江戸時代

直江兼続の兜に愛!?家紋についても!

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大河ドラマの主人公になった直江兼続といえば、兜が「愛」の形で有名です!!

私は、直江兼続をドラマで見て知り、兜に愛を使っていたのか・・・

と思いました。

彼が何故、兜を「愛」の形にしたのか・・・・

直江兼続が兜の「愛」に秘めた思いをご説明します!!

https://youtu.be/MbwMhcAqWLo(直江兼継に関する動画)

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直江兼続の兜は愛!!だった!?

皆さん、直江兼続の兜が・・・何のか?

ご存知ですか?

大河ドラマや直江兼続の兜をご覧になった方なら「愛」だと分かりますが、どうして直江兼続は、兜が愛なのか気にませんか。

私は、初めて直江兼続の兜を見た時、どうして直江兼続は愛にしたのだろうと思いました。

直江兼続が兜に愛の文字を選んだのか、有力な説がありますのでご紹介いたします!!

 

愛がつく神様に由来する

愛がつく神様・・・武神が存在します。

愛宕権現、愛染明王

直江兼続は、愛の字がつく武神から字を取ったとされています。

 

愛に近い愛民説

直江兼続は、民が豊かになれば、国も豊かになると思い、民の為に多くに政策を考えました。

民を大事にする思いを戦場でも忘れないようにと愛にしたという説もあります。

戦国時代、愛は、好きではなく仁愛の方で使われていました。

直江兼続は、5歳で家族の元を離れて上杉家に入り、上杉家当主になる上杉景勝に仕えます。

まだ幼い内に、生涯の主君になる上杉景勝と共に過ごし、上杉家や民たちの事を思い動いた直江兼続は、格好いいです!!

 

 

直江兼続の家紋は?

直江兼続が使っていた家紋は、はっきりと分かっていませんが、「三つ盛亀甲に三つ葉」が有力です。

もう一つ直江兼続が使っていたとされる家紋は・・・

 

こちらの「三つ盛亀甲に花菱紋」だとされています。

この三つ盛亀甲に花菱紋は、浅井長政も使っていました。

他にも直江兼続が使ったとされる家紋がありますが、この二つの家紋のどちらかが使われていたとされています。

直江兼続が使っていたとされる家紋が色々ありと知り興味を持ち、調べて行くうちにこの二つの家紋が有力だと分かりました。

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直江兼続の出生は?

直江兼続は、1560年に越後国(現在の新潟県)で産まれました。

父親は、上杉謙信の甥である景勝の父親に仕えた樋口兼豊。幼名は、与六

まだ姓は、直江ではありませんでした。

いつ、直江になるかというともう少し先のお話となります!!

 

主君上杉景勝との出会いは?

直江兼続の生涯の主君となる上杉景勝との出会いは、兼続がわずか4歳の頃でした。

そんな幼い頃に、主君上杉景勝と出会うとは・・・

幼馴染のようであり兄弟の関係であったと考えていいですね。

https://youtu.be/ZCzLg2DQgcI(直江兼続の主君上杉景勝の動画)

 

 

直江兼続は、愛妻家だった!!

いつ命を落としてもおかしくない戦国時代の武将たちは、正室の他に何人もの側室を持ち、子供を作り、家を存続されてきました。

そんな戦国武将で珍しく直江兼続は、たった一人の女性・・・・お船の方だけのみ妻にしました

お船の方は、直江兼続より年上で未亡人でした。直江兼続は、直江になるまで樋口でしたが、お船の方の婿養子になり、直江家を継ぎます。

直江家には、お船の方しか子は、なく最初は違う男性が婿になりましたが、家の問題で暗殺されてしまい、お船の方は、未亡人になってしまいましたが、直江兼続が二番目の夫として直江家に婿入りします。

年上でしたが、お互い大事に思いやって支え合って仲が良い夫婦でした、大河ドラマを見ても二人は、いい関係だったと感じました。

直江兼続は、お船の方より先に亡くなりましたが、お墓は隣同士です。

亡くなった後も仲良く隣で本当にいい夫婦だったと思いました!!

