と若年だったため、兄や父にあたる上皇たちが院政を行うことに。
このころ、交互に10年ぐらいの天皇の在位が決められていたため、次は亡くなった後二条天皇の子供である甥の邦良親王はまだ幼い。成人するまでの中継ぎとして後醍醐天皇が天皇に即位します。
しかし、自分はあくまでも中継ぎなので、我が子に皇位を継がせることができなかったのです。それで、皇位継承を取り仕切っていた「鎌倉幕府」に不満を募らせていくのですね。
密かに倒幕計画を企みますが、周囲に発覚してしまい、島流しにあったりします。先にご紹介した「元弘の乱」です。けれども、足利尊氏や楠木正成など有力御家人たちを見方につけ、鎌倉幕府滅亡に成功するのです。
私は、本来は天皇の座につくことがない人が、異母兄の急死によって立場が急転したことから、欲望にとりつかれてしまったのではと感じましたね。現代でも、会社の社長が急死し、後継ぎが年若いと、専務あたりが代理で社長職を代行するうち、乗っ取ってしまうとか。いつの時代も、人間の本質は変わらないと思いましたね。
その後、天皇中心の政権を誕生させます!「建武の新政」です。しかし、あまりにも尊氏や武士たちをないがしろにする結果となり、尊氏らによって、政権の座から引きずり降ろされます。まさに飼い犬に手を噛まれたってやつですね。
楠木正成
次にご紹介するのは、「楠木正成」です。正成は、もともと河内国(現在の大阪府)あたりの一豪族に過ぎませんでした。鎌倉幕府の河内方面を司る「番犬」的な役割をしていましたが、後醍醐天皇から「ぜひ共に戦ってほしい」と呼び寄せられ、倒幕計画に傾倒した正成は、幕府に反旗をひるがえします!
鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇による「建武の神政」がスタートすると、正成は戦いの功績が認められ、河内の守護まで任じられます!一豪族から守護への出世!
安穏も束の間、尊氏の突如とした反乱で、関東の豪族であった新田義貞とともに、湊川で戦うことになります。一旦は、尊氏を九州へ追いやりますが、息を吹き返した足利軍が再びやってきます!両軍激しい戦いとなり、正成は無念の死をとげます。
正成は、死の最期まで天皇に忠誠を誓ったので、第二次世界大戦中は、忠臣として軍部から祭り上げられたのです。
戦いの影に悲しき父子の別れ!
「桜井の別れ」という話があるのをみなさんはご存知ですか?戦前、国語などに掲載され、おそらく私の祖父母世代は習っているお話です。湊川に向かう途中、桜井という場所に差し掛かったとき、11歳とまだ幼いわが子に正成は「お前はここで帰れ」というのですね。しかし正行は「父上それはなりません!」と、あくまで父と行動を共にすることを望みます。
元服もまだなわが子を、みすみす道連れにするわけにはいかないと、正成は「帝のためにお前は命を大切し、忠義の心を忘れるな」と形見の品を渡し、根性の別れを告げたのです。
実に泣けますよね。先ほどのR指定はまずいかもしれませんが 笑 このような感動的な話を削っちゃう現在の学校の授業ってどうなのでしょうか?表面的にさらっと習っておしまいだから、歴史好きが少ない気がしますね。
新田義貞
ここからは、新田義貞について解説します!この人、鎌倉幕府に攻め入って、本来は一番手柄を上げた人物。しかし手柄や人気を、全部尊氏に持っていかれた不運な人物なのです。
もともと、義貞と尊氏は親戚同士で、6代前の先祖が兄弟。さらに、その3代前が源氏の源義家なのです。本来は名門の家に生まれた御曹司なのですが、二人の代になると、一族は辛酸をなめていました。
しかし足利より新田の方が、理不尽な理由なのです。義貞の6代前の先祖・新田義重には娘がいました。娘は後に鎌倉幕府を開く源頼朝の長兄・義平の妻になります。頼朝は幼いながら兄嫁に恋心を抱くのですね。
けれども、兄の義平が戦死して、兄嫁は実家に戻ってしまいます。どうしても、兄嫁のことが忘れられない頼朝。風の便りで兄嫁が再婚していなく独り身であることを知ると、恋文などを出してアタックし続けるのです。
ここで問題が発生!頼朝独身ではない!正室には、北条政子という女性が!後に執権政治を思うがままにする北条氏の元祖ともいうべき人で、恐妻で有名でした。笑
政子に目をつけられたら終わりと、この時代は有名だったのです。そこで、娘の身を案じた義重が、慌てて他家へ嫁がせます。それを知った頼朝が悲しみと同時に激怒し、以降鎌倉幕府の要職に新田家は就けなくなったという顛末です。
理不尽過ぎる頼朝。苦笑 長い年月が流れ、義貞の代になり貧乏生活を余儀なくされていました。御曹司とは名ばかりの苦労人だったのです義貞は。
最初は、鎌倉幕府の武将に過ぎなかった義貞ですが、無位無官がずっと続いていて、戦のときだけいいように幕府に利用されていたのです。我慢の限界に達したころ、後醍醐天皇から綸旨(天皇の命を受けて出される命令文書)を受け取ります。
文書には「朕は幕府を倒したいと思っている。力を貸してもらえぬか」といった内容だったのですね。これで、義貞は決心します。「そうだ幕府を討つために鎌倉へ行こう!」と。
義貞は鎌倉幕府を、尊氏は京の六波羅探題(京の都の幕府の拠点)をそれぞれ攻め滅ぼし、後醍醐天皇による「建武の新政」がスタートするわけです。
しかし、天皇の拠点は京なので、どうしても六波羅探題を滅ぼした尊氏に人気が出てしまい、官位などすべて尊氏のほうが上で義貞は下だったのですね。
不満をつのらせていた義貞に、思わぬ出来事が!尊氏が天皇中心の政治を行う後醍醐天皇に反旗をひるがえし、挙兵したため、急遽義貞は天皇側の総大将に任命されるのです。
俺の人生なんだったの?最大の裏切り!
湊川の戦いで、義貞は尊氏に敗れて北陸へと落ち延びます。その間、後醍醐天皇はあっさり自分に刃向かっていた尊氏と和睦してしまうのです!正直者は馬鹿をみるというか、私は後醍醐天皇と尊氏の風見鶏っぷりに納得いきませんね。つまり、義貞はいいように利用されたのです。鎌倉幕府と朝廷両方に。
最期も悲劇的で、矢の乱射を受け、その中の一矢が眉間に命中にすると「もはやこれまで」と自ら頸動脈を斬るのですね。ある人は犬死にとかいうかもしれません。けれど、私は義貞の方が不器用で人間くさくて好きですね。賢しく立ち回る者が勝者ってとこが腑に落ちませんね。不器用者がいてもいいじゃないと。
足利義詮
ここからは、2代将軍「足利義詮」についてご紹介!徳川もなのですが、2代目って地味ですよね。義詮も、結構波乱万丈で、父と同じく異母兄がいました。一人は、若竹丸という男子です。若竹丸は、正室ではなく側室の子供だったため、寺へ預けられますが、父・尊氏が六波羅探題を攻めていたとき、会いにいこうとしたのですね。だが、幕府側の追っ手に捕まり殺害されてしまいます。
もう一人の異母兄も、いわゆる庶子です。後に、尊氏の死の引き金となる直冬です。直冬の母は、若竹丸の母より身分が低かったため、尊氏からかなり冷遇され育ちます。成長すると、子供がいない叔父・直義の養子となります。
一方で、義詮は複雑な家庭環境の中で、三男でありながら正室の子なので、嫡男として英才教育を受けますが、幼き日に危機が訪れます。父が幕府に反旗をひるがえしたため、母とともに幕府に人質に取られてしまいます。
人質だから、下手したら殺されかねない状態。そこへ救世主が現れます。「新田義貞」なのですよ。尊氏ってほんと不義理というか、妻子の命救ってもらったのに、義貞を攻めましたからね。政治の流れといえども私は納得できませんね。
いわば、義詮にとって義貞は「命の恩人の親戚のおじさん」的な存在でした。救出以降は、まだ元服前の少年のため、表舞台には出てこなくなりました。また人質に取られてはたまらないですからね。笑
どうやら義詮は、戦いよりも政務や和歌に精通していた人物だったようです。だから地味なのかも? 笑
義詮は、その後38歳という若さでこの世を去っています。死の前日に多量の鼻血を出していたそうです。鼻血ってことで、白血病や動脈硬化などが疑われますね。ともあれ、私は地味ながら義詮がまともな人物だったからこそ15代まで室町幕府が続いたと思います。
3代将軍「足利義満」
続いてのご紹介は、3代将軍「足利義満」です!義満に関しては賛否両論ありますが、室町幕府を安定させた功労者だと私は思います。
9歳で父・義詮と死別すると、3代将軍に就任します。実は、義満は正室の子じゃなくしかも次男なのですね。尊氏から続いて、3代も側室の子供で長男ではないのです。浅からぬ因縁を感じますね。
後年、絢爛豪華な金閣寺を建築させる義満ですが、幼少期から美意識が高かったようです。観応の擾乱(じょうらん)という足利家の内紛(尊氏の死の引き金になった)があり、まだ子供だった義満は避難のため、摂津国(現在の大阪府と兵庫県の一部)に滞在していたとき、「ここは景色がいいから持って帰ろう。お前たちが担いでいけ」って家臣たちに言ったのです!このような子供なかなかいませんよね?笑 金閣寺建設の片鱗を見せた瞬間でした。
出世街道まっしぐら?