 

 

関ヶ原の戦いのきっかけとなった直江状とは?

関ヶ原の戦いにきっかけになったのが・・・・直江兼続が書いた書簡だったとは・・・

知っていましたか?

私は、関ケ原の戦いが直江兼続の直江状がきっかけなのか気になり調べてみました!!

直江兼続が、直江状を送ったのは、上杉家の交渉役だった僧に送りました。

内容は、簡単にすれば・・・・

徳川家康の怒りを買う文章でした。

直江兼続は、文人としても名高い人物でもありましたので、上手く書いたと思いますが、徳川家康の怒りを買うのは、まずかったのです。

当然怒った徳川家康は、会津討伐を決意したのが関ヶ原の戦いのきっかけでした。

「関ケ原の戦いのきっかけが直江兼続の書簡だと分かった時、よく力をつけていた徳川家康に喧嘩が売れるなと・・・・」

と私は、考えましたが、当時上杉家は、徳川家康から不遇な扱いをされていましたし、主君思いの直江兼続の心中を思うと、仕方なかったのでしょうか?

幼い頃から仕えていた上杉景勝、そして民たちの事を考えて書簡を書いたのだと思いました。

https://binged.it/2qLSvQC(直江状に関する動画)

 

 

直江家断絶の理由は?

直江兼続は、正室お船の方しか居ませんでしたが、子供は3人居ました。

・男子 景明

・女児 於松

・女児 於梅

一男二女の3人の子供に恵まれましたが・・・・

3人とも早く亡くなってしまいます。

長女於松は、直江家の跡取りとして徳川家の家臣である本多正信の次男と結婚しますが、結婚した次の年に病死します。結婚した本多正信の次男は、直江家を去ることに・・・

跡取りとなるはずだった男児景明も病弱だったので早くに亡くなってしまいます。

兼続は、お船の方だけで側室は持ちませんでした。

上杉景勝は、兼続に養子を取る事を薦めますが・・・・

兼続は、自分の代で直江家を断絶されると決めました!!

お家の為に戦って来た直江兼続がどうして断絶を決意したのか?

・関ケ原の戦いの後、上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封された

・厳しい財政難だったが上杉景勝は、家臣を誰一人も辞めさせなかった

直江家は、名門家でしたが上杉家の家臣に過ぎなく、上杉家から高禄を与えられている身分です。それで家を断絶される事で違う所で禄を使えるようにしようとしていたのではと考えられています。

上杉景勝は、幼い頃から仕えたくれた直江兼続を忠義者だと思っていたのではないでしょうか?

家を自分の代で断絶されると決意した直江兼続は、悩んだ末に名門の家を自分の代で終わられると考えたもう一つの理由は・・・・

早く三人の我が子を亡くした悲しみからもあると感じます。

 

 

直江兼続は、文人としても有名!!

有名な書物を集めたことで有名な文人で、その教養の深さは、徳川家康、

豊臣秀吉から高く評価されていました。

 

 

まとめ

直江兼続の兜の愛の意味と家紋を調べると同時に直江兼続は、どんな戦国武将だったのか?・・・・・

まとめて見て、私は、直江兼続と主君である上杉景勝の兄弟のような間柄と信頼関係で結ばれた主従関係にあったんだなと分かりました。

 

直江兼続の兜は愛!?

・直江兼続が兜に、愛を使用したのは、武神から取った説と民を戦場でも思っていたという説があります。私は、戦場でも民を思って兜に愛を使用したのではないかと思いました。

直江兼続は、民の為に色々な政策を考え、少しでも民の暮らしが豊かになるように願っていましたから・・・

 

直江兼続の家紋は?

・三つ盛亀甲に三つ葉

・三つ盛亀甲に花菱紋

 

直江兼続が使用していたとされる家紋は、現在でもはっきりしませんが「三つ盛亀甲に三つ葉」と「三つ盛亀甲に花菱紋」が有力視されています。

直江兼続は、上杉景勝の信頼できる家臣で幼馴染でもありました。二人共お互い信頼できる間柄だと思いました!!

 

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