若干二十歳で、右近衛大将に任命されると、わずか5か月後には権大納言に任命され、将軍職と兼務させて、武士でありながら公家社会に浸透していきました。そして、祖父や父の成しえなかった左大臣、右大臣へ出世していきます。武士でありながら、生まれながらの将軍であり、教養が備わっていたので、公家社会にも認められたようです。
それまで、南北朝とそれぞれ分かれていた朝廷を1つに統一させます。ここまでは、非の打ち所がなく、すごいじゃん義満って感じです。
そのような義満にも欠点が!無類の女好きだったのですね。後醍醐天皇の場合は子孫繁栄目的な感じがしましたが、義満はただの女好きだと思います。笑
時の天皇、後円融天皇の后、藤原厳子との間に「密通騒動」が!出産後、2か月も御所へ戻らなかったことを、後円融天皇は怪しんでいたそうです。真相は藪の中ですが、後に天皇になる後小松天皇は義満の子供ではないかとささやかれています。
朝廷の後宮に(幕府でいう大奥のような場所)に自由に出入りしていたので、「まさかのさか」笑 もあり得るかもしれません。
というのも、弟の満詮の妻、つまり弟の嫁に手を出して自分の側室にしてしまっているのです!「英雄色を好む」ともいいますよね?しっかり仕事はできるのに、もったいないと思いますね。
義満は、日明貿易で明の皇帝から、「日本国でただ一人の日本国王である」といわれます。調子にのってしまった感がありますね。将軍でありながら異様に「天皇」の座に憧れ抱いたのも、皇帝からの言葉があったからだと思います。
世阿弥
「世阿弥」という、義満から寵愛を受けた猿楽師(伝統芸能)がいます。もともと父・観阿弥が猿楽師で、幼くして父と一緒に舞台に立っていました。
たまたま世阿弥の舞台を見た義満が、絶世の美少年であった世阿弥に一目ぼれしていらい、義満からの寵愛を受けるようになったのです。義満って女好きじゃなかったのってみなさん思いますよね?この時代男色は珍しくはなかったようです。
猿楽師は、この時代「河原乞食」とさげすまれる職業でもありました。実際は、意外な人物と血のつながりがあったのです。実は、世阿弥の祖母にあたる女性は、あの「楠木正成」の妹だったのです。河原乞食どころか豪族の血を引いていたのです!私も最近知ったのでびっくりしましたね。教科書で教わらなかったもの。笑
モテモテの世阿弥は、義満以外にも公家の二条良基に連歌などを習い、学校に通わなくても教養を身に着けていきました。
けれど、義満が亡くなると立場は一変し、弾圧されるようになり、出家してしまうことに。さらに悲劇は続き、長男の元雅が30歳の若さで、巡業先にて急死してしまいます。祖父や父をもしのぐ才能と周囲から期待されていただけに、世阿弥の落胆は大きく、世阿弥自身も失意の中亡くなってしまうのです。その後、元雅の忘れ形見、観世十郎太夫が後を継ぎましたが、十郎太夫の子をもって直系は途絶えてしまったようです。
突然ですが、上記の写真の言葉「初心忘するべからず」は世阿弥が残した言葉だったのです。だからこそ、曾孫の代まで猿楽は受け継がれたと思いますね。
4代将軍「足利義持」
次にご紹介するのは、4代将軍「足利義持」です。義持も、父・義満と同じく少年時代に将軍職に就きます。義満の場合は父が亡くなったため、やむなくでしたが、義持の場合、自身は生きているのに9歳の我が子に譲ったので、ちょっと状況が違いますね。さらに、義満は将軍職を譲りながら権力を握ったままだったので、義持はお飾り状態で22歳まで過ごします。
さらに義満は、義持より異母弟の義嗣をかわいがったので、尚更義満と義持の仲は嫌悪なものとなっていきました。さながら映画「エデンの東」のような感じで父からの愛を受けないまま成長してしまったのです。
すべての欲求が、義満の死によって爆発!まずは、父が寵愛した世阿弥を遠ざけ猿楽ではなく田楽のほうを好み、日明貿易で良好関係だった明の使者を「あんたら帰って!」と追い返していました。父とはすべて真逆の行動を取り始めたのですね。
傍から見れば中二病的に見えますが、義満が生きていたころは、権限さえ与えられていなかったので、爆発をおさえられなかったのだと思います。ある意味被害者だといえます。
結構意外なところで、後小松天皇とは仲が良かったりして、相談にのったりしていたようですね。後小松天皇は、母が義満と密通の疑いをかけられたころ生まれたので、義持は「もしかしたら自分の兄弟かも?」と、複雑な状況で誕生した後小松天皇に共鳴するものがあっただろうと考えられます。
その後、関東管領である上杉秀禅が起こした乱に異母弟・義嗣が関与したとして、義持は、富樫満成という守護大名に義嗣暗殺を命じます。義嗣の祟りかわかりませんが、義持の後を継いだ、嫡男・義量が19歳で亡くなり、我が子に先立たれてしまいます。再度将軍に返り咲く義持。もはや権力に未練はなく虚しさしかありませんでした。ちゃんと後継者を決めないまま、義持も亡くなってしまいます。
この辺私は納得いきませんね。後処理はちゃんとしないと。義持の優柔不断さが、室町幕府衰退の元凶になった気がします。
5代将軍・足利義量(よしかず)
19歳で死亡。
元来、病弱で将軍職など務まらない人だったのに、さらに大酒飲みがたたって亡くなったようですね。突然亡くなったため、叔父・義嗣の祟りではといわれたようです。
6代将軍・足利義教
次にご紹介するのは、です。最近では、スマートフォンのゲームアプリ「モンスト」のキャラクターとして、意外な形でスポットが当たり始めた義教。笑
義教はもともと、嫡男ではなく義満の5男として生まれました。父から溺愛されていた義嗣はなんと同じ応永元年生まれの異母弟だったのです。母親が違うので同い年ながら兄弟!ちょっと複雑ですね。苦笑
そんな義教は、9歳で仏門に入れられ後継者候補から除外されます。名前も「義円」といいました。25歳のときには、天台宗のトップ「天台座主」に登りつめ、「天台宗始まって以来の逸材」と多いに期待されます。何事もなければ優秀なお坊さんで生涯を終えていたかもしれないと思うと、これまた複雑ですね。
それから9年後、義教に将来を揺るがす転機が訪れます。異母兄・義持が遺言を残さないままこの世を去り、次の6代将軍を「くじ引き」で決めるという前代未聞の事態に!くじの結果、義教が6代将軍となったのです。
幼少のころから僧侶として、育ってきたので、還俗(僧侶である者が俗人に戻ること)して名前も「義宣」(よしのぶ)と名乗ることになりました。しかしこの義宣という名前が「世を忍ぶ」ってことで縁起が悪いとされ、最終的に「義教」になったようです。そんなに気にするものですかね?若干ダジャレ的な感じもしますが。笑
義教は、かなりの癇癪持ちで、東坊城益長という公家がある儀式で笑顔見せると「俺のことを笑った」と益長の所領を没収したり、自宅に蟄居を命じたり、しまいには、妻・日野重子の兄・日野義資(よしすけ)を斬首させたりしました。
難癖をつけて、酷いときは相手を死に追いやってしまうほどで、義教の恐怖政治がハンパなかったので「悪御所」と悪口をいわれるほどでした。人が死ぬところを見て、笑っていたようで、「サイコパス」な人物でもあったのです。もしかしたら統合失調症などの精神疾患があったかもしれませんね。
一方で、父・義満とは対照的に男女関係には潔癖だったみたいです。僧侶出身ということもあるのでしょうが、朝廷に対しても、寝室は男女別にするなど規律を強めたのですね。親の反面教師もあるのでしょうか? 笑
信長は義教の生まれ変わりかもしれない?
これだけの恐怖政治。しまいには、義教は有名な「比叡山」を焼き討ちにしてしまうのですね。みなさん比叡山焼き討ちってなんか聞いた覚えがないでしょうか?そうなのです。あの「織田信長」も同じことをやっていたのです。自分に刃向かうものは仏だって容赦しない。考え方がまるっきり信長なのです。もしかしたら、義教の生まれ変わりが信長かもしれませんね。
家臣が身の危険の感じた結果!?
恐れていたことが起きてしまいます。世にいう「嘉吉の乱」です。どんどん武士や公家に限らず手当たり次第粛清を断行していった義教。「次は自分の番ではないか」とみな戦々恐々となっていたわけです。
その中の一人が家臣であり、守護の「赤松満祐」という人でした。神経がピリピリしていたときに、「次は赤松の番だ」という噂が流布されます!
恐怖におののく満祐。「殺されるくらいなら、自分から将軍を暗殺してしまえ」となるのです。ある日、「御所様、庭の池に小鴨が生まれたのでぜひ見にきてください」と宴に誘い出します。
そして、宴の最中に義教を暗殺!他に招待された守護や公家たちは逃げた人たちもいたので、義教自身も逃げようと思えば逃げられたのに、結構刀で応戦の末斬りつけられ、最期斬首されているのですよ。この辺は、あくまでも武士として死にたいという気持ちがあったと推測しますね。将軍就任当初は、「還俗将軍」と馬鹿にされていたので、最期ぐらいは武士らしくと。
7代将軍・足利義量(よしかず)
わずか10歳で赤痢により死亡。
義教が嘉吉の乱で亡くなると、急遽9歳の幼い嫡男・千也茶丸が元服して「義勝」と名乗り、7代将軍となります。9歳なので当然政治などできません。管領・細川持之が補佐役になり政権運営に携わりましたが、義勝は赤痢で10歳の短い命を終えます。
死因に関しては、「暗殺」「落馬」所説あり、「赤痢」が有力のようです。
大河ドラマ「花の乱」では、落馬説を採用していましたね。弟・義政が犬を馬上からけしかける遊びに兄を誘った結果、兄・義勝は落馬して亡くなるのです。母・重子から「そなたが兄を殺したのじゃ!そなたが死ねばよかったのじゃ」とか罵倒されていて、幼い義政がかわいそうでしたね。母親役が往年の大女優・京マチ子さん!迫力があり怖かった記憶があります。笑
8代将軍・足利義政
次にご紹介するのは、8代将軍・足利義政です。徳川幕府もそうですが、7代目が幼少で亡くなり、8代目は有名ですよね。なぜかシンクロしていますね。
義政は、兄の急死をきっかけに、これまた幼少で将軍に就任します。政治の実権は、幼い将軍が2代も続いたため、守護や朝廷ががっつり権力を握っていました。
義政が元服してからも継続されていたので、政治に興味を示さなくなります。「籠の中の鳥」ともいうべき義政の関心は、芸術の世界へ。ここまであらゆる人に政治へ介入されたら、誰だって嫌になってしまいますよね。
間の悪さで応仁の乱が起きた?
義政には、日野富子という正室がいましたが、長男が早死にして以降、なかなか子宝に恵まれませんでした。結局、政治に興味がない義政は、28歳で早々に隠居を考えるようになります。子供がいないため、僧侶で弟の義尋(ぎじん)を還俗させ、9代将軍にしようと画策します。名前も「義視」(よしみ)と改名させ、後継者に指名します。
しかし、不運というかある意味幸運というか、翌年実子の義尚(よしひさ)が誕生します!間が悪いですね。苦笑 よりによって後継者指名してからの我が子誕生。
当然、妻の富子は「私は絶対我が子を将軍にしますからね!」ときかないのですね。そりゃ当然ですよね。じゃあ義視の立場はどうなるのか?
義視も一歩も引きません!「わしは兄上から指名された正当な後継者なのだ」と。ここから、管領・細川勝元や守護・山名宗全ら家臣たちも巻き込んだ内乱になっていきます。最初は、「決まったことは決まったこと、義視様が次期将軍じゃ」「いやいや、御所様の子息である義尚様こそが次期将軍じゃ」と権力争いが続きますが、次第に家臣たちは次期将軍などどうでもよくなり 笑 自分たちの家名をかけた戦いになっていきました。
肝心の義政は、戦いなどのどこ吹く風で、趣味に没頭。笑 しまいには、東軍西軍と分かれて戦いが行われ、中立の立場であった義政は将軍旗を東軍大将・細川勝元へ授けます。そこへ、弟の義視が西軍の山名軍についたことから、東軍寄りの態度を見せ始めます。
両大将が亡くなると、義政はあっさりと我が子・義尚を9代将軍に指名!晩年は、一層趣味に没頭し、祖父・義満が建てた「金閣寺」をモデルに「銀閣寺」まで建立してしまいます。趣味の域を越えてしまったのです。政治の実権を握れず鬱屈した思いが芸術に向かわせ、銀閣寺や東山山荘の造営に昇華させたともいえますね。
しかし、義尚が陣中で病死してしまい、再び将軍職復帰を求められます。けれど、妻の反対や自身の病も重なり実現せず、このとき仲直りした義視の子・義材(よしき)を10代将軍に指名して、まもなく55歳でこの世を去りました。
本来は、将軍になることのなかった人。兄が長生きしていれば、文化人として名を上げたかもしれいと思うと、不運な人だなと思いますね。
義政の妻・日野富子
次にご紹介するのは、義政の妻・日野富子です。この富子、北条政子、淀殿と一緒に「日本3代悪女」の1人とされているのです。将軍の妻が悪女?みなさん気になりますよね?
富子の謎に迫ってまいりたいと思います。
富子は、代々将軍家に正室を輩出していた、名門の公家「日野家」に生まれた女性でした。16歳で義政の正室になり、将軍見台所となるのですが、政略結婚といっていいと思います。義政の母・重子は、富子にとって大叔母にあたる人でした。
最初に生まれた子を死産する富子。義政の乳母・今参局が呪いをかけて赤ん坊を殺したという噂が流れ、今参局は流罪に追い込まれます。私は勝手なこじつけだと思いますね。女の嫉妬というか、この今参局は、義政の筆おろしの相手だともいわれていて、嫉妬で遠ざけられたと思います。また、義政の母・重子や側近たちが、乳母という立場で口を挟んでくる今参局を陥れいれるための口実だったような気がしますね。
それから、娘には恵まれるものの、肝心の後継ぎが生まれません。とうとう夫・義政は将軍職を弟・義視に譲ると言い出します。そこで、話は決まりと思いきや、逆転満塁ホームラン的に義政との間に男子が誕生します。笑
せっかく我が子が生まれたのに、将軍に就かせることができない。母としてなんとしてでも、我が子を将軍にしたいのはわからなくもありませんが、大勢を巻き込んで、10年間も京の都で戦争しまくった結果、京の都は焼け野原になり、守護権力を持ち始め「守護大名」となるきっかけとなったのですね。
富子がなぜそこまで「悪女」といわれるのかというと、私腹を肥やしていたのです。京の巷の庶民は食べる米もない毎日を送っていた中で。富子は、山名軍に付きながら、敵対する細川軍にも米や金を貸し付けて、荒稼ぎをしていました。このとき稼いだ金額が総額60臆にもなるらしく、そりゃ国民は怒るし、幕府の権威を失墜するよなあと思いましたね。
義政との夫婦関係も、冷めきっていて、富子はなんと時の土御門天皇と密通騒動が起きるほどでした。花の御所に同居していたのですね。戦乱で天皇の命だけは守らなければないとのことで、避難目的で天皇は花の御所に引っ越してきたのです。
二人が宴の席や、歌会で親しげに話をしているのを見て世間は怪しんだみたいですね。実際は、富子の世話係の花山院兼子という人と密通していたらしく、後に皇女が生まれています。勝元と宗全が命をかけて戦っている最中この様はなんなのでしょうか?天皇も将軍もお花畑というか。笑
結局、勝元、宗全の両者が亡くなり、我が子・義尚が9代将軍に。このときが、富子の人生の絶頂だったかもしれません。成長するにつれ、義尚は母に反抗的な態度をとっていきます。
若くして酒に逃げる生活が続き、3年に及ぶ陣中生活で体を壊し、わずか25歳の生涯を閉じます。義政と富子の嘆きは相当なものといわれています。なんせ一人息子でしたので。
悪女といわれる富子。ここで嘆き悲しんでおしまいとはいかないのです。義視の長男・義材を10代将軍にしようと水面下で動きます。彼の母は、富子の実妹だったのですね。つまり、富子からみたらかわいい甥っ子なのです。義尚死後、富子の愛情は義材に注がれることとなるのです。
しかし、義材も義尚と同じように元服すると、富子に反抗します。笑 なぜでしょう?将軍をお飾りとしか考えてなく、自分が権力を牛耳ろうとするのが反抗心を起こしてしまうと私は思いますね。
しかも、義材が戦に出征中、政変が起きます。勝元の嫡男・政元と富子が手を組み、義材を将軍の座から引きずり降ろし、新たに、義政の異母兄・政知の次男・清晃(せいこう)を僧侶から還俗させ、11代将軍・義澄として擁立させます。
凄すぎますね。まさに悪女の極み。そして、11代将軍を見届けるように富子は、57歳で亡くなります。結局は、夫がしっかりしないから「私がちゃんとしなきゃ」精神が暴走してしまったと私は推測します。
9代将軍・足利義尚
ここからは、前述でご紹介した9代将軍・足利義尚です。義尚は、なかなか男子が誕生しない義政・富子夫婦の待望の男子として誕生しました。義尚が後年酒浸りの生活に至ったのは、母が政権を握っていて、自分には実権がないからだけではないと、私は思うのです。
義尚には、まことしやかな噂がありました。それは「天皇ご落胤説」です。義尚誕生前に、花の御所に戦火を避けるため、土御門天皇が引っ越してきました。天皇と将軍の妻が一つ屋根の下ってのが、怪しまれてもしょうがいないなあと思いますね。実際酒の宴でもベタベタしながら富子が酌をしていたらしいので。 苦笑 長らく義政との間に子供ができなかったというのも考えてしまいますね。
母・富子は金の貸付も行う強欲な人です。肝心の跡取りが生まれない。自身の御台所の地位が危うくなる。そんなときに、後土御門天皇が自分たちの屋敷に引っ越してきた。
夫ととの仲の冷めきっているなら、「ほかの男の種を」と、いわゆる「托卵」を、富子なら考えてもおかしくないと思いましたね。
結局はあくまで噂とされましたが、緘口令をしいたとしても、どこからか噂というのは漏れてしまうものです。義尚の耳に入ってしまったのではと私は思います。「わしは帝のご落胤なのか?真の父は大御所ではないのか!」悩んだ義尚は酒に溺れてしまったと考えられます。同じく若くしてアル中で亡くなった5代将軍・義量とは、ずいぶんと背景が違うと思いますね。義量は病弱かつプレッシャーに負けてアル中になったと思います。
「雪舟」
ここからは、将軍ではなく有名な文化人「雪舟」をご紹介!雪舟は、禅宗の僧侶であり、水墨画家として活躍しました。京の相国寺で修行の後に、日明貿易を行っていた「遣明船」を取り仕切る大内氏の庇護を受けていたので、雪舟も遣明船に乗って明へ行き来していたのです。
水墨画の技術は明で習得したものでした。そんな雪舟にはある伝説が!少年時代、仏門に帰依しながら、お経を読むのが嫌いで絵ばかり描いていたので、怒った住職は雪舟を柱に縛りつけてしまったのです!今だと虐待になりますが。苦笑
雪舟はあきらめません。笑 床に落ちた涙を親指につけ、床にねずみの絵を描いたところ、あまりにもクオリティが高く住職も「雪舟そなたは絵の才能がある」とあっさりOKを出しました。笑
11代将軍・足利義稙
みなさん「義稙」って誰って思いますよね?実は、先ほど出てきた「義材」と同一人物なのです。笑
義稙は、義政の弟・義視の長男として誕生します。従兄の義尚が死去すると、突如後継者に指名され、11代将軍・足利義材になります。しばらくは、大御所として父・義視がバックアップしてくれていたのですが、義視が亡くなると、叔母・富子と管領・細川政元が権力を牛耳ろうと画策します。
そこで起きたのが「明応の政変」です。義稙は、政元に花の御所を留守にしている間、将軍職を追われ幽閉されてしまいます。なぜ義稙はここまでの仕打ちを受けなければならなかったのか?就任当初は、政治を政元に全部任せると言ったのにいざ将軍になると全部一人でやろうとしたのです。このようなことになるなら、最初から全部任せるとか言わなければよかったのに義稙。苦笑
幽閉された義稙は、名前を「義材」から「義尹」(よしただ)と改名し、京から小豆島へ。側近たちの手引きによって越中国(現在の富山県)へ移動します。その間、京では足利義澄が擁立され12代将軍に就任します。
それから、一旦は政元と和解するかに見えたのですが、意見が一致することがなく、義稙は一時越前国(現在の石川県)に移ります。朝倉貞景や畠山尚順を見方につけ、将軍の座奪還のため、政元に攻め入ろうとします。しかし、河内国まで来たところで敗れてしまい、一時撤退。
ここであきらめないのが、義稙の真骨頂!父からの縁で、守護・大内義興を頼り周防国(現在の大分県)へ逃れます。9年後、政元が暗殺され、政元の養子3人の間でお家騒動が起きます。「今しかない!」と義稙は動きます!政元の後を継いだ、管領・細川澄元を追放し、15年の時を経て将軍に返り咲きます。すでに年齢も40前後となっていました。
13年の逃亡生活を経て、名前も「義稙」と2度目の改名で再出発します。途中、失脚した義澄に刺客を送られるも撃退。将軍の座も安泰と思いきや、澄元の後継いだ政元の養子・高国と、仲互いに。またも義稙は、将軍の座を追われ、代わってすでに病死した義澄の忘れ形見・足利義晴を擁立され12代将軍になってしまいます。
なんというか、足利将軍の中で義稙が一番波乱万丈じゃないかなと。移動距離だけでもすごいですよね?笑 最後は、阿波国(現在の徳島県)で58年の波乱の生涯と閉じました。
11代将軍・足利義澄
30歳の若さで死亡。
完全な操り人形な将軍で、義稙と争ったりしましたが、かわいそうな人です。
12代将軍・足利義晴
こちらも40の若さで死亡。
義稙を失脚させた後、管領や一部守護たちは、義澄の遺児である義晴を12代将軍に据えました。このとき、10歳の少年。10歳で政治ができるわけがないので、案の定、管領や側近などの大人たちによって、政権運営は進められたのです。
もう幕府の意味ないですよね?管領とか守護とか、あんたたちが政権運営したいのだろうと。
13代将軍の足利義輝
続いては、その義晴の遺児で13代将軍の足利義輝です。父・義晴は自分が幼くして将軍になったので、自身が生きているうちに将軍職を譲る考えを持っていましたが、義輝14歳のときに、我が子の行く末を案じながらこの世を去ります。
後ろ建てを亡くした義輝ですが、京にいられず近江国(現在の滋賀県)にいました。親子で流浪の人生。
義輝は、流浪の間に武芸に励んでいました。「将軍が軟弱だから権力が失墜したのだ」と思っていたようです。これが後に「剣豪将軍」とあだ名されるまでになったのです。
義輝から今までの将軍とは違うことが行われました。それは、代々将軍家の正室は公家の「日野家」から輩出されていました。ところが、義輝は日野家より位の高い摂関家の1つ「近衛家」から正室をむかえたのです。やはり、重子や富子といった日野家の女たちが、政治に介入してきたのが気に入らなかったのでしょう。気持ちわかります。苦笑
これぞ男の散り際!伝説の「永禄の変」
亡き父・義晴の思いも受け継いで、晴れて将軍として船出します。義教のように、恐怖政治ではなく、義政のように愚鈍でもなく、大名同士のいさかいに調停に入ったりして、有能でみんなから慕われる理想の将軍となっていきました。武田信玄と上杉謙信の「川中島の戦い」にも調停に入っているからすごいですよね。
現代でも、ゲームや小説などで人気があるのがわかりますね。そんでもって剣の腕も達者。非の打ち所のない人です。
ところが、順調に見えた将軍職ですが、暗雲が立ち込めます。松永久秀と三好3人衆が立ちふさがります。言葉の響きは往年のグループサウンズみたいですが 笑 こいつらとても悪いグループなのです。
義輝は、三好家と浅からぬ因縁があったのです。久秀と三好3人衆の上司にあたる「三好慶長」という守護代がいました。慶長は、代々管領職を担っていた細川家を要職から引きずりおろし、義輝の父・義晴を将軍職から追放した悪人なのです。義輝自身も一時追放されていたりします。苦笑
くじけないのが義輝の最大の武器!負けても慶長に戦い挑みます。そこで、守護の六角義賢の仲介によって、義輝と慶長は和睦します。5年ぶりに京に入京して名前も義輝と改名と同時に近衛家から妻をめとったわけです。
将軍として順風満帆。ついにこの世の春が訪れたかというときに、宿敵の慶長が病死!「殿!後は我らにお任せ下され!」と久秀及び3人衆が暗躍します!
久秀と三好3人衆は、なんと義輝の暗殺を計画するのです!そして、清水寺参拝を理由に将軍に訴訟があると、取次ぎを求めます。だけど、訴訟の割には何十騎の軍勢が!義輝が「もしや!」と思ったときは、時すでに遅く御所の周辺を取り囲まれていました。
我が命これまでかと普通は思うかもしれません。義輝の剣術の腕前が、ここで遺憾なく発揮されます!
義輝を暗殺しようと、次々と兵が向かってきますが、義輝バッタバッタと返り討ちにしてしまうのですよ。その数なんと60人 笑 ここまで強い将軍がいたでしょうか?笑 余りにも義輝が強すぎるので、久秀らは義輝の四方を畳で囲み、覆いかぶさるようにとどめを刺したといわれます。
実に惨すぎます。しかも義輝のみならず、その母や弟、妻子らも皆殺しに!ただ1人仏門に入っていたため、命拾いした人物が!弟であり、後に15代将軍となる足利義昭です。
義輝最期に辞世の句を残しています。
「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」
(しとしとと降る五月雨は、ただの露なのか、それとも私の無念の涙であろうか。私をむかえに来たほととぎすよ。天高く翔び、私の名を雲の上まで広めてほしい)と、残しているのですね。切なすぎます!義輝は享年30歳で亡くなりました。まだこれからってときですよね。無念です。
14代将軍・足利義栄
29歳の若さで死亡。
壮絶な最期を遂げた義輝の後を受けて、突如後継者に指名されます。最初は父の義冬が後継者になる予定でしたが、中風(ちゅうふう)(脳血管障害の後遺症で言語障害、手足に麻痺が起こる症状)になったため、嫡男である義栄が14代将軍に。
しかし、義栄自身も体は丈夫ではなく、あの久秀と三好3人衆との抗争もあり、京に入京しないまま亡くなってしまいます。将軍でありながら、城に入城しないままだったのは、義栄と徳川15代将軍の徳川慶喜の2人しかいないのです!
15代将軍・足利義昭
ついに最後となりました、ここからは15代将軍・足利義昭のご紹介です!義昭は、12代将軍・義晴の次男として誕生します。すでに兄・義輝がいたので、義昭は仏門に入れられます。法名は「覚慶」といい、興福寺という寺でかなりの役職までいったので、平穏無事に過ごせば高僧として生涯を終えるはずでした。なぜか、8代将軍・義政の弟・義視とかぶりますね。
そんな最中、「永禄の変」が起きてしまいます。義輝ら一行が殺害された後、義昭も興福寺で幽閉の身となります。しかし、細川藤孝ら数名の側近たちによって助け出され、ひとまず甲賀郡(現在の滋賀県)の和田城に身をひそめ、そこで「将軍宣言」をしてしまうのです。命の危険もあるのにあっぱれ義昭です。笑
その後、上杉謙信に幕府再興を依頼しているのです。謙信だったら、久秀と三好3人衆を1人でやっつけてしまいそうですが。笑 28歳で将軍になるべく僧侶から還俗し、名前も「義秋」と改名します。歴代将軍改名多すぎですね。徳川よりも俄然多いです!
当初、14代将軍は義栄ではなく、義昭がなるはずでした。久秀と三好3人衆によって将軍の座を寸前で阻まれ、操り人形であった従弟の義栄が14代将軍の座に就いてしまいます。
「兄の死を無駄にはできない」と、義昭は将軍職に就こうと、もがきます。永禄18年、すでに30歳になっていた義昭ですが、このとき初めて元服を行い名前も「義昭」と改めたのです。もとは僧侶で、ごたごたがあったにせよ遅すぎる元服となったのわけです。通常は14,5歳なので。
覇王との出会い、そして対立の果て!
義昭は、なんとしても将軍になるためには、兄や母を死に追いやった久秀と三好3人衆が邪魔でした。そこで、元服で世話になった朝倉義景の家臣である、明智光秀の手引きで尾張国(現在の愛知県)の「織田信長」を紹介され、義昭は尾張に一時引っ越します。
ここで織田信長登場です。信長軍に警護され、義昭は無事京に入京します!びびったのは、久秀と三好3人衆!すぐさま京から撤退。笑 時同じくして14代将軍・義栄が病死。
朝廷から「将軍宣下」を受けて、義昭は正式に15代将軍となりました。天国で兄の義輝は泣いたと思いますね。
義昭は、警護してくれた信長に感謝し、3歳しか違わないのに「室町殿御父」という称号を与え、両者の関係は当初良好だったといえます。しかし二人は、方向性が全く違う。
義昭は松永・三好勢を排除して、満を持して将軍職を全うできると信じていました。しかし時代は将軍ではなく、群雄割拠の戦国大名の時代へと突入していました。信長の目標は「天下統一」のただ1つ。室町幕府再興など考えにもありませんでした。
次第に対立を深める2人!短気な信長は早々に行動を開始します。他の守護大名から非難されるのを避けるため、義昭の嫡男・義尋を後継者にしたいから、預からせてほしいと義昭に交渉し、義尋を呼び寄せます。実は人質の意味があったのです。
信長考えますね。義昭は信長の罠にはまり、「後継者?なんのこと?」と約束を破られてしまいます。激怒する義昭!
信長の勢いは凄まじく、義昭は京から追放を余儀なくされます。追放された義昭は鞆城(現在の広島県にあった城)に亡命。追放されても、わずかに足利支持者が存在し、逆に信長追放の御内書を全国の大名に送り、返り咲きを狙いました。
しかし、義昭が動く前に信長の家臣だった明智光秀が謀反を起こし、志半ばで信長は暗殺されてしまいます。義昭にとっては不幸中の幸いでした。
信長亡き後は、家臣の羽柴秀吉が「殿の仇」と光秀を討ち取り、天下は秀吉のものに!またもお株を持ってかれた義昭。そこから2年間、関白・秀吉、将軍・義昭体制が続きます。
関白になり「豊臣秀吉」と名前を改める秀吉。秀吉は幕府を持つことが夢の1つでした。秀吉は、「上様を大名にする代わりにわしを養子にして!」と、頼みこみますが、義昭は拒絶。笑 結局、秀吉は関白藤原家の養子となり藤原を名乗った後、豊臣となりました。
義昭は無念ながら将軍の職を辞して、1万石の大名に成り下がります。意外にも秀吉との仲は案外良好で、後年相談相手になったり、茶飲み友達になったそうです!その後61歳の生涯を閉じます。
まとめ
- 源氏の流れをくむ足利尊氏が室町幕府を開いたが、直系は5代で途絶えていた。以降、親戚縁者から養子をむかえることを繰り返していた。
- 暗殺された将軍は、6代将軍・足利義教と13代将軍・足利義輝の2人だけ。
- アル中で亡くなったのが、5代将軍・足利義量と9代将軍・足利義尚の2人だけ。
- 実質幕府の権力があったのは、3代将軍・足利義満のころまで。
- 文化面に秀でた3代将軍と8代将軍・足利義政がそれぞれ金閣寺と銀閣寺を建立した。
- 2回以上改名している将軍が多い。
- 15代将軍・足利義昭は織田信長に追放され室町幕府に終止符が打たれた。
将軍みんな波乱万丈ですよね。その中でも、私が好きな将軍は・足利義輝ですね。辞世の句が泣かせます。彼が義満の後ぐらいに生まれてれば、幕府はもっと繁栄したのではないかと思います!みなさんは、どの将軍や有名人物が印象に残ったでしょうか?